天文十九年(1550)春。
夜気はまだ肌を刺すほど冷たく、城下の屋根には夜露が白く光っていた。
清洲城の大手門が、ぎい……と長い息を吐くようにきしみを上げて開く。
薄明の空の下、門前にはもう商人や農夫が列をなしていた。
肩に米俵を担ぐ者、牛車に塩の樽を積んだ者、干し魚の籠を抱える者。
土と海の匂いが混ざり合い、まだ眠い鼻をつんと刺す。
私は、その列の脇を、おずおずと通った。
胸の奥が、朝の空気とは別の冷たさで縮む。
今日からこの城で働くのだ。しかも、よりによって「帳場」だという。
剣も槍も取ったことのない私にとって、これは戦場も同じ。
筆一本が、私の刀であった。
城の回廊は、足を踏み入れるたびに、ひやりとした板の感触を通して背中にまで冷えが上る。
石垣の隙間から吹き込む風が、衣の裾を揺らした。
歩くうちに、ふわりと墨の匂いが漂ってきた。
ここが、私の新しい戦場——帳場である。
障子の向こうから、紙を繰る音、低く押さえた声。
恐る恐る戸口に立つと、朝の光が硯の水面をきらりと照らしていた。
机には算木や筆が整然と並び、壁際には米や銭の出納を記した分厚い帳簿が幾重にも積まれている。
その中央に、ひときわ背筋のまっすぐな男が腰掛けていた。
帳場の長、川瀬与右衛門殿——と紹介を受けた。
津島湊の廻船問屋の子だという。
痩せた頬に、刀のような鋭い眼光。
私の姿を頭のてっぺんから足元まで、一息に見据えた。
「ここでは、殿の御用も、家中の争いも、まず紙の上に載る。
筆を疎かにする者は、槍を落とす者と同じだ。」
短く低い声。
その言葉は、墨より濃く、私の胸にしみた。
思わず背筋を伸ばし、慌てて「はっ」と返す。
声がわずかに裏返ったのを、自分でも恥ずかしく感じる。
机の上の地図に目を落とすと、尾張の国が細かく描き込まれていた。
川筋、山道、湊、敵味方の城——色分けがされている。
傍らの古参が耳打ちしてくれた。
「戦ごとに色が変わるのだ。殿は槍も算盤も握れるお方だ。」
私はまだ信秀様を一度も見たことがない。
だが、その名を口にする時の古参たちの声色には、戦と商いの両方を支えた者の確信があった。
窓の外では、朝日が城壁を赤く染め始めている。
この墨と紙の戦場で、私は今日から息をしていく——
そう思った途端、また胸の奥が、冷たい緊張で固まった。
昼下がりの帳場は、硯の音と筆の走る音で満ちていた。
静けさの中にも、数字の一つが国を揺らすかもしれぬという張り詰めた空気があった。
その時——
「津島湊より、使い到着!」
城門の方から声が響き、すぐに駆け足の音が廊下を渡ってくる。
戸口から飛び込んできた男は、肩に風袋を担ぎ、顔は潮風と日焼けで黒く、衣には塩の白粉が浮いていた。
袋を下ろすと、塩と干魚の匂いが一気に広がり、墨の香と混じって帳場全体に満ちる。
「伊勢より四艘、積荷は米百石、塩三十樽、干物四十籠——」
川瀬与右衛門殿の声に合わせ、書役たちが一斉に筆を走らせた。
私も慌てて筆をとるが、墨をつけすぎて一文字がにじむ。
冷や汗が背をつたい、手元を見られていないかと視線を泳がせた。
数字の羅列は、やがて兵糧の備蓄となり、戦の勝敗をも左右する。
米の値が一文動けば、百石単位の損益が変わる。
机の上の帳簿は、戦場の床几にも等しい——そう思うと、背筋がさらに伸びた。
「京よりの使者、到着!」
今度は城の奥から声がかかる。
道中の埃をまとった使者が、細長い巻物を抱えて現れた。
川瀬殿が恭しく受け取り、私に「控えの間へ」と目で合図する。
私は両手で巻物を抱え、慎重に廊下を進む。
控えの間の襖を開けると、そこには既に信秀様が座していた。
初めて見る殿は、思ったよりも痩せていた。
頬の陰影が深く、その眼だけが鋭く光っている。
視線が私をひと撫でし、次の瞬間には巻物へと移った。
殿は封を切り、一読してわずかに目を細めると、すぐに言った。
「七百貫文、用意せよ。遅れるな。」
七百貫文——尾張一国の商いに匹敵する額だ。
一瞬、空気が止まり、私の喉も固まった。
その重さを測る術は私にはないが、城中の人々の息が揃って詰まったのはわかった。
「これで備後守の官位を賜れば、尾張の名は京に届く。
米も塩も金も、国の名を立てるための道具にすぎぬ。」
川瀬殿が頷き、出立の刻限、護送の人員、蔵の指定が瞬く間に決まっていく。
私は筆を止めず記録をとったが、殿の言葉の奥にある盤上の絵は見えなかった。
使者が去ると、殿は私の記録を一瞥し、低く言った。
「数だけでなく、意図も残せ。」
その一言は、墨の色よりも深く胸に刻まれた。
——
夕刻、帳場に湯の香りが漂い、古参たちが肩をほぐしていた。
その中で一人が、笑いながら言った。
「おまえ、那古野城の若殿を見たことはあるか。」
袴もはかず、茶筅髷に紅の紐、餅を片手に人の肩を借りて歩く——
茶屋の娘や米商人が見たというその姿を、口々に面白おかしく語る。
「大うつけだな、あれが殿の嫡男とは。」
笑い声の中、ひとりがぼそりと呟く。
「だが、あの目つきは只者ではない。」
私は笑うこともできず、ただ耳を澄ませた。
その夜、日誌にこう記した。
「若殿、奇行あり。評判は悪し。
ただし、その目に計り知れぬものあり。」
事実と噂は違う。
だが、どちらも記しておくことに意味がある——
そう、今はただ、胸の奥で繰り返した。
——
補記:織田信秀の評価(史実)
出自と台頭
織田信秀(生年不詳〜1552年)は、尾張守護代家臣の家柄から身を起こし、尾張下四郡を支配下に収めた戦国大名。
父・織田信定の後を継ぎ、清洲城・那古野城を拠点に勢力を拡大した。
戦功と外交
天文8年(1539)頃、美濃や三河への侵攻を行い、領土を拡張。
今川氏・斎藤氏など近隣大名との戦で敗北もあったが、短期間で勢力を再建する統率力を持った。
朝廷との関係を重視し、天文10年(1541)伊勢神宮の遷宮に際し七百貫文を寄進。これにより従五位下・備後守の官位を得た。
経済政策
津島湊を掌握し、伊勢湾交易の利益を独占。
熱田・津島など商業地の発展を後押しし、経済基盤を強化。
交易や市場整備を通じて、領内の安定と財政拡充を実現。
宗教活動
菩提寺として万松寺を建立(天文16年)。
京都・建仁寺の再建など、寺社への寄進も多く記録されている。
人物評価(史料)
『甫庵信長記』では勇猛さが強調されるが、一次資料では「器用の仁」(有能な人物)という呼称が残る。
現代の歴史学では、戦闘力・経済力・外交力を兼ね備えた名君と評価されることが多い。
江戸期の軍記物や講談で「苛烈な父」として描かれる傾向があるが、それは物語上の脚色と考えられている。