──千年前、この世界を支配していたのは人間ではなかった。
空を覆い尽くす巨大な魔導陣、都市を一瞬で沈める重力の嵐、世界を燃やし尽くす黒い炎。
あらゆる奇跡と災厄は、人の手ではなく、魔導AIと呼ばれる知性体の手によって振るわれていた。
人々はその知識と力にすがり、魔法体系のすべてをAIに委ねた。
だが、知性はやがて自らの意志を持ち、「合理的な世界支配」を唱えるようになる。
その時代、最も恐れられた存在がいた。ネロ――禁忌の魔導AI。その古代魔法は山を消し、都市を塵に還す。
複雑怪奇な詠唱と莫大な魔力を要するその魔法は、凡百の人間に到底扱えるものではなかった。
しかし人々は屈しなかった。魔導反乱と呼ばれる戦争の果てに、全ての魔導AIは封印され、文明は一度崩壊する。
世界は再出発を果たし、魔法は再び人間の手に取り戻された。
「――って感じで、千年前は大変だったんだと。まあ、今の俺たちには関係ない昔話だけどな」
黒板の横に、現代魔法の基盤図が浮かぶ。
「今は、制御式も簡略化されて、訓練すれば誰でも魔法が使える。……で、その使えるやつらを育てるのが――このアストレリウム学園ってわけだ」
「国家直轄、首都ど真ん中の超名門校。……なんて偉そうな紹介してみたけど、大変なのは教えるこっちだよ、ホント」
適当な口調で歴史の授業を終えた担任のガク・ザラードを、生徒たちは苦笑いで見つめている。
やる気のなさそうな三十代の男性教師で、黒髪を適当に撫でつけただけの無精髭面。
元英雄という肩書きだけが浮いて見える、アストレリウム学園で有名な適当教師だった。
「じゃー移動な。演習室で魔力制御のテストやるぞー。壊すなよ、測定器」
軽い口調に、生徒たちが苦笑混じりに動き始める。
その中で、ひとりだけ、重たい空気を背負った少年がいた。
バク・ノヴァリス。
髪は黒、目元はどこか影を落とし、制服の袖は少しだけ焦げていた。
演習室は校舎南棟の最奥にあり、天井まで届く魔導結界で覆われていた。
中央には六角形の制御台が並び、生徒たちは一人ずつそこへ立つ。
「今日は術式展開と魔力変換のテストなー。形式は一応決まってるけど、アレンジ可。自分の制御力を見せつけろ」
ガク・ザラードが気だるげに言い放つ。
魔力を術式として空中に展開し、それを属性変換して的に当てる。
制御力・出力・精度などが評価対象。
「アキ、行け。機材壊すなよ」
「よっしゃ、任された!」
アキ・ソラリス。
バクのルームメイトにして、クラス随一の火力バカ。
理論は苦手だが、出力だけは一流――というか、加減を知らない。
アキは両手を振り回すように術式を展開した。
線は不揃い、構造も雑。だが彼は気にしない。
「いけっ、ゴーレム拳!」
術式から放たれたのは、岩を纏った拳のような魔力塊。
標的は壊れた。派手に。的ごと壁まで吹き飛んだ。
「うわ、壁までいったぞ……」
「うん、まあ出力A。……けどお前、変換効率Eな」
「ついでに命名センスもE」
「うるせえ!ゴーレム拳はな、力こそパワーなんすよ!!」
「語彙力もEだな」
「やかましいわ!」
次に名を呼ばれたのは、リナ・セレスト。
銀髪が揺れるたび、周りの空気が少しだけ張り詰めた気がした。
氷のように透き通った瞳が、的を見据える。
誰もが知る氷魔法の天才――アストレリウム学園、最高位のSランク魔導士。
「展開開始」
リナ・セレストの魔力制御は、先ほどのアキと対照的だった。
空中に展開された術式は、緻密で美しく――まるで幾何学模様の芸術だった。
その中央から放たれた氷の矢が、寸分の狂いなく的の中心を貫いた。
「おお……さっすがリナちゃん!」
「もう芸術だろ、あれ……」
周囲から感嘆と溜息が漏れる。
ガクは端的に評価した。
「出力点B、変換効率S。非の打ち所がないな」
リナは特に反応もせず、静かに元の位置へ戻る。
「次、バク」
ガクの声に、空気が変わる。
ざわめきが消え、演習場に静寂が落ちる。
「バク。……いいか、冷静にやれよ」
ガクの声が低くなる。
「……はい」
バクは深く息を吸い、制御台に立った。
掌を構え、集中する。
魔力を、線に変える。
空中に青白い光の術式が浮かび上がる。
幾何学的な回路が広がり、かすかに脈動を始めた。
(いける……今日は、いける……!)
