水が僕の体をすっかり包んだ。
息ができない。目も開けられない。
だけど、不思議と恐怖はなかった。
まるで眠るときのように、静かで、あたたかい。
音も光も、すべてが遠ざかっていく。
でも、意識だけは、まだ沈まずにそこにあった。
最後の最後に、僕は、静かに「世界」を思い出していた。
都市。
崩れた高層ビル、空っぽのコンビニ、電気の消えた交差点。
草が生えた道路、鳴かなくなった自動販売機、落ちたカメラ。
人間が去ったあとに残されたものたち。
それらのすべてが、僕にとっては「誰かの気配」だった。
僕は、それをずっと見ていた。
記録するように、目に焼きつけるように。
なぜか。
それが僕の役目だったから。
そう、思うことにした。
生きていたあいだ、僕は誰にも名前を呼ばれなかった。
誰にも見つけられなかった。
ただ、都市を歩いて、感じて、鳴いて、生きていた。
でも、それでよかった。
僕の役目は、何かを変えることではなかった。
ただ、そこに“いる”こと。
そして、世界が終わる瞬間を、確かに“見届ける”こと。
誰もいない世界にも、見る者がいた。
それが、僕。
それだけで、この世界は「独りぼっちじゃなかった」と言える。
人間は、「見ること」に価値を置いていた。
映像、SNS、リアクション、視線。
見ることは、存在を認めることだった。
じゃあ、僕は?
ネコの僕は、この世界を「見て」、何を残せたのだろう。
たぶん……何も、残せなかった。
でも、それでも僕は、世界を“知った”。
人間という不思議な生き物のことを、都市という生き物のような存在のことを。
見るということは、きっと、
「誰かを忘れないこと」なのだと思う。
僕は、忘れない。
この国のことを。
この都市のことを。
そして、人間という生き物のことを。
世界は、もう終わったのかもしれない。
都市は沈み、人間は消え、あらゆる営みが止まった。
でも、終わりの中にも、何かが残る。
たとえば——
ビルのひびに咲く花。
沈んだ駅に漂う光。
空に浮かぶ雲と、その合間から差し込む朝のような予感。
命は尽きる。
でも、記憶はどこかに滞在する。
時間の粒子となって、空気に溶ける。
それが、風になる。
そしてまた、誰かがその風を吸い込むかもしれない。
誰かが、もう一度、この世界を見てくれるかもしれない。
そのときに、そっと思い出してくれたらいい。
——ここに、ネコがいたことを。
ありがとう。
それは誰にも届かない言葉。
だけど、世界に向けて、どうしても言いたかった。
ありがとう、日本。
ありがとう、人間たち。
ありがとう、都市。
ありがとう、空と、光と、音と、影。
僕に「生きてよかった」と思わせてくれて、本当にありがとう。
そして僕は、静かに目を閉じる。
世界の終わりを、ちゃんと見た目で。
心で。
命で。
それが、
——僕が見た世界。
それが、
——僕の最後の物語。
読者への手紙
もしあなたがこの本を手に取った誰かなら。
それはきっと、もう誰もいないこの世界に生まれた、
“新しい誰か”です。
この物語は、誰かが見た記憶です。
小さなネコが見つめた、ある文明の終わりです。
でも、ここに記された想いは、あなたの中に生きていきます。
だから、どうか忘れないで。
どんなに小さくても、見ていた存在がいたことを。
そしてあなた自身が、
「今を生きている」ということを。