「いってらっしゃいませ、お父様、お母様」
フィオナ・ルーチェは今日も笑顔で、細い腕を振りながら両親を見送る。
笑顔は、もう習慣だった。
心では何度も、こう願っていたのに。
――私も、一緒に行きたい。
けれど、それを口にした瞬間、
この平穏な籠の暮らしは壊れてしまう気がした。
残されたのは、木々のざわめきと鳥のさえずる声だけ。森のその静けさが、フィオナの心をかえって波立たせる。
ふたりの姿が見えなくなったあと、フィオナはひとりため息をついた。
鏡の前に腰を下ろし、ハニーブラウンの髪へとブラシを通す。
腰まで伸びたその髪は、隣国の「ラプンツェル」の物語とどこか似ている。
でも、決定的に違うのは、王子様が現れないことだった。
琥珀色の瞳が、鏡越しに揺れていた。
髪は艶やかに整い、ドレスはしわひとつない。
けれどそこに映る少女は、どこか作り物のようだった。
鎖をつけられているわけでもない。暴力を振るわれているわけでもない。
それでも、逃げ出したい。
この窒息しそうな毎日から。
涙がひとすじ頬をつたって、落ちる。
その涙は窓の木枠にしみ込んでから、すぐに跡形もなく消える。
まるで、なにひとつ力を持たない自分自身のようだった。
「わたしは、どうしたらいいの?」
フィオナは滲む視界で、窓から青空を見つめていた。
そんなときに思い出すのは、いつも同じ。
――誘拐されたあの日のこと。
「フィー、走るよ!」
男の子に手を引かれ、こけそうになりながらも、ひたすらに走った。5歳のときだった。
今となっては、夢の中の出来事のよう。
記憶は輪郭を失って、ふわふわと漂っている。
ただひとつ、はっきりと覚えているのは、男の子のサファイアそっくりな瞳だけ。
その日から11年間、フィオナは森へと閉じ込められている。
それでも空は、今日も変わらず澄んでいて。
森の風に乗って届く鳥のさえずりが、やけに遠く感じられた。
――あの日、手を引いてくれたあなたは、今どこにいますか?
フィオナはハンカチで目元を拭って、天をもう一度仰いだ。
*
太陽が天高く昇ったころ。
カラン、カラン。
玄関のベルが鳴る。
フィオナは、今日も居留守を使っていた。
(お父様とお母様の言いつけを、守らなくては)
彼女は今年で16歳。それでも、ひとりで玄関先に出ることは、一度たりとも許されていない。
また、誘拐されるかもしれない──そんな心配からだ。
フィオナは部屋の隅で身体を屈めて、ただひたすら時が過ぎるのを待った。
しかし、ベルは鳴りやまない。
こんなことは初めてだ。
もしかしたら、本当に悪い人が来たのかもしれない。──フィオナの手はかすかに震えていた。
そして。
コン、コンと玄関のドアをノックする音が、静まり返った部屋中に響いた。
(誰、誰なの)
心臓の鼓動が速くなる。
このまま、じっとしていて大丈夫なのか、それとも身の危険が迫っているのか。フィオナには分からなかった。
前屈みになりながら、玄関脇の小さな窓に近づいたそのとき。
──声がした。
「フィオナ・ルーチェ嬢。ここを開けてください。ルミナリエ王国 第一王子、レオニス・ルミナリエ様の命で参りました」
(私の名前が呼ばれた)
どくん、と一拍胸が波立つ。
そして聞こえた、第一王子の名前。自分と接点があるはずもない、雲の上の人。
いったい、どうして? 私を誘き出す罠かもしれない。
フィオナは、小窓から恐る恐る覗く。すると、よく手入れのされた馬が5頭、その脇に甲冑を着た騎士が5名並んで立っているのが見えた。
王家の紋章であるユニコーンが描かれた旗を、先頭の騎士が掲げている。
どう考えても、それは嘘のようには見えなかった。
「私は側近のセドリック・グラヴィスと申します。フィオナ・ルーチェ嬢、ここを開けてください」
先頭の騎士が、落ち着いた声で呼び掛ける。
フィオナは、どうしたらよいかまるで分からなかった。
ちいさな子どものように、ドアの前にじっとへたり込んでいた。
王子様が迎えに来ることなんて、あるはずがない。
私はついに気が触れて、妄想をしているのかもしれない。
そんな考えがぐるぐると頭を巡った。
でも、もし、ここで開けなかったら。
──私は一生、この森のなかで、生きていかなければならない。
背筋に冷たいものが走った。
それだけは耐えられない、フィオナはすぐにそう思った。
馬の蹄の音だけが響くなか、ついに弱々しくドアノブを握った。
馬の蹄の音が、風に溶けていく。
フィオナは、震える指先でドアノブに触れた。
(……開けなきゃ。開けるのよ、フィオナ)
心の奥で何かが軋んで、何かが壊れた。
キィ──。
そして目に飛び込んできたのは──ひとりの騎士。
とび色の髪を逆立てた、紫水晶の瞳を持つ青年。
精悍な顔つきで、こちらをまっすぐに見ている。
「改めて名乗らさせていただきます。私はセドリック・グラヴィス。フィオナ・ルーチェ嬢、お迎えに参りました」
その瞬間、止まっていた時間が、
ゆっくりと、そして劇的に動き出した。
――ここから始まる、フィオナ・ルーチェの物語。