「助手君、そっちのパイプ椅子を運んでくれる?」
「はい」
「あっちの折り畳みテーブルも運んで」
「了解です」
僕は
あれから僕と燐香さんは恋人として付き合い始め、デートも重ねるようになったけど、外へ遊びに行くということはなく、助手として院内の仕事を手伝っている。
(もしや、僕は
そう疑うのも無理もない。
ここGW中は買い物もネットショッピングのみで、ずっと引きこもった生活をおくっていた。
「まあ、忙しい今こそが
「でもGWだし、病院は休みじゃないんですか?」
「そうだけど、診察がなくても、裏方に課せられた仕事は大量にあるからね」
燐香さんが山のように積み上がったプリント用紙を、僕の座っていたデスクに載せる。
「はい、これ間違いがないか、よく確認してね」
「あ、あの?」
「なに? 基本的なパソコン操作は教えたでしょ。後は実戦を積み重ねていけば、何とかなるものよ」
「いや、そうじゃなくて。この100枚どころじゃすまない書類を、僕一人で全部見るんですか?」
「そうねえ。未成年だから、勤務時間は夜の10時までと限られているわよね」
燐香さんが、うーんと口ずさみ、難しい表情を浮かべ、細いあごに手を添える。
他の歯科医師さんも、こういう事務仕事はノータッチなのか?
「じゃあ、一週間だけ、
「はっ、はあ……?」
私も協力して、一緒に手伝ってあげるという、優しさの選択肢はないのか。
燐香さんと付き合って理解した部分があった。
穏やかなふりして、彼女の
****
「うーん、この部分は、こう改正して、ここは行を入れかえて……」
日も暮れた時間にも構わず、無心で
こことかイージーミスで、普通に編集していたら分かるはずなんだけど……。
「もしかして、わざとなのか?」
この書類の束は燐香さんが作成しているだろうし、何でも
「いや、まさか。燐香さんに限って、そんなことはしないだろう」
「──そんなことって何かしら?」
「のわっー、何だー!?」
パソコンの冷却ファンしか聞こえない、ほぼ音のない仕切られた密室。
そこから予想外に飛び出てきた人の声に対処できず、大声で叫ぶ僕。
その驚きのあまり、デスクチェアから思わず滑りこける。
何だ、女の声だったが、もしや雪女の突撃か?
地球外生命体の来店だ。
即座にレーザー光線銃(おもちゃ)を用意して、緊急時に備えよ。
「あっ、ごめんなさい。立てる?」
だが、落ち着きを取り戻した視線の先にはいたのは、雪女ではなく、燐香さんだった。
マグカップと、お皿にのせたドーナツを持って、不安げに僕を見つめている。
そんな燐香さんがマグカップとお皿をデスクに置き、僕の手を引いて起こしてくれた。
「どう、作業は順調かしら?」
「あっ、はい。バイト代を頂いている以上、生半可な気持ちでは挑めないですから」
「そう。疲れたら言ってね。私は自室にいるから」
燐香さんが、もう一つのマグカップを持って立ち上がる。
お互いのパートナーとして、気になる
「あの、燐香さん。この間違えだらけの書類なんですが、ひょっとしてわざとですか?」
その言葉にピクリと肩を震わす彼女。
「どうして、そのようなことが言えるの?」
彼女は振り向きもせず、背中越しで静かに語りかける。
「いえ、燐香さんが、こんな単純なミスをするなんてあり得なくて、らしくないというか……」
「……らしくないって、どういう意味かしら?」
「えっ……」
燐香さんの低い声のトーンに、僕の体に悪寒が走る。
冷めたようで、内心では熱く怒っているのか。
こんな背筋が凍りつくような声、聞いたことがない。
「あっ、すみません。悪かったのなら、謝ります」
「ええ。今日はもう帰って……」
燐香さんの声が胸に突き刺さる。
僕は何をやらかしたのか。
何気ない言葉で相手の心を傷つけてしまったのだろうか。
「はい。分かりました」
今の彼女には、何を言っても無駄だ。
一晩置いて、冷静に物事を整理した方がいい。
僕はそれ以上は追求せずに、荷物を持って、当たり障りのないように病院を出た。
****
一辺の曇りもない、晴天の次の日。
「やだわ。せっかく来たのに、どういうことかしら?」
「今いないのかしら。本当に困ったわね」
シオサイ歯科医院の出入り口の前で、二人のおばちゃんが首をかしげている。
「どうかしたのですか? まだ診察時間じゃないですが?」
「あら、いつものバイトのお兄さんじゃない。どうしたもこうしたもじゃないわよ。これを見て」
おばちゃんの一人が、シャッターが降りた部分に貼っているプリントを指さす。
『私情により、誠にご勝手ながら、しばらくお休みいたします』
その文字は綺麗に整ったワープロ書きの文面で、見る者の心の胸を締めつけた。
「ねえ、お兄さんなら、何か知ってるんじゃない?」
「いえ、僕も初耳でして」
「そうかい。お兄さんも何も知らないのね」
おばちゃんがやれやれと肩を沈め、非常に残念そうな態度をする。
「あー、困ったわね。ここの歯医者、サービス良いし、親切丁寧な治療だったのにねえ」
「そうよねえ」
「ここ最近、燐香ちゃん目当てでの患者さん多かったし、業務に支障が出て、無理して体でも壊したのかしら?」
「そうそう。それが心配よねー」
おばちゃん二人が噂をするなか、僕は何も言えずに突っ立っていた。
あの日の喧嘩が原因かどうか知らないが、次の日からシオサイ歯科医院は無期限の臨時休業となったのだった。