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06 «問答»

 ——僕の一通りの釈明の中。彼はしきりに右手で顎を撫でつつ「ふむ」「なるほど」などと呟き、うんうんと頷いていた。

 こんな突拍子もない話なのに。「疑わしい」「有り得ない」と、差し出口を挟まぬまま、真摯に向き合ってくれたことには、ひとえに感謝している。通常なら茶々が入っても可笑しくない状況の中、直向ひたむきに接してくれる彼の配慮に触れた気がした。所詮信じてもらえないだろうと、安く踏んで愛想なくねじけていた心持ちが、おもむろに安堵していく。多少なりとも己の話を信じてもらえた——そんな小さな温情を感じたからだ。


 だが、その一方でもう一人の僕が胸に芽生えた希望の一切を潰していく。「不審者相手に容易く温情を見せるなど、そんな美味い話あるはずない」と。そこまで簡単に彼に心を開いてはいけないと、心のどこかで警鐘が鳴り響くのだ。

 飽くまでこれは、腹の探り合い。決して彼は僕の味方にある訳ではなく、ただ事情聴取を行う無機質な問者として、責を果たしているだけに過ぎない。神以しんもって信頼関係を築いたとは言えない、正に尋問者と答弁者の関係。それが、僕達二人を形容する言葉として最も相応しいものと言えるだろう。


 初対面の年下相手に、喧嘩を吹っ掛けるような言動を取り、刺激を煽った。この行動は、年上である自身との距離感を曖昧にするためだったのだろうか。今となって、それは彼にしか分からない。ただ、驚くほど周到なまでにこちらの緊張を解し、接し易い雰囲気作りを徹底している。——その抜け目のなさに、疑念を抱かないのは難しい。


 何にせよ、距離を詰めるのが上手い彼のことだ。個人的な仮説として、ある種の二面性を、彼は上手く使いこなしているのだと予測する。複数の人格が潜む異質性の存在などではなく、親近感を覚える面と恐怖感に陥れる面がたちまち入れ替わる。——そんな極端な二面性が、彼の中には共存するのだと。幼少期からの知己のように親しく近付いては、冷徹な拷問吏ごうもんりのように正確な情報だけを引き摺り出す。一度だけ顔を覗かせた、獣のような潜在的脅威を一顧すると、あたかもそのようなことを仕出かす人間に見えてしまったのである。


 だからこそ、安易に心を開いてはいけない。出会って間もない彼を、これほど短時間で信頼するなどもっての外。印象操作されている可能性を疑わなければならない状況下、悠長に親交を結んでいる場合ではないのだ。もしや、僕はとんでもない人物を前にしているのではないか、と緊張すら覚える。こんな犯罪心理分析官プロファイラー染みた男を相手に、【これまでの一挙一動や、思考回路を明かすことを強要されている】状況。——こんなもの、ある意味で断頭台に立つ気分を十二分に味わわせてくれる。


「そんじゃあ、己の身に起きた未知の事象にさぞかし驚いているところ、申し訳ないけどよ。今の話を時系列の順序を逆さに、もう一度、説明して欲しい」


 目の前で起きた事象を立て続けに話した僕に、彼はそう要求した。

 それははなから僕の話を信用していなかった、という証跡に過ぎない台詞で。信頼や温情なんてものは微塵もなかったという事実を、正面を切って突き付けられる。

 彼の中に、初対面の者を信ずる厚情が内在しているやもしれぬという、細やかな希望が。多少警戒はされても己の詳述だけは信用してもらえるやもしれぬという、浅はかな臆見が。物の見事に全て打ち砕かれたのだ。

 途中で喚起した警告が役立ち、計り知れない失望は免れたものの。それでも、胸にわだかまる虚しさは何にも代えられやしなかった。


 思わず滴り落ちた「何だ。最初から信じるつもりなんて、ないじゃないか」という悲憤。これといって誰に宛てたものでもなかったのだが、この男はその小さな嘆きを片言隻句も聞き漏らさなかった。彼が「話を聞くとは言ったが、最初から手放しに全てを信じるとは誰も言ってないだろう?」と直球を投げるのは、自明のことであろう。

