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07 «喪失»

 思い掛けない台詞が上手く飲み込めず、返答に間が空いてしまった。


「記憶喪失!? いやいやいや!! 何いきなり面白くもない冗談言ってんですか!?」


 記憶喪失——意表を突くには正に十分なワードだった。

 冗談半分に抜かしているのかと、やや食い気味に話の腰を折る。がしかし、彼の面持ちがそうではないと語っているのを見て、頬を垂れる冷や汗の感触を覚えた。


 否定的かつ断定的に論破したかった。少々物々しくないかとも思った。

 けれど、【起床前どころか就寝前の記憶全てがごっそり抜けている】という異常事態は、彼の言う通り明らかに可笑しいのである。まるで穴が開いたかのように、起きる前の記憶がない。【読書愛好家】【一和命にのまえかずのり作品の愛読者】などと、そんな噴飯物の情報しか脳裏に浮かばない。通常なら有り得ないのに、だ。


「お前という人物を今一度、証明できるか? 年齢でも職業でも出身地でも、何でもいい。何か一つだけでも、思い出せることはあるか?」


 様々な脳の引き出しを巡回し、自身を構築する情報のあまりの乏しさに改めて喫驚きっきょうする。僕という人物を証明する材料が、全く整わない。あまりにも的確に図星を指すものだから、当然彼に反論の声を上げるなどできなかった。

 一種の記憶として、「二人の兄妹がいる」と声高に宣言したかった。家族構成くらいは覚えているぞと、細やかな反抗心があった。だが、より深く思い返せば、その目顔が黒く塗り潰されたように想起できない為体ていたらく。彼らの人物像すら思い出せない——つまり完全に記憶が欠損している証拠だ。


 記憶として全く成立しない断片的情報に踊らされ、気抜けする僕。男は更に畳み掛ける。それは実に明確に、正確で。かつ、出会った直後から収集した材料を見せ付けるかの如く紡がれた、克明な言葉。


「常識や知識、起床後の記憶が十分残っている。ってことは、意味記憶は保持されたままエピソード記憶が障害された、【逆向性健忘】と考えるのが、およそ妥当だろう。その様子じゃ、自分の名前すら思い出せないと推察するが……。もしや図星か?」


 そう、名前だ。現状僕は自分の名前すら思い出せない。自分自身が何者であるかを証明できない。そして悲しいかな手ぶら——身分証明書など持ち合わせていないときた。

 ただの迷子なら良かった、ただの夢なら良かった。こんなもの、完全な詰みというやつではないか。今正しく胸の内では、「私は誰? ここはどこ?」という、あのわざとらしい記憶の欠落を生じている。


——僕は、これからどうすれば——


 お先真っ暗とは正にこのこと。不本意ながらも、住居侵入罪を犯したお尋ね者になってしまった挙句、記憶喪失で何も証言できない。こんな状況下で助けてくれる物好きな人間など、誰一人としていないだろう。気持ち的には、いっそマスメディアにでも出演したいものだ。「私が何者か、誰か教えてください」とでも、民衆全体に協力を仰ぎたいところだった。だが、抑々そもそも犯罪者の分際で、そんなことができるはずもない。


 絶念を前にして膝からくずおれる、そんな折。それを目にした男が希望をちらつかせたのは、何かの予兆だったのかもしれない。


「お前が見付けた紙、それに何か書いてあるんじゃねえのか?」


 そうか! 紙、紙だ!!

 男の示唆に首をもたげた直後、不意に握り締めていた紙切れの存在に目を落とす。彼から声を掛けられる直前、帯紙から取り外した四つ折りの用紙。帯紙そのものはぐちゃぐちゃになってしまったものの、小さな紙切れだけは綺麗に左手の中に収まっている。

 そうだ。見付けた当初は、これが何か重大性を秘めたものだと予測していたではないか。これが何かの足掛かりになるかもしれないと、胸躍っていたではないか。

 輝きを取り戻した眼で期待を膨らませ、少々興奮気味ながらも「中身を確認したい」と申し出る。僕の物凄い剣幕に男は若干引いているが、そんなことはお構いなしだ。


「あのこれ! この書籍の帯の裏に付いてたんですけど、貴方が仕込んだ訳じゃないですよね……?」


「確かにそりゃ俺の私物だが、そんな仕込みを入れたのは俺じゃない。……と、言うより、何だそのぐちゃぐちゃの帯はよ。その本それをまだ読んでない俺に対する、新手の嫌がらせか?」


「いやいや違いますよ! これは、その、いきなり声を掛けられて手元が狂ったというか、事故なので。とにかく、許して下さい!! で、これ! これが『何故僕がこの場所に迷い込んでしまったのか』という理由に繋がるヒントになるかもしれないんです! 開けても、いいですか——?」


「分かった分かった。それ、開いてみろ」


「あっ! はい!!」


 彼の所有物の一部をぐちゃぐちゃにしてしまった罪悪感で、若干声のトーンが低くなる。それでもやはり、綺麗に折り畳まれたメモ用紙に書き込まれた内容が、当初所期した目標ではないかと。そう考えると、自然と声音は大きくなる。きっとこれは、【自分の正体を指し示すもの】や【それに準ずるもの】に違いない。

 男は、こちらの白熱した勢いに気圧されたのか、嫌味を吐いて口を尖らせていた仏頂面ぶっちょうづらを渋々整える。そして、次は興奮した馬を宥めるかの如く、僕に両手をどうどうと振った。

 遂に、中を開いてみる。すると、そこには——。

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