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10 «怪物»

 つい数分前までは、多少傍若無人な気がありつつも、神の如く秀麗だった男。その彼は、今や悪魔や死神のようにおぞましい薄ら笑いを浮かべている。当然ながら、彼を目前にした僕は、生きた心地など全くしなかった。一瞬にして地上から地獄に突き落とされたような、慄然とした何かを直感させる。


 炯々とした眼光が、未だ獲物を捉えた捕食者の如く僕を射抜いている。先まで見え隠れしていた人間的側面の一切は、鳴りを潜めた。表層から芯部に至るまで、まるで獣のような獰猛さを孕む姿。そこから人としての感情は、寸分たりとも読み取れない。話の通じる相手ではなくなったのだと、直感的にそう悟るほどに。


 これほどまでに様変わりした彼が、人間らしく問い質すなんて真似をするようには思えなかった。外見は同じだというのに、中身だけを猛獣とげ替えたのかと見紛う禍々しさを醸しているのだ。獣が人道に適った行動を展開するなど、そのような芸当できるはずもない。ただただ蹂躙者として暴虐の限りを尽くさんとする——そんな猟奇的な情景だけが、容易に予見し得た。


「言っただろ? 一望監視施設パノプティコンの監視室が、俺達の行く末を見守ってる・・・・・って。第一級接触禁忌種たる俺が、侵入者たるお前を排除する様を見守ってる・・・・・ってよ!」


「ま、待ってくださいよ!! 今までそんな血腥ちなまぐさい雰囲気じゃなかったじゃないですかっ!! 何でいきなりっ……!?」


「仕方ねえよな。これも監視官に見付かるなんて失策ヘマを犯した、お前自身の運の尽きだろ。『今日はツイてないな』とでも思うがいい。そしてこうなった今、奴ら監視官が望むのは、薄汚え血肉祭パーティーさ。舞台で踊るのは、勿論俺とお前。さあ少年、お手を拝借」


「じ、冗談ですよね? こんな馬鹿げた話ないですよ!?」


「ああ、心配は要らない。リードは俺に任せてくれ。侵入経路も潜伏している仲間の有無についても、俺達はまだ何も分かち合えていないんだからな。そんな状態で無体を強いるなんて、紳士じゃないだろ? こっちも手土産なしで帰省したんじゃ、ボスに面目が立たない。そんな訳で、簡単に殺したりはしねえ。汚れたシーツは埃が出なくなるまで叩く——これが一般界隈・・・・の常識ってもんだろ?」


 全く話を聞いてくれない男の異常性に気付くまで、して時間は掛からなかった。譫言うわごとのようにぶつぶつと何か呟きながら、冷めた瞳で見下ろしてくる。その異常な恐ろしさは、正しく尋常ではなかった。死を覚悟する程度に、総毛立つのが歴然とする。


 何だこの緊急事態。何だこの絶体絶命。今までの和やかさはどこへ行った? 男は僕の左手を後ろ手で押さえ付け、右手を踏み付けにし、更に背の上に腰を下ろして抵抗の一切を捩じ伏せた。しかし、僕も蹂躙される実状を安易に良しとはできなかった。拘束された両手に力を入れる——丁度その時。


「うわああああああ!!」


 耳をつんざく絶叫が口から飛び出したのは、にわかに何かが右肩を凄まじい勢いで貫通したからだった。室内に木霊する銃声が、ビリビリと耳の奥で残響する。男が突き付けていた例の拳銃で撃たれたのだと、即座に理解するが、間髪入れず襲い来る激痛に身悶える。

 止めなく流れる血液。やけに熱く鼓動する肩の傷に反比例して、冷水を掛けられたかのように錯覚する脳。僕自身、「まさか発砲する訳がない」と、どこかたかを括っていたのだろう。だが、結果は躊躇なく銃弾を撃ち込まれるというザマである。容赦のない一撃に、死すらも予感した。そして、余計な失策をしないよう、そっと口を噤んだ。


