小さな赤いてんとう虫が、朝の光に包まれながら、庭の茂みをゆっくり進んでいく。
その後ろ姿を、ティーナはそっと見つめていた。
丸く刈り込まれた低木の根元、花々の間にしゃがみこみ、息を詰めるほど集中してその小さな命の動きを追う。
やがて、顔の近くまで指を寄せてみると、てんとう虫がちょこんと乗った。
その瞬間、ほのかにくすぐったい感触が肌に伝わる。
「あなたは、小さくて綺麗ね」
ティーナは優しく声をかける。
てんとう虫は羽を広げることもなく、彼女の指の上を慎重に進んでいく。
その様子がどこか愛おしくて、思わずもう一度微笑んだ。
「私も……そんなふうに、なれたらいいのに」
指先のてんとう虫を見つめながら、ぽつりとつぶやく。
庭の色とりどりの花は、誰にも誇示することなく、ただひっそりと咲き続けている。
その控えめな美しさに、ティーナは自分自身を重ねていた。
バルティネス男爵家は、貴族の名を冠しながらも、ささやかな屋敷に過ぎない。
壁には古びた風合いが残り、庭には街から遠く離れた静けさが漂う。
華やかな祝祭や賑やかな訪問客の気配は、ほとんど届くことがない。
けれど、ティーナはこの庭の穏やかさを、心から愛していた。
そのとき、ふいに背中へ声が飛んできた。
「そんなところにいたら、日に焼けるわよ」
ティーナが振り向くと、妹のソフィアが腕を組み、不満そうに立っていた。
「また古いドレスで草むらに? 本当に、お姉さまって女の子らしさが足りないのよね」
「誰かに見せるつもりもないし……これで十分だもの」
「でも、友達が言ってたわ。ティーナ様はきれいだけど、服が本当にダサいって」
「そんなことまで考えてる暇、私にはないの」
ティーナは静かに立ち上がり、スカートの裾についた土を払った。
ソフィアはわざとらしく息をつくと、少しだけ眉をひそめる。
「どうしてもお姉さまはマイペースなのよね……まったく」
その表情には呆れが混じっていたが、どこか寂しげな色も見え隠れしている。
屋敷の窓辺から、家族の笑い声が聞こえてきた。
ティーナはそちらへそっと視線を向ける。
家の中に入ると、母マルレーネの明るい声が響いてきた。
リビングのソファには、母が父クラウスの肩にもたれかかり、柔らかく微笑んでいる。
父は姿勢を崩すことなく、しかし目元にはやわらかな光を宿していた。
「クラウス、あなたったらもう……ふふ、本当に好き」
「マルレーネ、子供たちの前だぞ」
「いいのよ。見て、知って、愛することを学べばいいのだから」
そんな母の様子に、兄のエドワードは呆れたようにため息をもらす。
傍らで剣の手入れを続けながら、そっと妹たちに目を向けた。
「また始まったな……」
それでも、どこか温かい空気が家族の間に流れている。
夕暮れには長いテーブルに家族が集まった。
母がフォークで刺した肉を父に差し出し、父は少し照れたように口を開く。
兄は眉をひそめて、ソフィアはパンをかじりながらぽつりと呟いた。
「わたしも、いつかこんなふうに愛されたいな」
ティーナはそっとナイフを持ち替えた。
侍女のベアトリスが近づき、小声で助言する。
「姿勢をまっすぐに。ナイフは内側から切ってください」
「うん、ありがとう」
食事が終わると、父がナプキンをそっとテーブルに置く。
「ティーナ。お前も、もう十六か」
「……はい」
「そろそろ婚約者を見つける時期だぞ」
その言葉にティーナの手が小さく震えた。
けれど、表情は変えないまま、ゆっくりとうなずく。
「……はい」
父は厳しい顔を崩さず、短く念を押す。
「わかったな?」
「……うん」
小さな声がテーブルに落ちた。
ソフィアはその言葉に目を輝かせて話し始める。
「婚約って、いいなあ。どんな人がいいかな。背が高くて、優しくて……でも、ちょっと冷たいのも素敵かも」
ティーナは空想にふける妹の横顔を見ながら、そっと椅子を引いた。
夜の帳が降りる。部屋に戻ったティーナは、月の光に包まれた窓辺に立つ。
手袋越しの手を静かに見つめ、「……私の手で、誰かと、つながってもいいのかな」と声を漏らした。
薄いカーテンが風に揺れ、月の光が静かに彼女を照らしていた。