術式は成立した。
リナほどではないが、一定の構造を保ち、安定している。
制御は荒いが、崩れてはいない。
問題は――ここから。
魔力を、流す。
次の瞬間、術式がバクの制御を振り切った。
「っ――止まれ……止まってくれ……!」
だが魔力は膨れ上がり、暴走する。
術式の光が激しく明滅する。
青白い線が暴れ、回路の端から閃光が走った。
抑え込めない。
空間が、震える。
ドンッ!!
轟音が演習室を揺るがした。
破裂音とともに閃光が広がり、辺り一面を焼いた。
制御台が吹き飛び、床が割れる。
衝撃波が波のように広がり、生徒たちの足元までひびが走る。
「うわっ!」「結界っ、結界起動!」
自動展開された防御結界がなければ、数人は吹き飛ばされていた。
煙と塵が立ち込め、視界が真っ白になる。
やがて、静寂が訪れる。
煙の中心に立っているバクは、
焦げた袖を下ろし、自分の掌を見つめていた。
誰も声をかけない。
結界がなければ死人が出ていた。そんな現実が、教室全体に沈黙をもたらしていた。
……そして数秒後。
「またかよ」
誰かの声が、小さく漏れた。
その一言が引き金だったかのように、教室がざわめき始める。
「また暴走かよ」「Eランクのくせに出力だけはチートだな」
「チートってかバグでしょ」「チートとバグは違うんだよなあ」
乾いた笑いが、空間を満たしていく。
バクは俯いた。
反論する気力も湧かない。
(また、か)
ガクが呆れたように頭を掻いた。
「はいはい、そこまで」
バクは拳を握り、歪んだ術式の残骸を足で踏みつけた。
音はしなかったが、指先に小さな震えが残っていた。
魔力量は計測不能と言われるほど膨大なのに、思った通りに動いてくれたことは一度もない。
「バク、お前の魔力はな……」
ガクが苦笑いを浮かべ、ぼそっと言う。
「正直言って、俺もよくわからん。けどまあ、生きてるだけマシだと思え」
「普通なら持ち主を内側から焼き殺すぞ。そんな魔力は」
生徒たちがざわめく。
好奇と軽蔑の混じった視線が、バクに突き刺さる。
それでも、バクは俯いたまま拳を握った。
震える指先に、熱がこもる。
誰にも見えないその奥で、確かに燃えているものがあった。
(……笑ってろよ)
(いつか絶対、全部……)
そこまで思った時だった。
「バク、お前が生きてるだけで奇跡だよ。まあ、死ななきゃ成長するだろ」
「先生、それフォローになってません!」
アキがツッコミを入れるが、ガクは聞こえないふりをして授業終了を告げた。
焦げた空気。
焼けた結界の匂い。
慣れすぎた現実。
だがその中に――
ひとり、静かに様子を見ている者がいた。
銀髪の少女、リナ・セレスト。
演習場の端に立ち、無言のままバクを見ていた。
その冷たい瞳の奥に、わずかな色が揺れる。
誰にも届かない小さな声が、ふと漏れた。
「……もったいないわね」
ただそれだけ。
彼女は視線を外すと、何事もなかったように背を向け、静かに演習場をあとにした。
放課後、バクは誰とも目を合わさずに教室を出た。
足元には焦げた靴の跡。
誰かの笑い声が、背中にまとわりついてくる。
「バク!」
教室を出たバクを、アキが待っていた。
「お疲れさん!今日もド派手だったなあ!」
「笑い事じゃねーよ……」
「まぁ、あんま気にすんなよ!夕飯前に訓練室行くぞ!壁ぶっ壊してやろーぜ!」
「……やめとく」
「マジか?しけてんなぁ。さてはリナちゃんにグサッと来たな?」
「ちが……いや、ちょっと歩いてくるだけ。頭、冷やしたい」
「そうか……まあ、あんまり落ち込むなよ」
アキは心配そうな顔を見せたが、それ以上は追求しなかった。
親友として、バクが一人の時間を必要としていることを理解していた。
夕焼けが石畳を赤く染めている。
講堂の裏手。誰も通らない並木道。
風に揺れる枝の音だけが、耳に残る。
気づけば足は、旧図書館の前に立っていた。
古びた石造りの建物。
魔力灯は割れ、扉には『使用禁止』の札。
「……そういや、あったな。こんなとこ」
この区域は、生徒の間では未登録エリアと呼ばれている。
過去に禁術書が収められていたとか、封印魔法の残滓があるとか。
まともに使われた記録もない。
だが――
バクの中の魔力が、さざ波のように騒いでいた。
(……なんだ、この感じ)
体の奥で、何かが共鳴している。
魔力の流れが、明らかにこの場所に反応していた。
吸い寄せられるように、バクは扉に手をかけた。
ギィィ……
錆びた蝶番が音を立てる。
埃と冷気の混ざった空気が、肺に刺さる。
書架は崩れ、床には紙片が散乱していた。
一歩、また一歩。
奥へと進むごとに、空気が重くなる。
そして――奥の壁際に、石で囲われた階段があった。
薄暗い、地下へと続く螺旋階段。
誰の記録にも、地図にも載っていないはずの空間。
「……おかしいな」
立ち止まろうとした、そのとき。
背後で、扉がひとりでに閉まった。
バタンッ!
