漆黒の闇を裂くように、重く響くドラの音がクスタリカの夜に鳴り渡った。その瞬間、すでに勝敗の行方は定まっていた。
深夜を選び、敵軍を全軍出撃へと誘導したのは、クラウスが何重にも張り巡らせた策であった。敵軍十万、対するは一万。常識的に考えれば、夜襲は理にかなっている。弓や投石の標的になりにくく、守備側の対応も遅れがちになる。城門さえ破れば勝利は目前——敵将グラディオスも、そう信じて疑わなかった。
だが、クラウスにはまだ二万の兵が残されていた。さらに志願兵が一万加わり、合計三万。二週間の鍛錬では不安も残るが、士気の高さこそ最大の武器だった。
三万の兵には、短期間で鍛えられたとは思えぬほど統率が取れ、そして新型装備が与えられ、街の中には目に見えぬほどの罠が仕掛けられていた。敵の兵に油断があったことも、クラウスの計算に入っていた。
クラウスの狙いは、単なる勝利ではなかった。この町の未来を見据え、流れる一滴の血すら無駄にしないための布陣を整えていた。若き将にして、名実ともに英雄。知力、胆力、実行力——そして誰よりも深い覚悟と、民を思う優しさ。それらすべてを備えた将であった。
決戦の火蓋が切られた。
グラディオス率いる本隊は東門に布陣していた。四方の門を同時に攻めれば勝利できると踏み、重く扱いづらい井闌車(せいらんしゃ)を置いてきていた。この城門ならば、四刻あれば十分崩せる——それが彼の読みだった。
二刻が過ぎ、西門が破られる。そこはグラディオスから最も遠い地点。老将である彼には、即座の対応は難しかった。知略に長けた彼であっても、時間は巻き戻せない。
偽装していた守備兵たちが、逃げるふりをして大声で叫んだ。
「西門が突破された! もうだめだ!」
敵軍は歓声を上げ、我先にと城内へとなだれ込んだ。報奨金を目当てに、早く功績を立てようと焦る兵たちは、油断と欲望のまま突入していく。戦場には秩序がなかった。敵兵たちは歓声と怒声を上げ、まるで競うように奥へ奥へと進んでいく。
すべての敵が城内に入ったのを見計らい、北門・南門からの援軍が到着する前に、鋼鉄の門が閉じられた。城壁の上に用意されていた重石が落とされ、仕掛けが作動する。閉ざされた門は二重構造であり、外からの突破は極めて困難だった。
侵入した敵は約二万。その多くが異変に気づいたときには、すでに閉じ込められていた。高い城壁が声を遮る。二刻のうちに殲滅は完了した。
遅れて到着した南北の援軍は、残された破城槌(はじょうつい)で門を破ろうと試みたが、器具は壊れ、持ち場へと引き返すしかなかった。
西門の次には南門の崩壊が近づいていた。クラウスは城壁を駆け、手旗炎棒で的確に指指令を送る。崩れかけた南門が内側から開かれ、守備兵が逃げ出す。
「南門が突破された! もうだめだ!」
混乱に乗じて、再び敵がなだれ込む。だがその先も袋小路。行き止まりで待ち構えていたのは、西門の敵を殲滅した3万の迎撃部隊だった。
一刻後、北門も同様に崩れる。再び敵が突入し、再び袋小路に迷い込む。北門への討伐隊派遣は不要だった。閉じ込められた敵は、袋小路で動けなくなり、投石、弓での遠距離攻撃で逃げ惑う。
その間に南門は再び閉じられ、制圧が完了する。各部隊は北門に集結した。その頃、グラディオスの主軍三万が到着したが、門はすでに閉ざされていた。残された破城槌で再度の突破を試みるも失敗し、本陣へと引き返す。
総攻撃の合図から、すでに六刻が過ぎていた。
街の民は、倒れた敵兵の装備を回収し、老若男女を問わずそれを身につけ、城壁の上にたいまつを掲げて立ち並んでいた。子どもたちは、用意された旗を高く振った。その光景が、ちょうど守軍の兵によってグラディオスの本陣に報告される頃、クラウスの計算通り、東の空は白み始めていた。
夜明けとともに、疲れを押して鎧をまとったクラウス達二万の騎兵が城外へと突撃する。朝日を背に、城壁の上には十万を超える兵に見える偽装兵。
そして、銀の嵐のごとく駆ける騎兵部隊が迫ってくる。その突撃は、練度も装備も士気も、敵兵の恐怖を駆り立てていた。
敵の守備兵はすでに疲弊し、士気も崩壊していた。もはや、敵の戦列は名ばかりのものとなり、誰もが心のどこかで「この戦は終わった」と感じ始めていた。
司令官は敗北を悟って逃亡し、残された四万の兵は、無抵抗のまま動けなかった。そしてクラウスよって説得され、取り込まれていった。ある者は、敵の旗を掲げて降伏し、またある者は涙を流しながら剣を地面に突き立てた。
副官が総大将グラディオスを連れて撤退を始める頃、グラディオスは自らの無力を悟って馬上で声を上げて泣いた。幾度も勝利を重ねてきた老将の、最後の戦いであった。
すべてが、計算され尽くされた結末だった。
クラウスは、町に戻るとすぐに負傷兵や倒れた者の手当てを命じた。戦いの余韻が街に満ちる中で、誰もが互いの無事を確かめ合い、喜びと涙が溢れた。敵兵でさえ、捕虜として寛容に扱われ、街の外れに新たな生活の場所が用意された。
マルレーネは、戦いのあとも一人ひとりの手を握り、傷を洗い、優しい言葉をかけて回っていた。彼女の笑顔は、誰よりも人々の心を癒やし、戦い抜いた男たちの胸に深く刻まれていった。
ロクスもまた、かつては罵倒されていた正規兵の指揮官として、今回の偽装作戦を見事に成功させ、名将と称えられることになった。その誇らしげな姿を、クラウスもマルレーネも心から喜んだ。
やがて、城壁の上で二人きりになったクラウスとマルレーネ。
クラウスは、静かに彼女の手を取り、夕陽を背にこう言った。
「お前がいてくれたから、ここまで戦えた」
「私こそ、あなたのそばにいたから、何も怖くなかった」
二人は肩を寄せ合い、静かに町を見下ろした。あの日、奴隷兵として泥を踏んでいた日々を思い出しながら、今はただ、互いの温もりだけを確かめていた。
戦いの傷跡は、いつか癒えるだろう。
だが、この街を守り抜いた誇りと、二人の絆だけは、何者にも消すことはできなかった。
夜空には、勝利を祝うかのような星々が輝き、街には新しい平和の息吹が満ちていた。
かつては奴隷だったクラウス。貧しき平民だったマルレーネ。
二人の愛と信頼が、クスタリカの未来を切り開いたのだった。
──英雄クラウス将軍と、心優しきマルレーネの物語は、こうして新たな伝説となって受け継がれていった。