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第33話

炎が夜を裂いていた。砦が焼け、城壁が崩れ、民の悲鳴が風に乗って遠ざかっていく。

クラウスは闇夜に紛れて馬を進めていた。人けの少ない丘陵を抜け、川を渡り、音を殺してただ前を目指す。目指すのは敵王の本陣。ただひとつの希望を求めて、勝ち目のない戦に最後の望みを託していた。


この突撃で戦の趨勢が変わることはない。だが、将として、男として、自分の中の何かは終われずにいた。月光に紛れ、馬の鼻先を押さえながら、王の陣の近くまで進む。草を踏む音も息づかいも封じ、夜の中を静かに進む。

──見えた。

天幕の奥、高台に馬を立てる男。王の背中だった。その周囲には数人の重臣が燃える町を無言で見下ろしていた。勝利と炎の美しさに酔っているようだった。


クラウスは無言のまま鞭を振るう。馬が地を蹴る。力強く、短く、鋭く。

瞬間、王が振り返った。目が合う。その直後、クラウスの剣が王の肩を裂いた。血が噴き出し、怒声が飛ぶ。衛兵たちが慌てて動き出す。


だが、それだけだった。

──ここまでか。

最後の賭けは、成功とは言えなかった。王は倒れず、町は燃え、味方はすでに散っていた。


それでもクラウスはかすかに笑った。全てをやり切った者の顔だった。逃げ道はなくとも、もう悔いはなかった。だが、将軍としての誇りで馬を走らせる。死ぬのなら自らの手で終わらせる。それが誇りだった。

闇の中、再び鞭を打ち、馬が駆け出す。矢が飛ぶ前に夜の森へ沈んだ。血のにおい、土の感触、汗のしぶき。その全てを纏いながら、ただ前だけを見ていた。


どれほど走っただろうか。馬はやがて息を乱し、足を取られてついに膝から崩れる。その場に倒れ伏し、動かなくなった。

クラウスも地に手をつき、空を見上げる。死ぬつもりだった。ここで終えるのが、将としての最後だと思っていた。


──だが。


ふと脳裏に浮かぶのは、最後に見た王の姿だった。甲冑に守られ、側近に囲まれ、裏門から密かに逃げようとしていた愚王。

あれに仕え、命を捧げるなど、もはや笑い話にしかならない。


「……それは、違う」

つぶやくように言い、クラウスは腰の剣を抜いた。夜露で濡れた足を前に出し、刃を静かに押し当てる。そして深く、自らの足に傷を刻む。


──生き延びるために。


血が噴き出し、痛みが脳を突き抜けた。けれど、その痛みは意志だった。奴隷兵として使えぬ者と見なされれば、生き延びることができる。将の名も捨てて。ただ一人、“ノルド”として。



鎖が足に食い込み、荷車の中で吐息が白く揺れていた。

クラウス──いや、ノルドと名乗った男は、敵兵に運ばれていた。彼の名を知る者はもういない。生き残った町も砦もない。


名を問われたとき、彼はためらわず言った。「……ノルド」

口にした瞬間、自分が何者であったかを手放した。それでも胸の奥には、消えぬ熱があった。


奴隷徴用所。


足を引きずる彼は「使えぬ者」として安く売られ、辺境の町「エルバート」へ送られることになる。

山道を抜けた先、湿った空気の中で馬車が丘を越えたとき、木と石でできた小さな町が見えてきた。遠くで鐘の音が鳴り、朝の煙が空へ昇っていた。


「降りろ」

怒号とともに荷台の扉が開かれた。ノルドは、まだ乾かぬ包帯を足に巻き直しながら地面に降り立つ。


町の広場。井戸のそばに、ひとりの少女がいた。白い水桶を抱えた腕がかすかに震えている。彼女はふと顔を上げ、奴隷たちの列を見つめた。


ノルドと目が合う。どちらからともなく、自然に視線が交わった。


そのとき、ノルドの胸の奥で、長い死闘と絶望の果てに残った小さな炎が、静かに、確かに灯る気配がした。

名を捨てた男と、町に生きる少女の最初の接点だった。

静かに、確かに、何かが始まった音がした。


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