 右肩に空いた穴から、ダラダラと出血が止まらない。そのせいなのか、生暖かい感触が右半身に広がっていく。じわじわ失われていく生命いのちの感覚は、出血多量による死の可能性を想定に入れざるを得ないほど、鮮明で。それは、容赦なく熾烈な胸騒ぎを与えていった。それでも他人事ひとごとのように、「汚れた部屋の後片付けは俺の仕事なんだ。だから、あんまり煩わせんなよ?」と念押しする彼。その一言一言に、僕は一心不乱で頷く他なかった。


「ここの警備は最高水準に匹敵する程度に、クラッキング・施設への直接侵入への対策が綿密に敷かれている。だが、それを難なく突破したのがお前という訳だ。実際監視カメラの配置に死角はない。カメラそのものを乗っ取るにしても、極めて攻略困難なファイヤーウォールが準備されている。さて、ここで問題だ。お前の侵入経路はどこだ? どうやって監視官の目を掻い潜って来た? 仲間は居るのか?」


「そ、んなの、覚えてないってさっき——」


 男は僕の両腕を背後に回し、ベルトポケットから取り出した手錠でそれを一纏ひとまとめにすると、乱暴に襟刳えりぐりを引っ掴む。次には僕をソファから引き摺り落とし、冷たく硬いフローリングの上に転がした。ごろりと俯せに転がった反動で迸る出血。瞬く間に床を赤く染め上げ、流血の夥しさを物語る。


 痛みに喘ぐ僕を、足蹴りで仰向けにすれば、恐怖に滲んだ僕の瞳と残忍に歪む男の瞳がち合う。こちら側の恐怖心に輪を掛けて助長させるような、そんな何の感情も映さない男の仄暗ほのぐらい眼差し。それは、ぞっとするほど底冷えしている。


 更に、男は顔色一つ変えぬまま、傷口にり込むように僕の右肩を踵で踏み付けた。

 その瞬間、僕は悲痛な叫び声を上げる。しかし即座に銃身バレルを突き付けられ、【押し黙る】以外の選択肢を奪われる。苦悶の色を浮かべながら、まるで奴隷のように従順に、ただ只管ひたすら首を縦に振るしかない凄惨な状況。それを甘受した。そうせざるを得なかった。


 男にマウントポジションを占められ。互いの視線を一致させるために髪を鷲掴みにされ。更には蟀谷こめかみに拳銃を押し当てられる。しかし、それでも一切抵抗はしなかった。否、できなかったのである。

 確然たる力量差を見せ付けた上で。男は途端に大人しくなった僕に対して、一音一音を明確に発音した静かな声音で問い掛ける。


「いいか? 【質問に答えない】という選択肢は、お前には用意されていない。面倒だが仕切り直しだ。お前はどこからここに入った?」


「分かりません。記憶にない、んです。気が付いた、ら、ここにいて——い”っ!!」


「……強情な奴だ。結構結構」


 掴まれた頭をガツンと床に叩き付けられ、身体はくたりと静かになる。急に焦点の合わなくなった両目は虚ろになり、打ち付けられた後頭部の激痛に悶絶する身体は、一度だけ跳ねた。だが、それさえも男に押さえ付けられて静止する。突発的に開き掛けた口からは、意味を持たぬ言葉しか生じない。加えて、身体は指一本たりとも動かない。脳からの信号が途絶えて動けないのだ。


 男は、動作も言葉も失くしたこちらに全く気を緩めることはせず、ただじーっと静観し続けている。単純に観察すると言っても、数分待てども動く兆候のない僕を見下ろすだけの行為だ。当然飽きが生じたであろう男が、次に起こしたアクションは、「おい」と無骨に声を掛けることであった。続け様に「死ぬなら情報吐くもの吐いてから死ね」などと冷ややかな言葉を放つ姿。それは、脳震盪により一時的な混乱が生じている人間からすれば冷酷非道極まりない。むしろ、殊更ことさら恐怖心に拍車を掛ける要因となった。

 しかし、最も恐ろしかったのは彼の発言や行動などではない。人間味のない行為を平然と振る舞う彼自身こそが、恐怖そのものに他ならなかった。


 ——怪物——。

 ただ目の前にいるこの男は、普通の人間などではなく、怪物なのだと。そう思った。

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