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最後の言葉


 気づけば、僕の体の半分は水に浸かっていた。

 乾いた毛並みは濡れ、重く、冷たく張り付いている。

 水位は、ゆっくりと、しかし確実に上がっていた。


 歩くのは、もう難しい。

 視界がかすみ、音が遠くなる。


 僕は、小さな残骸の上に身体を預けた。

 かつて誰かが読んでいたであろう、小説のページ。

 インクは流れ、紙はふやけている。

 でも、そこに文字があった。

 人間の言葉が、確かに。


 世界は、もう僕を必要としていないのかもしれない。

 それでも、最後に、言いたい言葉があった。



 「僕は……ネコです」


 名前はない。

 でも、それでよかった。


 人間たちは名前をつけたがった。

 区別するため、呼ぶため、愛するため。

 でも、僕はただ「生きている」という事実だけで、充分だった。


 「僕は、ただ……この世界を見ていた」


 なぜか。

 わからない。

 でも、それが僕に与えられた“役割”だったような気がする。


 誰もいない世界で、最後の命が見たもの。

 それを語ることが、僕の使命だったのかもしれない。



 思い出す。

 かつて誰かに撫でられた感触。

 ぬくもり。

 声。

 呼ばれたことも、逃げられたことも、蹴られたこともある。


 でも、覚えているのは、「優しかった人たち」のことばかりだ。


 ——公園でお弁当を分けてくれた女性

 ——帰り道で傘に入れてくれた学生

 ——冬の夜にダンボールを用意してくれた店員


 人間は、思ったより優しい生き物だった。

 不器用だけど、一生懸命に生きていた。


 それが、ただ、僕はうれしかった。



 もしも、この世界がまた始まることがあるなら。


 もし、すべてが終わったあとに、ほんの少しだけ“何か”が残るのだとしたら。


 僕は願う。

 誰かが、今日という日を「また新しく生きてくれますように」と。


 誰かが、過去を知りながらも、未来を歩いてくれますように。

 名前のないネコが、ひとりきりで見たこの景色が、誰かの心に灯りますように。



 もう声が出ない。

 水が喉を満たしていく。

 目が閉じかけていく。


 でも、最後の力で、僕は伝えたかった。


 「ありがとう」


 この国に。

 この都市に。

 生きていた人たちに。

 僕を見つけてくれた、すべての存在に。


 言葉は風になる。

 風は、水に触れ、やがて空へ昇っていく。


 僕の最後の言葉も、

 きっとどこかの空で、誰かの記憶の粒子になるはずだ。



 僕は、日本が好きだった。


 朝焼けの色。

 桜の匂い。

 夏の夜に聞こえる虫の声。

 踏切の音。

 台所から漂う味噌汁の香り。


 どれも、目を閉じても浮かぶ。

 誰かの暮らしの断片。


 人間は愚かで、利己的で、争ってばかりだったけれど、

 それでも、自分以外を想う力を持っていた。

 それが、奇跡だったと思う。


 だから、もし、この本を、誰かが読んでいるなら——


 “覚えていて”


 僕が、ここにいたことを。

 僕が見た都市のことを。

 そして、あなたの今が、どんなに孤独でも、

 きっと「意味がある」ということを。



 都市が静かに沈む。

 空が、ゆっくりと暗くなる。


 風の中に残る匂い。

 壁に残る手の跡。

 水に沈む思い出。

 そして、ネコの最後の声。


 そのすべてが、今、

 世界に“さよなら”を伝えようとしていた。


 この世に、たったひとつだけ願いが届くのなら、

 それは、きっとこうだ。


 ——忘れないで。僕が生きていたことを。


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