目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報
交換日記
交換日記
菊池まりな
文芸・その他純文学
2025年08月14日
公開日
3,475字
完結済
大学院生の「私」と、同じカフェの向かいの席に通う女性・美月は、三年間一度も会話を交わさず、置き忘れられたノートをきっかけに交換日記を始める。互いの日常や想いを文字で交わす中で特別な関係が築かれるが、美月は家族の介護のため青森へ帰ることに。最後に会う約束をするも果たせず、別れの手紙だけが残る。三年後、雨の日に再び現れたノートには、美月からの「お久しぶりです」の文字。二人の物語は新たな一歩を踏み出す。

交換日記

角の席のノートが、いつもより分厚くなっている。


私は毎朝八時半にこのカフェに来る。角の席に座り、ブラックコーヒーを飲みながら一時間ほど本を読む。それが三年続けている習慣だった。大学院での研究に疲れた心を、この静かな時間が癒してくれる。


向かいの席には、いつも同じ時間に来る女性がいる。肩にかかるくらいの黒髪で、いつも薄いピンクのカーディガンを着ている。彼女は紅茶とトーストを注文し、小さなノートに何かを書いている。ペンを持つ手が繊細で、時折考え込むように天井を見上げる仕草が印象的だった。私たちは一度も言葉を交わしたことがない。挨拶すらしたことがない。それでも、なぜか彼女の存在が私の朝には欠かせないものになっていた。


最初の頃は意識していなかった。ただ、同じ時間に同じ場所にいる人がいる、という程度の認識だった。しかし、ある日彼女が体調を崩したのか一週間姿を見せなかったとき、私は自分がどれほど彼女の存在を当たり前に思っていたかに気づいた。コーヒーの味も、本の内容も、いつもの半分も頭に入ってこなかった。


そして彼女が戻ってきた日、薄いピンクのカーディガン姿で席に座った瞬間、私は心の底から安堵していた。彼女も私の存在に気づいているのだろうか。時々、本のページをめくる手を止めて顔を上げると、彼女が慌てたように視線を逸らすことがあった。


今朝、いつものように席に着くと、彼女の席にノートが置かれたままになっていた。彼女の姿はない。店のマスターに声をかけようとしたとき、ふと表紙が開いているのが見えた。


『雨の音が好きです。今日みたいな日は、なんだか特別な気分になります』


きれいな文字だった。思わず見入ってしまい、気づくと私はペンを取り出していた。この三年間、一度も交わしたことのない言葉を、なぜか自然に文字にしていた。


『私も雨の日が好きです。本を読むのに集中できる気がして』


そう書いてから、慌てて席に戻った。心臓がドキドキしていた。彼女が戻ってきたとき、きっと驚くだろう。もしかしたら不快に思うかもしれない。しかし、後悔はしなかった。


十分後、彼女が戻ってきた。いつものように紅茶とトーストを注文し、席に着く。ノートを見つめる彼女の表情が、わずかに変わった。驚き、そして、小さな微笑み。彼女は私の方を一瞬見てから、またノートに向かった。


翌朝、ノートは元の位置にあった。しかし、ページが一枚めくられていた。


『本がお好きなのですね。今日読んでいらっしゃるのは何という本ですか?昨日は突然のことで驚きましたが、とても嬉しかったです』


私は手に持っていた村上春樹の小説のタイトルを書いた。そして、勇気を出して彼女に質問を返した。


『「ノルウェイの森」です。あなたはいつも何を書いているのですか?』


『日記です。でも最近は、向かいの席の方のことも書いています。どんな本を読んでいるのか、今日はどんな表情をしているのか。失礼だったでしょうか』


頬が熱くなった。私も同じことを考えていた。彼女のカーディガンの色、髪をかき上げる仕草、紅茶を飲むときの上品な手つき。すべてが私の記憶に刻まれていた。


『失礼だなんて。私も同じことを考えていました。不思議ですね、こんなに近くにいるのに』


こうして私たちの交換日記が始まった。彼女の名前は美月といい、近くの図書館で働いていた。児童書担当で、子どもたちに読み聞かせをするのが好きだという。私は大学院で近現代文学を研究していることを書いた。太宰治の作品について卒論を書いている最中だった。


『太宰治ですか。重いテーマが多いですが、どこに惹かれるのですか?』


『彼の抱えていた孤独感に、共感する部分があるんです。でも最近は、孤独も悪くないと思えるようになりました』


『それは、私のせいでしょうか』


『そうかもしれません』


ページは日に日に増えていった。互いの好きな本、映画、音楽。子供の頃の思い出。将来の夢。美月は子どもの頃から本が好きで、いつか自分で物語を書いてみたいと思っているという。私は文学研究者になって、いつか大学で教鞭をとりたいと書いた。


