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見えない存在


 ある日、僕はふと、「誰かが見ている」ような気がした。

 人間がいなくなったこの世界で、そんな感覚はおかしいのかもしれない。

 でも、確かにあった。


 背中の毛が逆立つほどの恐怖ではなく、

 ただ、ほんの少し皮膚がざわつくような、気配のようなもの。


 振り返っても、誰もいない。

 音もない。


 けれど……空気が、違う。


 新橋の地下道を通ったときだった。

 狭く、暗く、湿気に満ちたその空間で、僕は何度も立ち止まった。


 壁に貼られた古びたポスターが風に揺れていた。

 誰がめくったわけでもないのに、紙が「パタパタ」と動いた。

 風が吹いていたわけじゃない。


 なぜだか、そこで立ち止まらずにはいられなかった。


 人間たちは昔から「幽霊」や「残留思念」といった言葉を使って、こういうものを説明しようとした。

 でも、猫の僕にとっては、もっと素朴で、もっと近いもの。


 それは「残ってしまった感情」だ。


 たとえば……

 誰かがここで毎日待っていた。

 帰ってこない人を、ずっとずっと。

 誰にも言わず、誰にも気づかれず。

 その気持ちだけが、壁に、床に、空気に染み込んでいる。


 そして今、それを感じる者は僕しかいない。



 その日は、誰もいない上野駅の構内を歩いていた。


 電気が切れた改札機。

 もう何も表示されない発車案内板。

 ホームには、止まったままの電車が沈黙していた。


 でも……そこには、確かに「人間の気配」が残っていた。


 ホームのベンチに置かれた紙袋。

 中には、開封されていないままのパンとお茶。

 きっと誰かが、「明日食べよう」と思って、そこに置いたまま消えた。


 その“明日”は、もう来ない。


 でも、「明日を信じていた気持ち」は、袋の中にまだ残っていた。


 僕はそのベンチに座って、少しだけ目を閉じた。

 誰かがここに座って、疲れた足を休めていたかもしれない。

 愚痴をこぼしていたかもしれない。

 恋人を待っていたかもしれない。


 僕にはわからない。

 でも、ここに「誰かがいた」という事実だけは、ちゃんと伝わってくる。


 目には見えない。

 声も聞こえない。

 でも、確かに存在していた。


 それが、この都市の「本当の姿」なのかもしれない。



 僕は、ある廃ビルの非常階段をのぼった。

 10階。

 扉は少し開いていて、中には風が通り抜けていた。


 部屋の中はオフィスだったようだ。

 散らばった書類、倒れたパソコンモニター、カレンダーが止まったままの壁。


 壁際には、丸められたジャケットがあった。

 きっと誰かが「ちょっとそこまで」と言って出ていき、そのまま帰ってこなかったのだろう。


 僕は、そのジャケットのそばに顔を近づけた。

 ほこり、古いインク、そして……かすかに香水の匂い。


 この匂いが、まだ消えていない。


 人間の“存在”は、思っているよりずっと長く世界に残る。

 匂い、体温、手の跡、気持ち。

 すべてが、すこしずつ、ゆっくりとこの都市の中に沈殿していく。


 猫の僕には、それが見えるわけじゃない。

 でも、感じることができる。


 そう思うと、少しだけ、この世界は“ひとりぼっちじゃない”気がしてきた。



 見えない存在。

 それは、怖いものじゃなかった。

 むしろ、「誰かが確かにいた証」だった。


 だから、僕は歩き続ける。

 その痕跡を探して。

 人間がどんな世界を生きていたのか、知るために。


 時々、自分の鳴き声が大きく響いて驚くことがある。

 それほど、世界は静かだ。

 でも、その静けさの中に、言葉にならないものたちが、たしかに息をしている。


 僕は、それらを「見る」ために生きているのかもしれない。


 目には見えないけれど。

 耳には聞こえないけれど。

 世界には、まだ“誰か”がいる。


 そう信じることで、今日もまた、生きていける気がした。

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