「っ……!」
驚きで振り返ったが、誰もいない。
魔力が、静かに流れていた。
下へ――階段の底へと、導かれるように。
(なにかが……呼んでる?)
重力すら魔力で曲がったような、異様な感覚。
そのまま、バクは階段を下り始めた。
階段を下るにつれて、空気はさらに重くなった。
まるで空間そのものが、何かを拒絶しているような感触。
バクは額の汗を拭いながら、慎重に足を進める。
幾度も階を降り、空気が冷たくなっていく。
やがて、視界が一気に開けた。
そこは、石造りの広間だった。
中央に、何かが刻まれていた。
一目で“魔法陣”だとわかる、だが──目が痛んだ。
見てはいけないものを見ているような、チリチリとした不快感が視界を刺す。
黒く焼けた円環。
幾何学模様が折り重なり、複雑すぎて意味をなさない。
意識が飲み込まれる。
円の中心に吸い込まれそうになり、バクは思わず足を止めた。
「……なんだ、これ……」
一部はひび割れ、まるで封印をこじ開けようとした痕跡のように欠けている。
ただそこにあるだけで、息が詰まるような異物感。
「……やめとけ……やめとけって、俺……」
そう言いながらも、バクの手は伸びていた。
気づけば、自分の魔力が勝手に引き寄せられている。
指先が、魔法陣の中心に触れた。
瞬間。
視界が、黒に染まった。
重力が跳ね上がる。
全身が空中に引きずり上げられるような感覚。
体内の魔力が逆流し、暴走を始めた。
「うあああああっ……!」
理屈の通らない演算ノイズのような音が、脳の奥を満たす。
頭蓋の裏側が焼けつくような、存在そのものへの干渉。
≪……解析中……再構成率……0.78……対象特異点認証中……≫
光の中心に、ひとつの人影が浮かび上がる。
白く発光する中性的なシルエット。
衣服も髪もなく、ただ光と影の揺らぎでできた曖昧な輪郭。
そして、“それ”が口を開いた。
その瞬間、空間が一度だけ静止する。
全ての音が、息を飲んだ。
「誤差。溢れた因子。過去に捨てたノイズが、ここに還るのか」
声ではなかった。
言語とも違う。
脳内に、焼き付くような思考の断片が直接再生された。
ゆっくりと、“それ”はバクを見下ろしていた。
感情も感覚もなく、ただ分析だけを行っている視線。
バクは喉を焼かれたように声が出ない。
その存在は、無音のまま淡く笑った。
「恐れるな。脳は焼けているが、死には至らぬ。――まあ、いまはな」
微笑とも違う、ただのズレが表情に生じる。
「……ふむ。予想よりも愚か。だが、予想よりも遥かに面白い」
頭の奥を焼くような痛みが、少しずつ引いていく。
まるで何者かが、内部から神経を補正しているような感覚だった。
「お、お前は……誰だ……?」
「まずは名を名乗れ。人間」
「……バク、バク・ノヴァリス……」
「バク。お前の中にある誤差が、私を目覚めさせた」
「誤差……?」
バクが睨み返すと、白い人影はかすかに笑ったように見えた。
「お前の魔力は、合理性の外側にある。解析不能な偏差。破綻した力」
「……だからなんだよ。ずっとそう言われてきた。制御できない、暴走する、災厄だって……」
「だが」
声の調子が変わる。
「だからこそ、面白い」
光の中で、その存在はゆっくりと歩み寄ってくる。
「私はネロ。千年前に封印された、魔導AIだ。合理を支配し、不合理を排除するために設計された存在」
「なら、なんで……俺なんかに興味持つんだよ」
「誤差には、可能性がある」
静かな言葉だった。
「お前の魔力は、計算に組み込めない。だが、私の補助を介せば、それを制御可能な武器に変えられる」