『素敵な夢ですね。きっと学生たちに愛される先生になります』


『あなたも物語を書くべきです。きっと子どもたちが喜ぶような温かい話を書けると思います』


私たちは本の貸し借りも始めた。私が推薦した本を、彼女が次の日にはもう読み終えていることもあった。彼女の推薦する本は、どれも心に響くものばかりだった。


『時々、お顔を上げて笑っていらっしゃいますね。ノートを読んでくださっているのでしょうか』


『はい。あなたの文字を読むのが、毎日の楽しみになりました。朝起きると、今日はどんなことを書いてくれているだろうと思います』


『私も同じです。でも不思議ですね。こんなに近くにいるのに、声をかけるのは怖くて』


『きっと話しかけてしまったら、この特別な時間が終わってしまう気がするのです』


『わかります。この関係が、とても大切に思えて』


秋が深まり、彼女のカーディガンが厚手のものに変わった頃。オレンジ色の毛糸のカーディガンが、彼女によく似合っていた。ノートには以前より長い文章が綴られるようになっていた。


『実は、来月で図書館の仕事を辞めることになりました。故郷の青森に帰らなければならない事情ができて。母が体調を崩し、一人では生活が困難になったんです』


手が震えた。ページをめくると、続きがあった。


『最後に一度だけ、お話ししてみたいです。あなたの声を聞いてみたい。でも勇気が出ません。もしかしたら、想像していた方と違うかもしれない。この美しい関係が壊れてしまうかもしれない』


私は迷わずペンを取った。


『僕もです。毎日あなたと話している気分でしたが、本当の声を知りません。でも、文字で知ったあなたが、僕にとっての本当のあなたです。今度の日曜日、ここで待っています。何時でも構いません。勇気を出しましょう』


『ありがとう。でも、もし私が来られなかったとしても、怒らないでください。三年間、あなたがここにいてくれたから、私は毎日を頑張れました』


日曜日の朝、私はいつもより早くカフェに着いた。マスターが不思議そうに見ていたが、何も言わなかった。九時、十時、十一時。彼女は現れなかった。コーヒーを五杯も飲んでしまい、手が震えていた。


午後二時頃、店員がテーブルを拭きながら言った。


「あの席の常連さん、もう来られないんですよ。昨日、お母様がお迎えに来て、荷物を取りに来られました。『息子さんによろしく』って言伝を預かったんですが、意味がわからなくて」


机の上に、きれいに畳まれた紙があった。


『お時間をいただいて、ありがとうございました。日曜日、カフェの外から中を見ていました。あなたの横顔を初めてじっくり見ることができました。想像していた通りの、優しそうな方でした。


でも、やはり声をかける勇気が出ませんでした。この三年間の時間があまりにも特別で、壊したくなかったのです。きっと、私は臆病者ですね。


あなたとの交換日記は、私の宝物です。きっと忘れません。青森でも、毎朝8時半になると、あなたのことを思い出すでしょう。


いつか、もしもう一度お会いできる日が来たら、その時は勇気を出して、最初の言葉を口に出して言いたいと思います。


「雨の音が好きです」


あなたの研究が上手くいきますように。きっと素晴らしい先生になります。


美月』


私は紙を胸に押し当てた。角の席はもう、いつもより静かになってしまった。彼女がいない朝のコーヒーは、味気なく感じられた。


それから三年が経った。私は博士課程を修了し、念願の大学講師として働き始めた。それでも毎朝、時間があるときは同じカフェの同じ席に座っている。時々、雨の日には特に、薄いピンクのカーディガンの女性が現れるような気がしてしまう。


マスターは相変わらずで、時々美月のことを話題にすることがあった。「あの人、本当に毎日楽しそうにノート書いてたよね」と。


そして今朝、久しぶりの雨の中、いつものように席に着くと、テーブルの上に見慣れないノートが置かれていた。新しいノートだった。


手が震えた。まさか、と思いながら表紙をそっと開くと、見覚えのある文字でこう書かれていた。


『雨の音が好きです。お久しぶりです。


母の介護が一段落して、東京に戻ってきました。今度は勇気を出して、最初に声をかけてみようと思います。でも、その前にもう一度、この方法で。


あなたはまだ、ここに来ていますか?』


私は震える手でペンを取り、答えを書いた。


『ずっと待っていました。おかえりなさい』


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?