ロクフォール邸。
深更のシガールームには灯が点り続けていた。
屋敷の広大な庭を囲む槍と紋章を刻む塀の内側で。
その晩、灯が消えることはなかった。
翌朝。
客室で目を醒まして一応顔を洗い身支度をして。
その足で部隊に戻ろうと動き出したかれの前に。
「寝不足はよくないよ?グレッグ」
水色の将校服を着た青年将校エドアルド・ロクフォールが扉を開けて出ようとしたかれの前に立っていうのを、うさんくさいものをみるまなざしでかれが見返す。
「…――――」
無言で見返すかれの確かに寝不足だとわかる表情に、む、とくちをとがらせてエドアルドがいう。
「あのね?そーいう視線はよくないとおもうよ?まったく、…」
いいながら、手になにか白くて丸いせんべいのようなものをとりだして。
「う?!」
突然、白いせんべいをくちに突っ込まれて、かれがようやくはっきり目覚めて青年将校を見返す。
無言で抗議しているかれの金褐色をした眸に、うんうん、と水青色にいまはみえる瞳でエドアルドがうなずいて。
「そうだよね!ごはんはきちんと食べないと!」
もうひとつ、懐から――何かおかし入りの袋をもっているらしい――取り出して食べさせようとするエドアルド・ロクフォールに完全に引いて、物理的に距離を取る。
むぐ、と食べさせられた白いせんべいらしきもの――を、食べ物を粗末にできない性格故に、悩みながらもしっかり食ってしまってから。
「…―――人にいきなり何をするんですか、…!これは?一体いまのは?もういりません!やめてください!」
抗議するかれをじっと見つめて、青年将校エドアルド・ロクフォールが首をかしげる。
「おいしくなかった?栄養があるんだけど」
「ですから、…それはなんです?」
白いせんべいにみえる―――せんべいというのは、粉にしたモルハク麦を水やミルクなどで溶いて薄くならして焼く菓子だ。焼く際に丸く焼板に落とすから、大体丸い形状をしていることが多いが。ある程度保存もきく為に、各家で作り菓子として、或いは主食の足しとしてもつかわれることが多い。
尤も、貴族が持っているとは思われない菓子だが。
疑わし気にエドアルドをみるかれに、首をかしげたままで。
「おかしいな、…。兄さんに、ちゃんと餌付けするようにって渡してもらったんだけど?」
「…―――あんたの兄、…どっちの兄さんですか?それは?」
エドアルド・ロクフォールには兄が二人いる。二人といっていいのかは謎だが。
一人は、人間であることが確実な長兄、リチャード・ロクフォール。
いま一人は、赤毛の大型猫であり、喋るねこ。
そして、名参謀ロクフォールとして知られている貴婦人にもてる赤毛の大型猫だ。
「えっと?…これは、ディックにも、にいさんにも渡されたんだけど?中身はディックからだよね、…ええと、それから」
おつかいに袋を持たされたこどものように、手にした菓子袋をあけて覗いているロクフォールの末弟に頭痛を憶える。
「あのですね、…あんた、」
「うん?何にしても、寝不足はよくないよ?それに、ごはんはきちんと食べなきゃね?もう一枚いる?」
取り出している白いせんべいをよこそうとするエドアルド・ロクフォールに首を振る。
「反省しました、いまからちゃんと飯を食います」
真面目にいうかれに、にっこりとエドアルド・ロクフォールが微笑む。
「うん、おねがいね?食事の用意はジョージがしてあるから。場所は昨夜、晩餐を食べた部屋だからね?」
「…――――」
その返事に、額を抑えて天を仰いでしまったかれを不思議そうにみる。
ジョージはロクフォール邸で主であるリチャード・ロクフォールに仕える執事で。
昨夜の晩餐と異なり、他に誰もいないから少しは気楽だろうが貴族の邸宅で正式に食事に使われるボールルームなどで食事を摂ることには。
「どうしたの?」
「いえ、…――」
食事を貴族が普段使う場所で摂らなくてはいけないのも面倒だが。
何よりも、昨夜聞いてしまった、―――。
これが、あれで、これとあれがあれで、…―――。
そして、帝国。
さらに、――小国である、我が国。
それを思い出し、真剣な表情になるかれを、不思議そうに首をひねってエドアルド・ロクフォールがみている。
「ううんと、…。こういうときは、ごはん?お水?それとも、ブラシ?」
「…ねこの世話と一緒にしないでください」
天を振り仰ぐのをやめ、真顔で振り向いてエドアルド・ロクフォールをみてかれがいう。それに、笑顔になって。
「うん!兄さんのお世話は大変だからね!一緒にはしてないよ?」
「…――それは、ミルドレッドの方ですね、…ねこの方」
「そうだけど?」
無言で肩を落とすかれに白いせんべいを差し出すから。
「…いりません、ちょっとめし食ってきます、…」
肩を落としたまま部屋を出ていく小隊長の後ろ姿を見送って。
「これ、おいしいのにね?」
白いせんべいをぱくりと食べる青年将校エドアルド・ロクフォールがいるのだった。
部隊に戻り、小隊長として宿にいる部下達を呼び出して一回り顔を確認する。
――ほっとするな、あの三兄弟の顔をみてきた後だと。
無駄にきらきらしい――かれに男の美醜はわからない――三兄弟をみたあとだと、むさ苦しい連中をみていると何かほっとするな、と思いながら。おそらく、あれは貴婦人達がこぞってよろこぶ美形とかいう類の人種に違いないのだろうとは思いつつ。
