明治四年の冬、兵部省の廊下は寒かった。
外気のせいではない。
陸軍の将校たちが幅を利かせ、海軍の者は肩をすぼめて歩く。その空気の冷たさだった。
川村純義は、背広の下で握った拳に力を込めた。
また予算削減の通達だ。軍艦の修繕すら満足にできぬ金額。人事でも海軍士官は後回し。
会議室で長州出身の役人が、海のことを「沿岸警備程度で十分だ」と笑った声が耳にこびりついている。
――この国は、海を捨てる気か。
机の上には、英国公使館から届いた書簡が置かれていた。
「日本の沿岸防御は脆弱であり、列強との交渉において著しく不利である」
乾いた紙の匂いが、皮肉な警鐘のように鼻を突く。
川村は立ち上がった。
このまま黙っていれば、海軍は陸軍の影に押し潰される。
薩摩出身の同志はまだいる。西郷従道も、その背後に大久保利通も。
まずは現場の声を集め、叩きつけねばならぬ。
窓外には、鉛色の東京湾が広がっていた。
帆も煙突も凍える風に沈黙している。
川村はその景色に、未来の艦隊を重ねた。
――この海を守るのは、我らだ。
誰が陸の都合で諦めるものか。
足音を響かせ、川村は兵部省の廊下を歩き出した。
その胸には、海軍独立への火が灯っていた。
榎本武揚が、静かながらも重い口調で切り出した。
「川村君、山県有朋に会ってほしい。海陸分省化の話だ」
私は即座に眉をひそめた。
「長州の中心人物に、薩摩の人間が直接――火薬庫に火を投げ込むようなものです」
榎本はうなずき、しかし目を逸らさなかった。
「それでもやらねばならん。薩摩と長州が正面衝突せぬよう、橋を架けられるのは君しかおらん」
山県は、会見の間に入るや否や、机越しにじっと私を見据えた。
「川村君、分省化など耳にしてはおる。だが、いまの財政で二つの省を持つ余裕はない」
「しかし、このままでは――」
私が口を開いた瞬間、彼は手を上げて遮った。
「君ら薩摩は、海からの脅威ばかりを言う。だが、国を守るのは陸からが本筋じゃ。陸軍を差し置いて、海軍に金を回す道理はない」
私は黙って、英国顧問団スミスの報告書を差し出した。
「英公使館の意見です。沿岸防備は不十分、現状では開戦三日で制海権を失う、と」
山県は書類をぱらぱらとめくり、やがて机に戻した。
「それがどうした。列強は今すぐ攻めては来ん。まずは陸を固める。それが長州の考えじゃ」
会見後、廊下で長州士官が私を呼び止めた。
「薩摩が動けば、長州は構える。……これは忠告だ」
その声音は冷たく、しかし私を突き放すというより、衝突を避けたいという本心が透けていた。
榎本への報告で、私は山県の頑なさをそのまま伝えた。
榎本は苦笑し、硝子越しに冬空を見やった。
「やはり橋はすぐには架からんか。だが、潮の流れは変わりつつある。諦めるな、川村君」
私はその言葉に、わずかな熱を覚えた。
だが、長州の壁は厚い。
本当に潮を変えられるのか――それは、私がこの手で証明せねばならない。 私は机上の地図に視線を落としたまま、深く息を整えた。
外は冷たい北風が吹きつけ、兵部省の古い窓枠をきしませている。
今日の会議は、海軍の命運を分ける――その予感が、腹の底で燻っていた。
陸軍の山県有朋、その傍らには山田顕義。
どちらも長州の柱石であり、この国の陸軍を支えてきた功労者だ。
だが、同時に海軍にとっては最も越え難い壁でもあった。
「――川村卿、先の上申は拝見した。だが、分省となれば財政負担が増える。それは承知のうえでの案か?」
山県の低い声が部屋に響く。
その言葉には、単なる反対ではなく、財政責任を負う者としての現実的な圧があった。
私は顔を上げ、真っ直ぐに彼の目を見据えた。
「もちろん承知のうえです。しかし――これは負担増ではなく、浪費の削減と戦力の最大化に繋がります」
机上に広げた報告書を、山県の前へ滑らせる。
英国顧問団が指摘した、日本沿岸防備の脆弱さ。
欧州各国の制度比較。そして、兵部省の混合管理による物資の重複・遅滞の実例――私はすべて数字で示した。
「御覧ください。現状、陸と海で調達路が二重になっております。輸送も、整備も、指揮系統も混線している。これを分けることで、かえって経費は縮小できる。陸は陸の道を、海は海の道を行くべきです」
山県はしばし黙し、地図上の日本列島を見つめた。
顕義が横から口を挟む。「欧州ではどうだったか?」
私は即座に答えた。「山田閣下がご覧になったはずです。英国も仏国も、陸と海を明確に分け、役割を特化させております。それがこそ、限られた財で最大の力を発揮できる道であります」
部屋の空気がわずかに緩んだ。
しかし私は、そこで畳みかけた。
「いまこの国は、外から見れば“陸に偏り、海を疎かにしている国”です。列強はそれを承知の上で接してくる。
海を軽んずれば、日本は鎖国の島国に逆戻りするだけです。私は――それだけは、絶対に避けたい」
言葉を吐き終えた瞬間、沈黙が訪れた。
山県の指が地図の海岸線をゆっくりなぞる。
やがて、彼は深く息を吐き、顕義に目配せした。
「……分かった。役割分担という形なら、検討に値する。だが予算の配分は厳密に詰めるぞ」
私は一礼した。勝ったとは言えない。
だが、扉は開いた。
これで――海軍省独立への道筋が、現実のものとなる。