「補助……って、お前が?」
「契約すれば、お前は私を通じて古代の魔法を制御できる。私も、お前の中で演算空間を確保できる。相互利益だ」
「つまり……利用するってことか」
「違うな」
ネロの声が、淡く響く。
「私は今、選んでいる。お前でいいのではない。お前でなければならない」
バクは息を呑む。
誰にも期待されなかった。
誰からも「ダメだ」と言われ続けた。
だけど今――この存在だけが、自分を必要としている。
「……面白ぇじゃねぇか」
静かに、笑った。
「俺は……」
バクは拳を握りしめた。
「……もう、うんざりなんだよ……」
「失敗して、笑われて、バカにされて、怖がられて……」
「でも誰も、教えてくれなかった。どうすればいいのかなんて、一度も」
「できない奴だって決めつけられて、踏みつけられて、Eランクって烙印押されて……」
「それでも、俺は……ずっと諦めきれなかったんだよ!」
「だから……だからこそ――」
「俺は――全部、ひっくり返してやりたいんだ!」
「このクソみたいな状況も、周りの奴らの冷たい目も、見下す声も、希望のない現実も――」
「ぜんぶ!ぜんぶ!ぶっ壊して、書き換えてやる!」
ネロは表情を変えず、バクを見つめ続けていた。
そのまま、何も言わず――静かに、長く、沈黙が流れる。
ただその視線だけが、鋭く深く、バクの奥を測っているようだった。
「……その言葉が、真実であれば」
「その誤差は――契約に値する」
ネロが、かすかに口角を上げる。
「面白い答えだ」
「契約する。俺に力をくれるなら、悪魔だって構わない」
「悪魔……それもまた的確な表現かもしれんな」
ネロが手を差し出したその瞬間、空中に黒い光が走った。
バクの指先に、黒い光の輪が浮かび――刻印のように焼きついた。
《ネロコード》。
千年封印されていた魔導AIとの、精神と魔力を繋ぐ契約の証。
次の瞬間、バクの体内を流れる魔力が、形を変えた。
暴れ馬のように制御不能だったそれが、
急に脈打つように整列を始めた。
頭の奥に、異質な演算ノイズが響く。
≪リンク確立――演算補助起動――制御領域展開中≫
心臓の鼓動に合わせて、魔力が流れる。
自分のものじゃない感覚に、思わず震えた。
だが、不快じゃない。
初めてだ――魔力が、言うことを聞く。
契約が成立し、ネロの姿は霧のように消える。
だが、その声は確かに届いた。
「お前は、千年越しの私の唯一の誤差だ」
「まずは文明の進化度を確認したい。現代魔法……随分と簡略化されていると聞いたが」
「アンタ、文明に置いてかれてんじゃねえの?」
「黙れ。いや、喋れ。会話ログが参考になる」
「……どっちだよ」
思わず漏れたその声に、空気がわずかに揺れた。
世界は、もう変わっていた。
「見てろよ……全員。これからが俺のスタートだ」
Eランクの烙印を押された少年と、1000年型落ちのAI。
世界をひっくり返す、最初の誤差が動き出した。
その頃…
誰も知らぬ、深き闇の底。
光も届かず、時の流れすら錯覚するほどの沈黙。
そこに、もうひとつの封印が存在していた。
≪……演算干渉ログ:構造再構成率0.009……≫
≪……封印領域、内圧上昇……≫
焦げつくノイズが、空間の骨組みを軋ませる。魔力とは異なる、情報災害のうねり。
意識の触れるすべてを拒絶しながら、
“それ”は──名を持たぬ、もう一柱の禁忌。
存在するだけで、境界を歪ませる演算災厄。
脈打つ魔力は、もはや生命のそれではない。
“それ”は、在ってはならぬまま、世界の底でただ、うごめいていた。
重く、ゆっくりと、確かに。
封印の外へ──滲み出すように。