「……婚約を、破棄させていただきたいのです」
震える声でそう告げたのは、公爵令嬢ルフェーヴル・エリシア。
「理由を聞いても良いだろうか?」
静かな声でそう返すのは、ルヴェリア王国第一王子オルフェリス・ルシアン。
折しも時期はヴァルモンド王立学院の卒業待機期間。卒業式典を終えれば、オルフェリスは立太子の儀を受け、王太子に。そして婚約者のルフェーヴルは王太子妃になる筈で、その教育も佳境を向けていた筈……だったのだが。
「王太子妃という立場に、私は向いていないと痛感いたしました。この重責に耐えられないかもしれません」
こちらが有責で構いませんのでどうか、と頭を下げるルフェーヴルに、オルフェリスは目を静かに細めた。
「……分かった。では」
控えていた執事に目で合図を送ると、彼は頷いて書類を机上へと広げる。
「こちらにサインを。これで私との婚約は解消される」
そう促すと、ルフェーヴルは書類へ目を通した。2人の婚約を解消する旨の文書、そしてそれぞれの両親のサイン、そしてオルフェリスのサインが既に入っている。
妙に準備万端なことに内心で首を傾げつつも、これで静かに解消できるならと、ルフェーヴルはペンを取ってさらさらとサインをした。
オルフェリスはそれを確認し、執事へと差し出した。それを見守るルフェーヴルは、内心で安堵の溜息を吐きつつ口を開く。
「……それではルシアン殿下。貴方様のご多幸をお祈りいたします」
御前失礼いたします、と続けようとした彼女の前に、音も無く置かれたもの。
銀盆に乗せられていたのは、ナイフと赤い液体で満たされたグラス。ナイフは冴え冴えと氷のように青白く光り、触れただけで
切り落とされるような鋭利さが嫌でも感じられる。そして赤い液体が揺蕩うグラスは、一見ワインにも見えるが光を空かすと僅かに紫がかった濁りのようなものが揺らめく。
「こ、これ、は……?」
聞きたくない。聞いてしまったらもう戻れなくなる。
だけど、聞かずにいることは許されない。
その空気のままにルフェーヴルが震えながら尋ねると、オルフェリスは事もなげに言った。
「どちらか選べ」
心臓が跳ねあがった。
そんなルフェーヴルの様子など気にもせずに、オルフェリスは言葉を続ける。
「王太子妃教育が佳境に入っているということは、国家機密にも多少なりとも触れているということだ。そのような人物を野放しに出来る筈ないだろう?」
「じ、自害、せよ、と……?」
すう、とルフェーヴルの瞳が細められた。
「このことは婚約時に交わした誓約書にも明記してあることだ。まだ十にもならぬ子どもの時ならともかく、交わしたのは15の時。……誓約書の重要さを認識していないのは問題だな」
『私的な理由で婚約を一方的に解消もしくは破棄した場合、それまでに得た国家機密は生涯残すことが出来ないものとする』
あれがまさか、『死』を意味するものだなんて。
「文章は熟読し、裏の裏まで読まなくてはならない。これは妃教育で幾度となく指摘された筈のこと。身に付いていなかったとは非常に残念だ」
それどころか証明しているとは、とオルフェリスは呆れたように首を横に振った。
「そういえばアルセリオン王国の留学生、フィルネア・ルドヴィク令息だが」
ルフェーヴルの心臓がまた跳ね上がった。
「彼の助けを期待しても無駄だ。2日程前に捕らえ、今は地下牢にいる」
「そんな、ルドヴィク様は関係ありませんわ!」
震える声を叱咤して言うも、オルフェリスは表情を変えないままだ。
「君に近づいて国家機密を得ようとした疑いがある人物を見過ごせと? 肉体的な接触は無かったとはいえ、昼食や茶を共にするなど随分親しい様子が報告されている」
「わ、私は、何も……!」
「君が話したかどうかは重要ではない。ルヴェリア王国の国家機密を知る人物に隣国の人間が親しく接した、それが問題だ。……君は愚かにもそれを勘違いし、婚約解消を願いでた。その結果がこれだ」
オルフェリスの目線が、ナイフとグラスへと動いた。
「……フィルネア様に会わせてくださいまし!」
せめて最期には、と健気なお願いのつもりかもしれないが、オルフェリスには見苦しい悪あがきにしか見えなかった。
だから現実を突きつけてやることにする。
「国家機密漏洩に厳しい我が国で、スパイ容疑をかけられた者が無事でいられると思うのか?」
「アレは、もう誰のことも認識しなくなっている。鎖に繋がれた『獣』そのものだ」
「ひっ……!」
フィルネアの喉から引き攣った悲鳴が零れた。大きな青い瞳からは、ぽろぽろと涙が零れる。
それが悲しみによるものか恐怖によるものかは、判断が付かなかった。
が、もうそれに心を動かされることもないオルフェリスは、淡々と告げる。
「お前は選べるだけまだ良いだろう」
「ナイフは確実に命を絶つことは難しく、失敗すれば強い痛みと苦しみが長時間続く。ワインは不味い上に、これも強い痛みと苦しみが長時間続く」
苦痛の種類は違うが長時間続くのは同じこと。
フィルネアは思い知った。
一時の気の迷いで取り返しの付かないことをしでかした自分に、オルフェリスが強い失望と怒りを抱いているということを。
「さあ、選べ」
オルフェウスはあくまでも静かに、淡々と告げる。その瞳には何の感情も読み取れない。
それがまた恐怖に拍車をかけて。
「……っ」
フィルネアは唇を痛い程に噛みしめ、震える手を机上へと伸ばした。
(終)