午前九時十二分。
鳴ったのは希望の音ではなかった。
鷲羽翔(わしば・しょう)、四十三歳、無職。
都心へ向かう通勤電車の中、満員に押し潰されながらスマホを取り出した彼は、画面に浮かんだメールの件名を見て、心の中で「はい、出ました」とつぶやいた。
> 件名:採用選考の結果について
その一文だけで、すでに内容は察せる。
読む気力もない。それでも、何かの間違いがあるんじゃないかという一縷の望みにすがり、震える親指で本文を開いた。
> この度は弊社の求人にご応募いただき、誠にありがとうございました。
> 慎重に選考を行いました結果――
「はい、いつものやつだよ!!」
声にならない悲鳴が胸の中で反響する。
これで何通目だ? 二桁どころか、三桁の領域に入りかけている。
誰にも見せられない、翔の「お祈りメール」フォルダは、もうスマホの容量を圧迫しはじめていた。
翔はそっとスマホを伏せ、車内の床に視線を落とす。
彼の人生は、いまや“敗北の積み重ね”だった。
大学を出てから二十年間、地味ながら真面目に働いてきた。
経理や総務、庶務といった裏方業務に従事し、会社の数字と雑務をひたすら黙々と処理していた。
だが三年前、勤務先の早期退職制度が始まり、家庭の事情で応募。
「再就職なんて、すぐ見つかるさ」と軽く考えていた――あの時の自分をぶん殴りたい。
履歴書は返送すらされないこともあり、
面接には呼ばれても「うーん、ちょっと経験が特殊ですねぇ」と微妙な顔をされる。
求人票の「年齢不問」は、まやかしだと身に染みて知った。
“おっさん”というだけで、社会の需要から外れてしまったのだ。
ギュウギュウの通勤ラッシュ。吊革は取れず、背中にはリュック、前にはスマホの画面。
身動きも取れず、酸素も薄い。誰かのワキの下から謎の香り。
翔は思った。
――これが今の自分か。
希望もなく、行き先もわからず、ただ押し流されていくしかない人生。
「せめて……もう一回だけでいいんだ」
夢なんてもういい。
派手な成功も、富も名声もいらない。
普通の、ささやかな暮らしでいい。
一軒家に住んで、家族で食卓を囲んで、笑いながら生きる。
ほんのちょっと、心が安らぐ時間が欲しかった。
「神様でも、悪魔でもいい……頼むから、俺に――」
次の瞬間。
《ブオォォォォオオオオオオッ!!!!》
耳を劈くブレーキ音。
強烈な揺れ。
隣のサラリーマンの肘が顔面に入り、倒れそうになった瞬間、翔の視界がぐにゃりと歪んだ。
「えっ、うわっ――」
思考が止まり、体が浮く感覚。
光と音が急激に遠のいていき――
彼は、意識を手放した。
どこか、柔らかい。
そして、あたたかい。
翔は、ゆっくりと目を開いた。
目に映ったのは、見知らぬ天井だった。
安っぽい蛍光灯ではなく、木目の美しい梁。
鼻をくすぐるのは、乾いた藁と木材の匂い。
「……病院?」
そんなわけがない。
窓の外から差し込む日差しが、明らかに異質だった。
光が柔らかいのだ。どこか、絵本のような世界。
そして、身体も――軽い。
「あれ?」
鏡を探して、隅にあった姿見を覗き込む。
そこに映っていたのは――三十代前半の、やや精悍な男。
「誰だお前!?」
いや、間違いなく自分なのだ。
けれど、明らかに若返っている。
肌にハリがあり、髪もある。シワもたるみも消えている。
腹も出ていない!
「うそ……うそだろ……」
さらに混乱する頭に、突如情報が流れ込んできた。
ファルコ・フライハイル。32歳。村出身。特技:帳簿整理。趣味:紙の匂いを嗅ぐこと。職歴:事務職一筋。
「ちょっ、まっ……なんだこれ!? 誰の人生だ!?」
いや、これが自分なのだ。
記憶が混ざっている。
“翔”としての記憶と、“ファルコ”としての記憶が、違和感なく混在している。
つまり――
「転生した……のか?」
しばらくして、宿屋の主が部屋にやってきた。
「お、起きたか。昨日はずいぶん酔ってたらしいなぁ」
「……酔ってた?」
「なんだ、覚えてねぇのか。あんた、『都会に出てギルドに転職する!』っつって飲んでただろ。『事務仕事にサヨナラだー!』って叫びながら床で寝てたぞ?」
「まじかよ、ファルコ……」
翔=ファルコは頭を抱えた。
神か悪魔かは知らないが、願いは確かに届いた。
“転職”は……成功している。物理的に。
「けど、これ……どう考えても、想像以上に転職してるだろ……」
部屋の外に出ると、そこには見たこともない街並みが広がっていた。
石造りの建物。馬車。空を飛ぶ小さなドラゴンみたいな何か。
どこをどう見ても、これは現代日本ではない。
だが、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、胸の奥が高鳴っている。
「……よし。まずは情報収集と、ギルド登録だな」
この世界で生きるには、冒険者になるのが一番の近道だとファルコの記憶が囁いていた。
勇者じゃなくていい。賢者でも、剣豪でもなくていい。
ただ、普通の冒険者になれれば。
その一歩を踏み出すことが、今の翔にとって、確かに「再スタート」だった。