目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

日本の終焉


 ある朝、僕は目を覚ましてすぐに異変に気づいた。

 空気が重い。

 地面の匂いが、昨日よりも「湿っている」。


 耳を澄ませば、どこか遠くから「ゴォォォォ……」という、低く、鈍く、うねるような音が聞こえていた。

 まるで巨大な獣が、地下でうずくまって唸っているような。


 それは、風ではなかった。

 電車でも、車でも、誰かの声でもない。


 僕は知っていた。

 これは、「地面が鳴っている」音だと。


 そして、それが“終わり”の合図であることも——。



 都市は、確かに沈み始めていた。


 新宿の高層ビルは、足元から水に侵され、ひとつずつ崩れていく。

 アスファルトの下から湧き出した地下水が、ビルの根を腐らせていたのだ。

 コンクリートは、もろく、無力だった。


 東京駅の丸の内口。

 赤煉瓦の建物が、音もなく崩れ落ちる瞬間を、僕は見た。

 まるで、積み木の塔が倒れるように。

 そこには誰もいないのに、崩壊には「静かな壮絶さ」があった。


 街路樹が浮かぶ。

 信号機が、水面に立っている。

 電車の車両は半分水に沈み、魚のように口を開けている。


 水は、東京を包み込む。

 音もなく。怒りもなく。

 ただ、淡々と、“すべてを静かに終わらせる”ために。



 僕の体も、少しずつ弱っていた。


 長く旅をしてきた疲れ。

 変化し続ける都市の湿気と寒さ。

 そして何より、誰にも触れられない孤独の重さが、僕の四肢を重くしていた。


 最近、呼吸が浅くなった。

 背中の毛が抜け、肉球がひび割れる。

 かつて軽やかだった足取りは、今では泥を引きずるように鈍い。


 でも、不思議と痛みはなかった。

 痛みを感じるには、もう十分すぎるほど沈黙に慣れてしまっていたのだ。


 それでも、僕は歩く。

 この目で、終わりを見届けるために。



 僕は東京湾へと向かった。

 かつては巨大な商業地であった臨海地区。

 ビル群のほとんどは沈み、その間を水が流れていた。


 レインボーブリッジが落ちていた。

 東京タワーの先端が折れていた。

 スカイツリーの上半分は雲の中に溶け、根元には濁流が渦を巻いていた。


 そして、その向こうに、海が広がっていた。


 もう、日本列島の「形」は保たれていないのかもしれない。

 沿岸部はすでに飲まれ、内陸も時間の問題だ。


 かつて「日本」と呼ばれていたこの場所は、

 静かに、地図から消えようとしている。



 おかしな話だけれど、

 僕はどこかで「終わり」に安らぎを感じていた。


 ずっとひとりで歩き、見て、感じてきたけれど、

 その旅には“ゴール”がなかった。


 生きることに意味を見出せないまま、

 誰かに褒められることもなく、ただ呼吸だけを続ける日々。


 だからこそ、終わりがあるということは、

 それだけでひとつの「意味」になるのかもしれない。


 旅が終わる。

 この世界も終わる。

 でも、何もなかったわけじゃない。


 ——たくさんの“記憶”があった。

 ——たしかに、“生”があった。



 海沿いのコンクリートに立ち、僕は小さく鳴いた。


 誰に向かって?

 それは、きっとこの世界そのものに。


 ——ありがとう

 ——忘れない

 ——ごめんね

 ——さようなら


 鳴き声は風にかき消され、水面に飲まれていく。

 でも、それでよかった。

 誰かに届く必要はない。

 僕が「鳴いた」という事実だけが、ここにあればよかった。



 その日の夕暮れは、不気味なほど美しかった。


 濁った水面に、真っ赤な太陽が映っていた。

 都市の廃墟が、水に浮かぶ島のように見えた。

 音もない。人影もない。

 けれど、空だけは、何も変わらず美しかった。


 そして、ゆっくりと太陽が沈んでいった。


 ——まるで、日本という国が、

  そのまま西の水平線へと沈んでいくようだった。



 僕はもう、長くはないのかもしれない。

 でも、今なら言える。


 この世界は、美しかった。

 儚くて、傷だらけで、矛盾だらけで、それでも人間たちは必死に生きていた。


 人間を好きになれなかったこともある。

 ひどい目にもあった。

 でも、優しい人もいた。

 目が合っただけで、撫でてくれた人もいた。

 餌をくれた人、話しかけてくれた人、黙って隣にいてくれた人。


 そういう人たちのことを、僕は一匹のネコとして、ずっと覚えている。


 だから、もしまた世界が始まるなら、

 ——もう一度、人間と生きたい。



 こうして、日本が沈んでいく。

 この国の名前も、歴史も、文化も、もう誰の記憶にも残らなくなるだろう。


 けれど、この都市に、一匹のネコがいたことを。

 そのネコが、最後まで世界を見届けようとしたことを。


 この物語が終わるとき、

 その記憶だけが、ほんの少し残るかもしれない。


 ——それで、充分だった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?