大体、ねこであるロクフォールでさえハンサムなのは。
――そういえば、あれ、はねこなのにハンサムだと理解できるな、…。
人間の男性が美形だとかいわれても理解できないが、ねこならわかる。
――ねこなら、見分けがつくかもしれんな、…。
ふと、先日部下たちに末弟のロクフォールが美形だと理解できませんか?と散々言われたのを思い出していると。
大男や、痩せた色男、それにとバリエーション豊かな連中が勝手に大声で喋り出す。
「大将、どうしたんですかい?まだ本国から出るとはきいちゃいませんが?なにがありました?」
「どーしたんです?顔色わるいですぜ?」
「昨夜、お楽しみすぎたんだろ?」
「大将、無理はよくないですぜ?一晩ねないでなんて、…――どこにそんな良い姫がいました?」
がやがやと寝不足の顔色をみて遊びだす連中を一渡りみて。
軽く眉を寄せて溜息を吐き、特に大事でもないという顔と声でいう。
「…――落ち着け、おまえら。なにもしてない。そんな相手もいなかった。残念だがな、――――これから、明日以降、部隊としてボルヴィッツに戻る際に必要な仕込みをする。…休暇を十分に遊べてない奴はいるか?」
無言になり、不意に何かそれまでの喧騒とは異なる静けさに包まれた部隊を見渡して、軽く笑んでいた。
「命が惜しい奴は抜けてもいい。それくらい今度の任務は危険だ。遊撃隊として動くことが多いおれたちだが、今回は命大事にと抜け出しても命令違反とはならないよう上に手を打った」
淡々と続けるかれに、ひとりが踏み出していう。
大柄で巨漢といっていい岩のような漢――ゲオルグだ。
「…大将、珍しく臆病風を吹かそうとしてるが、なんでだ?」
「その通りだ。臆病風が吹くなら今回はそれもいいとおれはおもっている。…―――だから、今回狸親爺の許可も取り付けた」
「マジですかい?」
「その通りだ。今回の話をきいて、引きたい奴は留めたりはしない。罰則もなしだ。それくらい非常識だからな?」
ゲオルグが眉を寄せて黙っている隣から、ヴォーグがひょろながい身体を出していう。
「それって、もしかして、炸薬使い放題だったりします?なら、おれやります!」
「…――おまえな、…」
思わず眇めた目でヴォーグをみていってから、かれが苦笑する。
「ま、それは否定できないんだが」
「どれくらいつかえます?」
「落ち着け、おい」
目を輝かせているヴォーグ二等兵にあきれながら、小隊長として一同を見渡す。
「どうする?おまえたち。これから話す作戦は、聞いたら後で引き返せない。いまなら、話を聞く前なら逃げだしても構わないぞ?」
ゆったりと話す小隊長に、隣からあきれた声が掛けられる。
副官のウィルが肩をすくめて。
「ひどい話ですよねえ。…普通、話を聞いてから断るとかいうもんでしょうに」
「仕方がない、これは機密だからな」
副官を振り向いて淡々といい、それから一同をみて。
「簡単にいうと、これまで以上に危険で非常識な任務だ。まず、おれたちの役割は生きて逃げ延びることになるからな?」
かれの言葉に一同が顔を見合わせる。
「大将、叩き潰しちゃダメなんですかい?」
大きく眉を寄せて無精髭も見事な大男ゲオルグが困惑したように訊ねる。
それを皮切りに。
「…大将、吹っ飛ばしちゃいかんのですか?」
ヴォーグが困惑した表情でいい。
他の連中も。
「―――にげるって、大将?」
「えーっ?!やっつけちゃあかんのですか!」
「逃げるって、どーいうこってす?」
ざわざわと喧騒が戻り収拾がつかなくなりそうな各自勝手な質問に。
「おまえら、落ち着け!」
あまり声を高めるでなく一声かれがいうと、しかしその喧噪もすぐに静まる。
かるく、かれが溜息を吐いて。
「いえることは、これだけだ。―――――おれたちは、逃げる。今回、作戦に従事するのにおれたちの部隊が選ばれたのは、逃げ足の速さを買われたとおもってくれ」
そして、付け加える。
「世界の終わりとやらを防ぐ為には、おれたちの逃げ足が必要になるんだそうだ。…――と、名参謀ロクフォールからの伝言だ」
に、と笑んでいう小隊長に。
「なんだって?!」
「ロクフォールの指揮か?!それをはやくいえって!」
「隊長!もったいぶりすぎですぜ!」
「はやくいえよ、それを…!!」
「うわー、さいしょからきーてて、そんしたぜ!」
喧騒が一気に戻り、もう収拾がつかなくなる部隊の連中を一渡りみて、かるく笑む。
「じゃ、おまえら、全員参加でいいな?」
に、と笑んでいう小隊長に。
全員の揃った一声が響いた。
「とーぜんだ!大将!」
大声が響き安普請の部屋が揺れて、かれが笑む。
「じゃあ、仕掛けてやろうか!」
「あたぼうよ!」
「よし!まかせろ!」
「おうよっ!」
あきれてみている副官を隣に、かれがしずかに一同をみる。
その拳が少しだけ握られていることも、副官ウィルは視線に収めながらくちには出さずに。
かわりに、こういっていた。
「で、こいつらに時間外労働させる酒代はどこから出す気です?」
「…――酒舗に知り合いはいないか?」
隣をみないまま小隊長が視線を泳がせるのをみて副官があきれてうなずく。
「…偶々ですが、おれの知り合いの娘さんが、酒舗に勤めてましてね?いい娘さんなんですよ」
「頼む、…」
「貸しですよ」
つけときますから、という副官に逆らえず、つい天井をあおぐ小隊長。
賑やかな宿の喧騒はまだまだ続きそうである。