都市は、ずっと沈黙していた。
人がいなくなってからというもの、あらゆる人工的な音が消えた。
電車の走行音も、車のクラクションも、踏切の警報音も。
赤子の泣き声、酔っぱらいの怒鳴り声、スマートフォンの通知音、すべて。
代わりに広がったのは、沈黙。
いや、“沈黙”という音のない音。
それがこの都市を満たしていた。
でも、ある日——その沈黙が、ほんのわずかに揺れた。
それは最初、ただの違和感だった。
風の音に混じって、「シャラ……シャラ……」という、かすれた水音が耳に触れた。
ネコの僕にしか聞こえないような、儚い音だった。
初めは、それが“音”だと気づかなかった。
でも、何度もその音を拾ううちに、確信した。
この都市で何かが“動き始めた”のだと。
僕はその音の正体を確かめようと、街を歩いた。
すると、コンクリートの割れ目から、水が滲み出していた。
水はアスファルトを濡らし、まるで涙のように道路を流れていた。
最初は細い糸のようだったその水の筋が、次第に小さな流れへと変わっていく。
「……なぜ、水が?」
僕は見上げた。空は晴れていた。
雨など降っていない。
それでも、都市は濡れ始めていた。
かつて人間たちが地下に張り巡らせた給水管、排水溝、浄化槽。
彼らが管理を止めてからも、それらは長い間、惰性で動き続けていた。
でももう、限界だったのかもしれない。
劣化し、腐食し、圧が逃げ、そして漏れ出す。
街は、ゆっくりと内側から壊れはじめている。
僕は渋谷に戻った。
かつて、音と光と人間の熱気が交差していたスクランブル交差点。
その中央に立って、耳を澄ました。
「ポタ、ポタ……」
音がした。
交差点の中心、歩道の真ん中で、水たまりができていた。
真下の地面が、少しだけ陥没していた。
その裂け目から、ゆっくりと、茶色く濁った水が滲み出していた。
かつて、人間がそこに積み重ねてきた記憶。
通勤、買い物、デート、別れ、事故、ニュース、涙。
都市の下には、それらが堆積していた。
それが今、水とともにゆっくりと、表面へと滲み上がってきている気がした。
——まるで、都市が“泣いている”ようだった。
水の音を聞きながら、僕は思い出していた。
子猫だった頃、人間と暮らしていた日々を。
風呂場で遊んでいたとき、水滴がぽたぽたと垂れていた音。
夜、静まり返った部屋で、台所の蛇口から落ちる一滴。
その音には、不思議と“人間の存在”があった。
たとえ部屋に人がいなくても、音があれば「ここに人が住んでいる」と思えた。
でも今聞こえるこの水音は、違う。
それは、人間のいない都市が、ただ朽ちていく音だった。
誰の手にもよっていない。誰の生活にも関係しない。
だからこそ、この水音は……とても悲しかった。
猫の僕は、あまり「恐怖」という感情を知らない。
危険を察知することはあるけど、
“感情としての恐れ”を強く感じることはなかった。
でもその夜、僕は初めて、“未来に対する恐怖”を感じた。
もし、この水がこのまま広がっていけば——
都市は、すべて沈んでしまうかもしれない。
新宿も、渋谷も、秋葉原も。
あの賑わいが、記憶が、匂いが、音が、すべて水の底に沈んでしまう。
僕の存在も、たった一匹の生き残りとしてのこの旅も、
誰にも知られず、誰にも語られず、ただ静かに終わっていく。
そのことが、怖かった。
夜。僕は再び、鳴いた。
何日ぶりだろう。
誰もいない都市で、僕の声はアーケードに反響し、遠くへと伸びていった。
「……ああああああ……」
喉の奥が熱くなる。
僕の声は、まるで誰かにすがるようだった。
聞いてほしかった。
誰かに、この都市の今を。
この水の音を、この変化を。
僕はまだ、生きている。
誰かに、そう伝えたかった。
でも、誰も来なかった。
誰もいない。
それが、今の世界のすべてだった。
翌朝、僕は再び都市を歩いた。
東京駅、銀座、汐留、御茶ノ水。
水の音は、もうあちこちで鳴っていた。
まるで見えない川が都市の地下で流れていて、
その音が、都市の“遺言”のように聞こえてきた。
「僕はここにいた」
「人間は、ここで生きていた」
「愛して、傷ついて、笑って、泣いて、消えた」
都市は静かにそう語っていた。
でも、その声はすぐに水に溶けて、音にならなくなった。
都市の終わりは、大きな爆発ではない。
誰かの怒号でも、警報でもない。
それは、水の音とともにやってくる。
静かに、確実に、あらゆる記憶を浸食しながら。
僕は、濡れた足を持て余しながら、
それでも歩き続ける。
もしかしたら、僕は“記録者”なのかもしれない。
誰も見ていない終わりを、ただ見つめているだけの存在。
それでもいい。
誰かが、見ていたという事実が、あるだけで違うから。
水はすでに、僕の足元を濡らしている。
都市は、もうすぐ姿を変える。
でも、僕はまだ、歩いていく。