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Apricot's Brethren
Apricot's Brethren
七種 智弥
SF空想科学
2025年08月11日
公開日
2.6万字
連載中
名もなき無垢の少年X。 彼が目覚めたのは、白一色に隔離された見知らぬ空間だった。 脱出の手掛かりを探る中、出逢ったのは崇高なるアルビノの男。 男は少年を不法侵入と断じた。 そして銃を手に、禁域に迫った理由を問い詰める。 少年を地獄へ誘うのは、血と暴力に塗れた悪魔の所業。 死をも予感する絶望の淵で、少年は最期に抵抗を見せた。 すると事態は一変、第三者の介入により悪夢は終焉を迎える。 気付けば少年は、とんでもない世界へ導かれていくのであった。 繰り返される追憶の中、運命の歯車が静かに動き出す。 記憶の空白に潜む謎——過去と未来が交錯する戦慄の物語。 全ての真実が、今ここで暴かれる。

File 01「昼中に墜つ白烏」

01 «覚醒»

 訳が分からない出来事とは、存外唐突に訪れるものだな、と。冷静な思考が働く一方で、僕は現実逃避宜しくぼうっと辺りを見渡していた。


 整然と並ぶは、レザーカウチソファ、ローテーブル、ブックシェルフ。そして、今し方自身が寝そべっていたチェストベッド。室内に配置されたどれもが、高品質の素材であつらえられた一級品の家具。黒一色で統一された数々の調度品は、至る箇所に銀色のアクセントを際立たせている。

 シックな雰囲気が漂う様は、どことなく見覚えがあった。それは、まるで家具屋の広告誌に掲載された写真のように、洗練されている。妙な扇状を模した間取りに対してさえも、何故だか疑問は浮かばなかった。「この造りすらも洒落たデザインの一環なのだろう」と。適当な理由が、問を上塗りしたからである。

 薄ぼんやりとしつつも、色々考えてしまう程度には、理想的な空間だった。そんな光景が、今正に眼前に広がっている。


「……どこだ、ここは?」


 垢抜けたモダンインテリアに囲まれて、僕はただ一人佇んでいた。そしてそれと同時に、つい三十分ほど前にぽつりと零した目覚めの第一声が、これである。寝起き早々、御頭おつむの調子でも心配されそうな発言。しかしその言葉は、誰の鼓膜も震わせることはなく、孤独の静寂しじまに溶けて消えた。

 一見、周囲から白眼視されても無理のない言動を取っている——この事実については我ながら重々承知である。しかし、状況的に見て仕方ないことでもあった。こんな面妖な口舌くぜつが前触れもなく飛び出てしまうのも、仕方のないことだったのである。


 何せ僕は、この大部屋の住人でも、招かれた客人でもない。むしろ、現状に至った経緯いきさつを知らずして、起床直後ここに迷い込んでいたのだから——。


 秒針の音はおろか、小鳥のさえずりや車両の走行音さえ届かぬ閑散とした空間。さながら、人気のない田舎に建てられた図書館を彷彿させる。そしてそれは、喧騒に溢れた都会に生きる身と、兎角無縁の世界だった。

 大仰な物言い故、「無縁と一蹴するには、少しく大袈裟では?」と洗礼を受けてしまうかもしれない。しかし、所縁ゆかりがないのは事実なのである。自他共に認める無類の本好き——それこそが僕だった。そんな己が哲学書の頁を捲る時ですら、傍らでは常に兄なり妹なりの家族が賑やかにしていた。だからこそ、異様なまでに静かな空間とは実質無縁なのだ。

 それを抜きにしたとて、やはり無縁だと言わざるを得ない。何しろ自宅近隣が観光地だという理由で、窓の外はいつも人々の行き交う雑踏の音がしていたのだから。彼ら兄妹が不在だったとしても、こんな状態で静けさを嗜むなどできるはずもあるまい。


 果たして、その個人的理由も要因の一つとして含まれるのだろうか。人が住むのに至極適切な形をしていながら、図書館よりもしんとした部屋の底気味悪いこと。

 度を越えた人為的沈黙が支配する場とは、どうにも居心地が良くないものらしい。せきとした中、唯一身動みじろぐ己から生じる衣擦れの音だけが、緩やかに波及していく。その摩擦音は、社会から隔絶されたように不気味に静まり返るこの一帯において、己以外の者が存在しないことを殊更ことさら誇張した。


「夢、じゃないんだもんなあ」


 頬を抓る——夢の仮説検証においてありがちな行為は既に実践済みだ。

 痛覚の有無をもって夢かうつつか判断を下す、これほど簡易な方法はない。当然、こんな方法で信頼性の高い証左が得られるとは言い難い。が、他に検証の手立てがない以上、そこに頼らざるを得ないのもまた事実。ただ、判断基準の一例として試す価値は十分にあったと言えよう。


 そして結論から言うと、脳はれっきとした痛覚を訴えた訳だ。これにより、今遭遇している事象と実際の出来事をイコールで結び付ける——何とも短絡的結論が導かれた。だが、その性急過ぎる論結にも妥当性はあった。


 基本夢から目覚めた時、人間は初めてそれが夢だと主観的に認識できる。故に夢の中で今起きていることが夢かどうか判別しようと事実を掘り下げる行為は、ある意味で全く能がない。明晰夢と認識できぬまま夢から覚めぬのであれば、現実と判断して行動する方が最も実用的だろう。安直な判定ジャッジが妥当と言える所以ゆえんはここにあった。

 だが——。


「だったら何なんだ、この状況は」


 つまりそれは、今目の当たりにしている未知を現実として受容したということ。藪から棒に展開された非日常を、有り得ないと峻拒しゅんきょするだけの術を失くした——ということに他ならない。


 幼少期から好んでいた読書で培った自慢の推察力も予測力も、今回ばかりは流石に及ぶべくもない。混乱すら免れない局面に乾いた笑いすら出てしまうほど、このイレギュラーには完全なお手上げだった。


 せめて、起きる前の記憶でもあったら良かったんだけど……と内心独りちる。れど、毛ほども覚えていないものに思いを馳せても仕方がない。選択の余地もなく、役に立たぬ空想に見切りを付け、僕は次に必要となる思考に着手し始めた。


 現場の位置特定や事態の前後関係について、一応五分程度の黙考はしてみた。だが、抑々そもそも現地ここに行き着いた過程そのものに繋がる記憶】が綺麗さっぱり抜け落ちている。——所謂いわゆる詰みに、ほどなくしてち当たる。初手から詰みとは、甚だ可笑しな話ではある。しかし、答えを導くことが到底敵わぬと察するまで、そう多くの時間は掛からなかった。


 その後の流れは、ただ性懲りもなく只管ひたすら解のない堂々巡りで悩み尽くした、というもの。結果的に、こうして休憩がてら虚空を眺めることに及んだ訳である。表面的に現実逃避にも見える小休止の中。訳が分からない出来事とは、存外唐突に訪れるものだなと。胸の内でそう苦笑しながら——。

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