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記憶の欠片


 ある廃墟のマンションの1階、コンビニの跡地で、僕は最初の「記憶の欠片」を見つけた。


 自動ドアは開かず、ガラスは割れ、内側には倒れた棚と埃まみれの商品。

 缶詰、カップ麺、電池、お菓子……時間が止まったように並んでいる。

 だが、その奥、レジカウンターの下で、濡れた紙の束が散らばっていた。


 それは、日記だった。


 人間の言葉で綴られた、誰かの日常。

 ページはところどころ濡れて読めなかったが、いくつかの言葉が、かすかに残っていた。


 ——今日も会社に行きたくない

 ——猫カフェに寄って少しだけ心が休まった

 ——あの人から連絡が来なかった

 ——でも、夕焼けがすごく綺麗だった


 その文字は、震えていた。

 きっと、書いた人の手も、心も、揺れていたのだ。


 僕はそのノートの上に、そっと座った。

 ぬくもりはもうなかった。

 でも、このノートは確かに、「誰かがここに生きていた」ことを証明していた。



 別の日、僕は錆びた公衆電話の前に立っていた。

 今は誰にも使われないその装置は、かすかにその形を残していた。

 受話器は下に落ち、コードはちぎれ、受信口には埃が詰まっている。


 それでも、僕はその受話器にそっと鼻先を近づけた。


 かつて人間たちは、ここでたくさんの言葉を交わした。

 告白、謝罪、別れ、再会、報告、叱責、沈黙——

 どれも、もうこの街では聞けなくなった音たち。


 僕は目を閉じて想像する。

 この電話に向かって、「ただいま」と呟いた人。

 夜中、泣きながら「ごめんなさい」と言った人。

 最後に「生きてるよ」と、誰かに伝えたかった人。


 言葉は、風のようなものだ。

 消えるのが早く、残るものは少ない。

 けれど、誰かが話した記憶は、この電話機の奥に今も、響いているように感じた。



 ある民家に入り込んだとき、床の上にアルバムが落ちていた。

 水に濡れた写真の端がめくれ、何枚かは色が滲んでいたが、1枚だけ、はっきりと残っていた。


 家族の写真。

 小さな男の子が、母親に抱かれて笑っていた。

 父親は眼鏡をかけて、少し照れたような表情。

 家の前で撮られたらしい。後ろに同じ玄関が写っていた。


 ——この家族は、いま、どこにいるのだろう。


 もういないのかもしれない。

 けれど、この1枚が、彼らの「生きた証」だった。


 僕はその写真を、何度も何度も見た。

 猫の目には、色がやや鈍く映る。

 でも、その中にあった表情の「温度」だけは、しっかりと感じ取れた。


 写真に写る彼らが、確かに「生きよう」としていたことが、わかった。



 池袋の駅構内。

 水がうっすらと床を覆う中、僕はガラケーのような古いスマートフォンを見つけた。


 画面は割れていたが、まだわずかに光っていた。

 タッチはできなかったが、通知の一部が読み取れた。


 ——「帰ったら話そう」

 ——「今日もありがとう」

 ——「会いたい」


 それらのメッセージが、最終的に未読のまま止まっていた。


 届かなかった言葉。

 発信されたまま、返されなかった想い。

 それらが、この小さな端末にずっと閉じ込められていた。


 人間がどれほど“つながり”を求めていたか。

 でも、それでも“届かないこと”があるという現実。


 それは、猫の僕にも、痛いほどわかった。



 最後に、僕は地下鉄の通路で、一枚の紙を見つけた。


 濡れて、しわくちゃになったその紙には、震えた文字が走っていた。


 ——誰にも責任はありません

 ——自分のことが嫌いでした

 ——でも、最後の最後に、あのネコと目が合ったとき

 ——少しだけ、生きていたいと思った


 ……僕?


 その「ネコ」が僕かどうかは、わからない。

 でも、その瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


 もしかしたら、ほんの一瞬の眼差しが、誰かの心を揺らすこともあるのかもしれない。

 僕たちの存在が、何かの意味になることがあるのかもしれない。


 猫なんて、ただの動物だ。

 でも、その存在が「記憶」になることもある。

 その可能性が、ここには残っていた。



 都市を歩き、あちこちに落ちている“記憶の欠片”を拾い続けるうちに、僕は気づき始めた。


 それぞれが、誰かの“人生のひとコマ”だということに。

 それが束になれば、一つの都市になる。

 一つの国になる。

 そして今、その大きな構造が、音もなく崩れている。


 記憶を拾うたびに、心が重くなった。

 それは「悲しみ」ではない。

 もっと静かで、もっと重い、

 ——「孤独そのもの」だった。



 誰かの記憶を拾って歩くたびに、

 僕の中にも“誰かの時間”が溜まっていった。


 でも、それらを僕はどうすればいい?


 誰にも届けられない。

 誰も、もういない。


 けれど、それでも、僕は見た。感じた。

 人間という生き物が、どれだけ一生懸命に「今日」を生きていたかを。


 だから……僕は、それを忘れない。



 風が吹く。

 空は静かで、街は水音に沈み始めている。


 でも、風の中に、かすかに聞こえる。


 あの笑い声。

 あの足音。

 あの呼びかけ。

 あの、泣き声。


 それらはもう戻らない。

 けれど、確かにここにあった。


 そして今、そのすべてを僕が“見た”。

 それだけは、忘れないように。

 この世界の終わりまで——。

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