「あ……なたは?」
ようやっと絞り出すように真宵が言うと、女は
「我が名は
「え、あの……」
女は周囲を見回す。
「蟲間をお持ちではないのですね。なるほど。ゆえに"
真宵には女の言うことがひとつもわからなかった。タテハ、セキジョオウ、セキチュウカン、ヤカカン、ジンカンオチ……。音だけが耳を通り抜けていき、頭の中でまったく意味を成さない。
「あなた、幽霊……ですか?」
思うままおずおずと尋ねてみるが、その時、女――立羽の顔色が変わった。雨の降りしきる窓外を振り向き、鋭い視線を縦横に巡らす。
「付けられた。
「えっ?」
「御心配、召されるな。心根の解らぬ
白い光の玉が窓の下から飛び上がってくる。立羽の時と同じだ。玉は白い蟷螂となり、瞬く間に霧散して、人の形になった。そしてヴェールを脱ぎ捨てるように、中から緑づくめの男が姿を見せる。
鋭く澄んだ翡翠の瞳に、腰まで流れる緑黒の長髪。頬の肉付きは薄く、表情は冷ややか。瞳と同色の衣に身を包んだその姿は、まるで山に仕える仙人のごとき静謐さをまとっている。
立羽は背後に立つ真宵を守るように片腕を伸ばした。
「緑蟲間、
「立羽殿、蟲聞きの悪いことをおっしゃいますな。私は別用で偶然、人界にいたというだけ。するとどうか。とある場所に突然、赤蟲間の気配が現れた。何事かと様子も見ずに帰着したとあらば、
「チッ……
「しかし来てよかった。華界中が数千年探し続けてきた
立羽の肩越しに覗き込んでくる緑の男に、真宵は身体を強張らせた。たおやかな物腰で笑みすら浮かべているというのに、男にはどこか信用ならない感じがある。
立羽がすかさず男の視線を遮るように身体を挟む。
「近づくな」
「独り占めなさるおつもりか。赤国のものでもあるまいに」
「知れたこと。もとより七国で分け合えるものではない。夜華君は我が赤国へお連れする」
深紅の袖がひらりと翻る。視界にそれを捕えたが早いか、真宵は自らの身体が宙に浮くのを感じた。かと思えば頬の横を猛スピードで風が駆け抜け、真宵は堪らず両目をぎゅっと瞑った。間髪入れずに冷たい水滴までもがパチパチと顔中を叩くようになる。
「ご不快でしょうが、しばしご辛抱を」
頭の上から声がして、真宵は薄目を開けた。見えたのは、夜の闇の中で自分を横抱きにしている立羽の赤い衣装。そして、その色を浮かび上がらせている光が街明かりで、自分たちがその上空を飛行しているという現実。
「ひっ!」
「じっとしておいでなさい。このまま華界へ参ります」
真宵は、女にしては身体の大きい立羽の腕にすっぽり収まっている。
「お、下ろして。僕っ、帰らなきゃ」
「あなた様のこの先の運命は、二つに一つです。私と華界へ上がり、赤国へ行くか。あの蟷螂に捕まり、緑国へ行くか」
「僕はっ、どこへもっ……!」
真宵は身体をよじる。その妨害のせいか、立羽の高度は徐々に下がっていく。
「おやめなさい、落としてしまいますっ」
「下ろして!」
「まったく聞き分けのない……!」
やがて立羽はとある公園に着地した。けれども真宵の身体を強く抱いたまま離そうとはしない。
真宵は地面間近になったことで、いっそう暴れ出す。するとそれを拘束する力も一段強くなった。
「痛いっ、離してよ!」
「できません。時間が無いのです。蟷螂は長距離を飛べないとはいえ、じき追いついてきます」
「この誘拐犯っ!」
「何にでもなりましょう。すべては赤女王の御為」
真宵を抱いた立羽は、花の咲きこぼれる花壇の中央に立った。
「結ばれし静寂、裂け目に滲む鼓動。透けた輪郭がほどけ、かつて名を持ちしものへと還る。囁け、
足元の花たちが一斉に白く発光した。言葉を失う真宵に立羽が言う。
「こうなっては、こちらから居場所を明かすようなもの。もはや一刻の猶予もありませぬ。夜華君。無礼を承知で申し上げます。この場で絞め殺されたくなければ、私の言葉を復唱なさい」
絞め殺す、と言ったとおり、真宵を抱く立羽の腕に尋常ならぬ力が込められる。脅しなのか本気なのか、考える間もなく息が詰まり、真宵の心臓は鼓動を速めた。
「我、華界へ還り」
真宵に選択の余地など無かった。ぎゅうと抱かれて息苦しい中、必死に声を発する。
「わ、れ……カカイにかえり」
「七神の
「シチシンの、しもべと、なるを」
「
「立羽殿」
ドッ、という重い衝撃のあと、天地がひっくり返った。けれども真宵の身体に痛みは無い。立羽の身体がクッションになったためだ。
緑色の
「夜華君をお渡しなさい。隻眼になりたくなくば」
二人の間に挟まれた真宵は、恐怖と混乱で息を乱していた。立羽の腕の力は緩まない。翠鎌の長い黒緑の髪が垂れて、真宵の頬にかかる。
「……くしょ、を……華君っ……!」
首を絞められた立羽の口から苦しげに声が漏れる。翠鎌が笑う気配がした。
「夜華君。赤国の赤女王は瀕死の身。そんな国へ付いたところで憂き目に遭うのは目に見えています。緑国へおいでなさい」
「ぼ、くは……」
ヤカギミなんかじゃない。けれど、立羽が鎌で突かれるのをこのまま見ていられるほど、薄情な人間ではないつもりだった。
「ここにちかう」
言った瞬間、立羽と真宵の身体から衝撃波のように光が放たれ、翠鎌を突き放した。
「愚かなことを」
そう呟く緑色の男の姿は、間もなく白光に遮られて見えなくなった。