 大人しく聞いてくれる姿勢を保っていた背後には、こちらの発言の真偽を見定めるための常套手段があった。ただそれだけのこと。


 多少の気落ちはしたものの、りとて僕なら彼の要望に容易く応えられる——その自信があった。何故なら僕は、彼が疑う嘘なんてものを、何一つとしていていないからだ。


 一つ。目覚めた時、記憶のないまま面識のない場所に迷い込んでしまっていたこと。

 二つ。そこから脱出しようにも開錠不可能な鍵で幽閉されてしまっていたこと。

 三つ。大きな書架から、小説家一和命にのまえかずのりの本を見付けたこと。これによって、元の世界軸と合致する証明、及びこの世界の言語が僕の第一言語と共通する事実を見出したこと。

 四つ。今正にその装丁に仕組まれた用紙の謎を解き明かす真っ最中であったこと。


 確かに、その場任せの急拵きゅうごしらえな内容であったなら。「時系列を真逆に話せ」なんて突飛な注文に順序が狂う、乃至ないし粗筋あらすじの中身が一部抜け落ちるかの、襤褸ぼろが出るはず。

 しかし、目覚めた時やカーテンを開けた時を含め、何度か混乱に陥ったとはいうものの。こちとら状況把握のため、散々ぱら思考を張り巡らせてきているんだ。今までの出来事を把握していなければ、状況の推測などできたものではない。故に、順序逆転させた説明をご要望だなんて、推測に推測を重ねてきた僕にとっては、単なるお安い御用だった。


「綺麗に真逆に話せるってこたぁ、詰まらん三文芝居じゃねえ真実まことか、或いは用意周到な準備があった虚偽いつわりか、……か。会話の途中、妙な表情筋の動きも、不可解な視線の挙動も、胡散臭い声の上擦りも、そのどれもがなかった。心拍も安定していた点を察するに、大凡おおよそ嘘の公算は小さいと踏める——かね」


 要望を難なく叶えた僕に、男は満足げに笑う。

 そして本棚にあった医療系の専門書——心理学関連の書物をきちんと履修しているのか。彼は、こちらの一挙手一投足を、綿密に余すところなく分析していた。安定感ある言動が、この場面において身を救ったのだと理解はした。が、「心拍確認まではどうやって行ったのか?」という疑問だけが残る。尋問中、脈を取られた覚えもない。まさかそうせずとも、「脈拍を耳で聞き取るだけの超聴覚があったのか?」と考えたところ。——そこに至ったところで、「いやそれはないな」と一刀両断に切り捨てる。


「個人的に嘘じゃないと、声を大にして言いたいですけど。残念ながら貴方にとって僕は不審者そのものなんで。簡単に信じてもらえるなんて、今はもう思っていません」


 期せずして、この信憑性のない与太話を信じてもらえるかもしれない。——などという、そんな甘っちょろい考えは最早捨て去って。諦めにも似た口調で、そう言い捨てる。

 すると男はにんまりと北叟笑ほくそえみ、こちらの態度に如何いかにも納得したような口振りで言葉を繋いだ。


「ほう。この短時間で、狼狽うろたえずにきちんと状況理解できるとは。優秀優秀。いいだろう、この場ではお前の供述が真と仮定して、話を進めようか」


 一体何が、彼の信用に値する要素となり得たのか。満足いく理解はできなかったものの、しかしまあ、何とかこの場は収めてもらえたようだ。少なくとも、彼の顔色から攻撃性が消え失せたことに、内心ほっとする。実際弁解が終わるまでの間、気が気ではなかった。何しろ、男の瞳子の奥には、敵を仕留めんと息を潜める獣のような害意が根付いていたのだから。


「ま、どちらにせよ大体の主旨は理解した。端的に言えば、お前——」


 ところが、容易に課題を完遂した矢先で。男の口からとんでもない単語が飛び出す事態は、流石に予想だにしていない出来事であった。


「——記憶喪失——」

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