目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
日本國海軍
日本國海軍
いごすんほに
歴史・時代日本歴史
2025年08月12日
公開日
1.6万字
連載中
日本國海軍を歴史資料を基に書いてみる

第1話


明治四年の冬、兵部省の廊下は寒かった。

外気のせいではない。

陸軍の将校たちが幅を利かせ、海軍の者は肩をすぼめて歩く。その空気の冷たさだった。


川村純義は、背広の下で握った拳に力を込めた。

また予算削減の通達だ。軍艦の修繕すら満足にできぬ金額。人事でも海軍士官は後回し。

会議室で長州出身の役人が、海のことを「沿岸警備程度で十分だ」と笑った声が耳にこびりついている。


――この国は、海を捨てる気か。


机の上には、英国公使館から届いた書簡が置かれていた。

「日本の沿岸防御は脆弱であり、列強との交渉において著しく不利である」

乾いた紙の匂いが、皮肉な警鐘のように鼻を突く。


川村は立ち上がった。

このまま黙っていれば、海軍は陸軍の影に押し潰される。

薩摩出身の同志はまだいる。西郷従道も、その背後に大久保利通も。

まずは現場の声を集め、叩きつけねばならぬ。


窓外には、鉛色の東京湾が広がっていた。

帆も煙突も凍える風に沈黙している。

川村はその景色に、未来の艦隊を重ねた。

――この海を守るのは、我らだ。

誰が陸の都合で諦めるものか。


足音を響かせ、川村は兵部省の廊下を歩き出した。

その胸には、海軍独立への火が灯っていた。


榎本武揚が、静かながらも重い口調で切り出した。

「川村君、山県有朋に会ってほしい。海陸分省化の話だ」


私は即座に眉をひそめた。

「長州の中心人物に、薩摩の人間が直接――火薬庫に火を投げ込むようなものです」


榎本はうなずき、しかし目を逸らさなかった。

「それでもやらねばならん。薩摩と長州が正面衝突せぬよう、橋を架けられるのは君しかおらん」


山県は、会見の間に入るや否や、机越しにじっと私を見据えた。

「川村君、分省化など耳にしてはおる。だが、いまの財政で二つの省を持つ余裕はない」


「しかし、このままでは――」

私が口を開いた瞬間、彼は手を上げて遮った。

「君ら薩摩は、海からの脅威ばかりを言う。だが、国を守るのは陸からが本筋じゃ。陸軍を差し置いて、海軍に金を回す道理はない」


私は黙って、英国顧問団スミスの報告書を差し出した。

「英公使館の意見です。沿岸防備は不十分、現状では開戦三日で制海権を失う、と」


山県は書類をぱらぱらとめくり、やがて机に戻した。

「それがどうした。列強は今すぐ攻めては来ん。まずは陸を固める。それが長州の考えじゃ」


会見後、廊下で長州士官が私を呼び止めた。

「薩摩が動けば、長州は構える。……これは忠告だ」

その声音は冷たく、しかし私を突き放すというより、衝突を避けたいという本心が透けていた。


榎本への報告で、私は山県の頑なさをそのまま伝えた。

榎本は苦笑し、硝子越しに冬空を見やった。

「やはり橋はすぐには架からんか。だが、潮の流れは変わりつつある。諦めるな、川村君」


私はその言葉に、わずかな熱を覚えた。

だが、長州の壁は厚い。

本当に潮を変えられるのか――それは、私がこの手で証明せねばならない。 私は机上の地図に視線を落としたまま、深く息を整えた。

 外は冷たい北風が吹きつけ、兵部省の古い窓枠をきしませている。

 今日の会議は、海軍の命運を分ける――その予感が、腹の底で燻っていた。


 陸軍の山県有朋、その傍らには山田顕義。

 どちらも長州の柱石であり、この国の陸軍を支えてきた功労者だ。

 だが、同時に海軍にとっては最も越え難い壁でもあった。


 「――川村卿、先の上申は拝見した。だが、分省となれば財政負担が増える。それは承知のうえでの案か?」


 山県の低い声が部屋に響く。

 その言葉には、単なる反対ではなく、財政責任を負う者としての現実的な圧があった。


 私は顔を上げ、真っ直ぐに彼の目を見据えた。

 「もちろん承知のうえです。しかし――これは負担増ではなく、浪費の削減と戦力の最大化に繋がります」


 机上に広げた報告書を、山県の前へ滑らせる。

 英国顧問団が指摘した、日本沿岸防備の脆弱さ。

 欧州各国の制度比較。そして、兵部省の混合管理による物資の重複・遅滞の実例――私はすべて数字で示した。


 「御覧ください。現状、陸と海で調達路が二重になっております。輸送も、整備も、指揮系統も混線している。これを分けることで、かえって経費は縮小できる。陸は陸の道を、海は海の道を行くべきです」


 山県はしばし黙し、地図上の日本列島を見つめた。

 顕義が横から口を挟む。「欧州ではどうだったか?」


 私は即座に答えた。「山田閣下がご覧になったはずです。英国も仏国も、陸と海を明確に分け、役割を特化させております。それがこそ、限られた財で最大の力を発揮できる道であります」


 部屋の空気がわずかに緩んだ。

 しかし私は、そこで畳みかけた。


 「いまこの国は、外から見れば“陸に偏り、海を疎かにしている国”です。列強はそれを承知の上で接してくる。

 海を軽んずれば、日本は鎖国の島国に逆戻りするだけです。私は――それだけは、絶対に避けたい」


 言葉を吐き終えた瞬間、沈黙が訪れた。

 山県の指が地図の海岸線をゆっくりなぞる。

 やがて、彼は深く息を吐き、顕義に目配せした。


 「……分かった。役割分担という形なら、検討に値する。だが予算の配分は厳密に詰めるぞ」


 私は一礼した。勝ったとは言えない。

 だが、扉は開いた。

 これで――海軍省独立への道筋が、現実のものとなる。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?