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第11話

蝉の声が、土塀の内で重たく鳴いていた。


林秀貞の屋敷は、夏の光を払うように障子をすべて引き、広間の行灯だけが、畳の面を浅く照らしている。青みはすでに褪せ、柱には長年の手脂が鈍く光っていた。


座が定まるや、柴田勝家が座布団を鳴らして腰を落とし、拳で畳を一つ叩いた。


「御老中の衆――このまま若に家を預けて、織田は持ちまするか」


声は低く抑えていたが、その響きは刃の背を畳に押し当てたように固かった。


「……わしは、潰れると思う」


行灯の火が、わずかに音を立てた。


林秀貞は扇を閉じ、膝に置いたまま、目を伏せる。林通具は兄の横顔をうかがい、扇骨を指先で弄ぶ。佐久間盛重は、黙して腕を組んだままである。


勝家はさらに言葉を重ねた。


「うつけ――と、城下ではすでにそう呼んでおる。派手な半袴、金糸の小袖、鷹と酒。兵は将を見て心を決めるもの。あの若造に、誰が命を預けましょう」


言い終えると、唇だけが歪んだ。笑みは冷たく、腹の底には火の芯のような熱が潜んでいた。


秀貞がようやく口を開く。


「若は若。いずれ落ち着く日もあろう。家は血脈で続くもの、軽々に動かしてはならぬ」


言葉は整っていた。整ってはいたが、芯に宿る疲れは隠せなかった。


勝家がすかさず遮る。


「落ち着く日までに、敵が待ちましょうか。美濃も三河も、若の奇行を嗤っておる。家中も揺れておる。裂け目は、広がる前に楔を打つほかはない」


拳が、再び畳に乾いた音を置いた。


林通具が兄の言葉を補うように口を添える。


「旗は血筋に――されど采配は手練に。…信行様ならば、人の声をよくお聞き入れなさる」


ぱちり、と扇の骨が鳴った。躊躇の音か、覚悟の音かは、誰にも分からない。


盛重が低く口を開いた。


「兵糧は算段できます。町の商人も、若君、信行様ならばと頷きましょう。…数は出まする」


数字を言わぬ数字が、座に沈んだ。


沈黙がひと呼吸、長すぎた。


秀貞が顔を上げた。年輪の影が、眼許に深く沈んでいる。


「……致し方あるまい」


扇を膝から外し、両掌で畳に置く。


「旗は信行様。後見は我ら。兵の割り振り――先鋒は勝家殿。後詰は我ら林。連絡と金の手配は、佐久間殿」


勝家が短く頷く。


「承った。言葉は少ないほどよい。事は早いほどよい」


そこからは早かった。


口数はさらに削がれ、役目だけが置かれていく。

どの手がどの槍を集め、どの蔵からどれだけ米を出すか。どの口をつぶし、どの口に噂を入れるか――。


一つ一つが、畳に小石を並べるように決まっていく。


外の蝉が、不意にやんだ。入れ替わるように、庭の裾で秋の虫が鳴きはじめる。


座を立つ順も、あらかじめ決まっていたかのようであった。裏手の通りへ、影が一つずつ溶けてゆく。足音も、衣擦れも立てぬ。


残った秀貞は、行灯の火をしばらく見つめた。


「義ぞ……義に違いない」


そのつぶやきは、灯の中で細くほどけ、消えていった。


家の奥では、女中が茶碗を拭きながら、いましがた広間で交わされた言葉のかけらを、耳の奥で転がしていた。意味は分からぬ。ただ、声の温度だけが残った。熱い声。冷たい声。固い声。


そして、その夜の匂いは、いつもより重く香の粉に満ちていた。


昼の光が白く、土塀の影を濃くした。


大田牛一は、清洲からの書付と封を袂に、林家の門をくぐる。用は簡単――蔵の在庫の改め、文書の差し替え。それだけの名目で、敷居は低くなる。


広間には通されない。庭を斜めに切って、蔵の前へ。


「お手を煩わせます」


牛一は軽く頭を下げ、在庫の帳を二枚、墨の減り具合まで確かめる。手は早い。目はさらに早い。蔵の鍵の新しさ、縄の締まり、米俵の積み替えの跡――どれも、昨夏とは違う。


用を終えると、台所の隅の腰掛に茶が出た。


湯呑の縁は欠け、注がれた番茶は渋みが強い。


若い女中が味噌の樽をかき回しながら、ちらりと牛一を見た。


「この前の夜はね、ずいぶんと――人が集まって」


世間話の投げ方は、軽い。軽いが、眼は好奇の色で濡れている。


牛一は湯呑を持ち直し、茶の面だけを見つめる。


「祝言でも?」


女中は首を振って笑った。


「祝言なら、もっと賑やかでございますよ。あの夜は、静かで――でも、声は強うございました。畳に響くような」


樽の味噌に杓文字が入るたび、香りが立つ。


「お名を、言えば?」


問うてはいけない。牛一は問わない。問わぬ代わりに、袖の内へ指を滑らせ、短冊をそっと整える。


女中の方からこぼれるのを、待つ。


「背の高いお侍様が、ひとつ、畳を打たれまして」


女中の指が、卓の端をとんとんと叩く。


「それから、扇を閉じる音がいたしました。ぱちり、と。年配のお方でございます。…もうお一方は、声が低うて、数の話ばかりなされる」


勝家、林、佐久間――名を言わずとも、姿が立つ。


牛一はうなずかない。笑いもしない。茶の渋みを口の中で転がす。


「若のことを、仰せでした」


女中の声が、少しだけ細くなる。


「どちらの若か、わたしには分かりませぬけれど――“声を聞いてくださる若様なら、皆もついて参りましょう”と」


“聞いてくださる”――その言い回しに、林の舌がのぞく。


牛一の胸に、冷たいものがひとすじ、降りた。


「ほかには?」


問うではなく、茶を置く音で促す。


女中は少し考えて、肩をすくめた。


「その晩、蔵の鍵が朝と違うところに掛かっていました。下男が言うには、俵の積み方も、ね。…わたしは、味噌しか見ておりませんけれど」


味噌の表面が、杓文字で切られて模様を変える。


牛一は立ち上がった。


「よい茶であった」


礼は簡素に。礼の簡素さは、心の速さでもある。


庭へ出ると、日が高いのに風は薄く、蝉の声ばかりが濃かった。


門を出て、道に影ができたところで、袖の中の短冊に爪を立てる。


――旗は若君。後見は林・柴田。兵糧の手、早し。


三行。三行で事の腹が据わる。文字は少ないほどよい。少ないほど、逃げ場がない。


清洲への道は白く照っている。


「殿に、どう申すべきか」


声に出さず、喉の奥だけで言葉を転がす。


うつけはうつけのまま、しかし、尾張は待ってはくれぬ。


牛一は小さく息を吐き、短冊を袂の奥深くへ押し入れた。


遠くで雲が光った。稲生の野は、まだ静かだ。


静かだが、もう、風の向きが変わっている。

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