昔からある、菓子パンの王道、メロンパン。
子供から、お年寄りにも愛され、上品な砂糖菓子と濃厚なバターに包まれた青春の味が癖になる。
口に頬張る度に、懐かしい想い出が胸一杯に広がる食感。
これは僕の初恋の味でもあった。
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「痛い、痛いよー!」
かじりかけのメロンパンを畳に落とし、坊主頭の高校二年の
目の前には仁王立ちする平等院鳳凰堂、阿弥陀如来像のような顔つきの中年がいた。
そのスキンヘッドに睨まれ、僕は身動きも取れず、未だに号泣している。
「だからお前が悪いんだろ?」
「だって親父、痛いものは痛いよ」
「詰め物が外れただけだろ」
「親父は虫歯になったことがないから、気持ちが分からないんだよ」
脅しと見せかけ、芸能人のような歯並びで苦笑する父はともかく、僕は人生最大のピンチを迎えていた。
永久歯に生え変わり、すぐに訪れた地獄に蓋をしたかと思えば、コイツをかじることで詰め物の蓋が外れた。
親から貰った少ない小遣いを片手にコンビニで買って食べる、いつもの楽しみにしていたメロンパン。
月一の小遣いをいただく日の記念として、毎度のようにバターの程よい香りに食欲をそそられたのはいいものを、クチャクチャと歯にまとわりつくクッキー生地に
「成垂太、歯が取れたとなると、大人しく歯医者に行くしかないな」
「嫌だよ、あっこは魔の巣窟だよ」
「なーに、『
「だから親父は歯医者に通ったことがないから、そう言えるんだよ」
「ならば、人生の敗者復活戦でもやるか」
親父がどこからか取り出した、お気に入りの工具入れから鈍く光る爪を見せる。
「コイツでスパンと抜くしかないなあ」
「親父、それはラジオペンチじゃないか!?」
「おう、ご存じの通り。まだ歯医者がない、明治時代以前の江戸時代では重宝した代物だぞ」
嘘か、
でもそれを今の僕に押しつけられても困る。
「そんな強引なやり方なんて、じょ、冗談じゃない!?」
「なら分かってるな?」
ようやく覚悟を決めた僕は親父の説得により、強引に近所の歯医者に行かされるようになった。
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『キュウーン、ギュリギュリー!』
街中から少し外れた所にあるシオサイ歯科医院。
そこにて消毒液の香りがする、白き密室で行われている悪魔のような儀式。
「大丈夫、痛くないですよー♪」
『ギュリギュリギュリー!』
「ぎゃあああー!!」
鼓膜が破れそうな機械の音に負けじと、金切り声みたいな叫び声を上げる相手。
僕の診察の前に恐る恐る入っていた中学生風の女の子だったが、数分後には苦しみもがく声しか聞こえてこなかった。
「駄目だ、とてもじゃないが、耐えられない」
「まあまあ、どんまい」
僕が待合室の赤いソファーから腰を上げようとすると、受付の長い黒髪の若いお姉さんが僕の前に来て、赤い
「失礼な。僕はもう高校生だぞ。そんな物につられるか!」
「んっ、そうなん?」
お姉さんは何を思い出したのか、その飴の包装紙を剥がして、急にペロペロと舐めはじめ、僕にセクシーな顔でアピールする。
「ねえ、ボウヤ。あたしが
「なふっー!?」
僕の純情だった理性が一気に吹き飛ぶ。
あんな綺麗なお姉さんと間接キッスできるんだぞ。
こんな美味しいチャンスそうそうない。
(※喫茶スペース以外の院内での飲食は禁止です)
「その据え
「うん? 言ってることが、意味不明なんだけど?」
お姉さんが首を傾げながらも、優しそうな微笑みで僕を捉えて離さない。
「こんな綺麗で素敵なお姉さんがファーストキッスの相手なら僕はボクはー!!」
『はい、次の方。風来成垂太くーん!』
診察室にいた女性歯科医師の凛とした声が僕の耳に飛び込み、お姉さんへの欲望が止まる。
「ああ、もう時間やね。虫歯治療、頑張ってな」
「ぬはぁー!?」
そうか、このお姉さんは僕を誘惑するふりをして、時間稼ぎをしていたに過ぎなかった。
女性に免疫がない僕は
「この裏切りものがー!」
「さあ、夢物語は
僕の両腕が、逞しい肉体の二十代くらいの男性医師に掴まれて、暴れる体を押さえつけられ、強制的に連れていかれる。
何て強い力だ、この男はロボットか?
たった一人の手によって、あっさりと……。
この僕がだぞ!?
「ボウヤ、ばいばいにゃーw」
「いいか、お姉さん。今度生まれ変わったら、意地でもそのアイテムを手に入れてやるからなー‼」
「はいはい。行ってらーw」
僕が望まれた転生を求め、『ギャーギャー!』と喚く中、仕事に戻った受付のお姉さんは澄ました顔をして、僕に手をふり、さよならをしている。
僕は
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「はい、いらっしゃい。成垂太君」
「えっ、あっ、はひ‼」
僕は過呼吸になりかけて、上手に言葉がまとまらない。
茶髪のミディアムボブで三十代くらいに見える先生は、さっきの受付嬢を上回るほどのスタイル抜群で、群を突き抜けるほどに美人だった。
そんな相手から、柔らかく手を握られ、治療台に誘導された日が来たとなれば、落ち着けと念じた方が無理である。
「心配しないでね。痛くしないから」
「はひっ、任されました」
ああ、香水か、化粧か知らないが、心が穏やかになる香りだ。
これが聖母マリアの癒やしというものだろうか。
僕は、お姉さんから愛の手解きを受け、流れるままに席へと吸い込まれた。
『キュウーン‼』
そのお姉さんは右手に鋭い棒を持ち、ベッドに寝ている僕の口を指でそっと開ける。
僕はどうぞ、優しくして下さいと思いながら、そっと目を閉じた。
『ギュリギュリ‼』
「あがががー!?」
お姉さんからのアプローチは激しかった。
棒が歯に触れる度、振動と痛みが口内全体に伝わり、思わず気を失いそうになる。
「お姉ざん、もっどやざしぐ……」
「何でしょう。そんなに痛みますか? すぐに神経を抜いて終わりますから、もう少しだけ我慢して下さいね」
治療の手を止めずに、僕の頭に手を触れて、優しく撫でるお姉さん。
豊かな胸に付けられた『
激しくヒートアップしていく治療の中、僕はこの歯科医師の燐香さんに、ほのかな一目惚れをするのだった。