翌朝、目覚ましが鳴る前にスマホが震えた。
《おはようございます。一条です。昨日は助かりました。——朝のコーヒー、淹れる派?買う派?》
唐突だけど、悪い感じはしない。
《家で淹れる派。台所の音が好きなので》
《名答。では昼は僕が買う派で。十三時、帝都の向かいにある小さな珈琲店でどうでしょう。打合せの前に十五分だけ》
“十五分だけ”。押しが強いのに、きちんと逃げ道を用意してくる。
《分かりました。十五分だけ》
《延長されたら、喜びます》
朝から軽い冗談。指先が少しだけ温かくなる。
カウンターしかない小さな珈琲店。
「ようこそ」
蓮はジャケットのボタンを外し、立ったまま私の椅子を引いた。
「十五分。延長交渉は後で」
「交渉成立の可能性は?」
「観察の結果次第です」
彼は店主に短く注文し、私に向き直る。
「ブラック?」
「今日はラテで」
「甘い日だ」
「たまに」
「いいですね。甘い“たまに”は貴重」
運ばれてきたラテはミルクの香りがやさしく、泡の上に葉っぱの絵が描かれていた。
「葉脈の入り方、丁寧ですね」
「……やっぱり観察する」
「職業病です」
「元・職業病?」
「現・武器、かな」
「美咲さん」
「はい」
「仕事の話から一つ。ガラ当日、会場導線の見直しをお願いしたい。入場の列に“溜まり”ができると、皆が不機嫌になる。不機嫌は募金額を下げる。数字の話で恐縮ですが、ここは現実です」
「分かります。不機嫌は空気にうつる」
「あなたの“場を守る気配”が必要だ」
「肩書は?」
「外部ディレクター。役職じゃなく、役割です」
即答できない沈黙を、彼は邪魔しなかった。
「少し考えます」
「もちろん」
「もう一つ、プライベート」
空気が、ほんの少し変わる。
「来週、財団の図書室を一般公開します。静かで、人が少なくて、音のある静けさがあります。案内してもいいですか」
「図書室?」
「古い寄贈本が並んでいます。香りがいい。紙の匂いは時間の匂いです」
「行ってみたい」
「やった」
彼の目尻が子どもみたいに和らぐ。
私は笑いかけ、すぐに真顔に戻した。
「ひとつ、条件が」
「どうぞ」
「送迎や、目立つ贈り物はなし。私の“普通”を借りないでください」
「承知。あなたの普通を尊重します。——借りない、の定義、好きです」
「ありがとう」
ラテの泡をスプーンで崩しながら、心の中でチェックを入れる。確認し、守る人。それが彼の第一印象だった。
「そろそろ十五分」
「延長交渉を」
「条件は?」
「三分。質問を一つだけ」
「どうぞ」
「あなたは、過去を“いつ”話しますか」
空気が、少しだけ冷える。
私は視線を落とさずに答えた。
「私が、私に勝てた日」
彼は即座に頷いた。
「了解。待てます」
「待てる?」
「待ちます、じゃなく、“待てる”。動詞の形は、責任の形です」
「……言葉の選び方、好きです」
「観察の結果です」
二人はそれとなく微笑みながら視線が重なり合った。
打合せ室で私はフロア図にペンで点を打った。
「受付の“前”に、笑顔の予備軍を置きたい。案内係じゃなく“笑顔の置き場”。緊張は入口で解くのが最短です」
役員の一人が腕を組む。
「笑顔の置き場、とは?」
「受付のさらに手前。来場者に一言だけ。『本日はお越しくださってありがとうございます』。その一言を言うための人です」
「一言だけ?」
「それ以上は邪魔です」
場に小さな笑いが走り、蓮がすかさずまとめる。
「採用。人選は僕がやる。視線の高さが合う人を配置しよう」
「視線の高さ?」
「背の話じゃない。目線の温度」
——やっぱり、見ている。
当日リハーサルの休憩。廊下の端に、紙コップのコーヒーが山のように並んだ台車がある。
「ご自由にどうぞ、って書いてあります」
スタッフが笑う。
紙コップの底に、小さなスタンプ。“Thanks, team.”
「誰の差し入れ?」
「匿名です」
匿名、という言葉に苦い記憶がよぎる。けれど今は、ただ温かい。
コーヒーはほどよい温度で、苦味が短い。
私は一口飲み、台車の角をそっとずらした。人の流れとぶつからない角度に。
「見てた?」
振り向くと、蓮が少し離れたところで頷いた。
「角度、五度。衝突が減る」
「観察の結果です」
「合言葉みたいになってきましたね」
「使いすぎ注意」
「では新しい合言葉を作りましょう」
「何にします?」
「“音のある静けさ”」
「長い」
「長いけど、効きます」
その夜図書室の下見に出かけた。
重い扉の向こうは、紙と木の匂い。
「ここ、好きです」
「そうだろうと思ってました」
「どうして」
「観察の結果です」
「反則」
棚の影に、パブリックドメインのレコードを鳴らす古いプレーヤー。針が落ちると、微かなノイズとチェロの低音。
「音のある静けさ、とはこういうこと?」
「近い」
「何が足りない?」
「湯気」
「湯気?」
「お湯の立つ音があれば、完璧」
蓮は笑い、非常口の灯りに視線を流した。
「ポットを持ち込みましょう。安全管理は僕が通す」
「無理しないで」
「無理はしません。調整はします」
言い換えのセンスが、好きだと思った。
「一つお願いが」
「どうぞ」
「写真を撮らないでほしい」
「わかっています」
「私が頼むまで、撮らないで」
「わかってます」
二度、同じ意味で頷く。
人は“約束したことを守る”より、“約束の形を大切にする”方が難しい。それを彼は自然にやる。
帰り道。正面玄関の先で、フラッシュが一つ。
「すみません、一条さん——」
カメラ。
私は反射的に半歩下がる。
蓮は帽子のつばを軽く下げ、私の前に出た。
「取材は広報室へ。今は私的時間です」
「同行の方は?」
「関係者です」
短く、きっぱり。説明しない説明。
彼は私に目だけで「こっち」と合図し、スタッフ通用口へ誘導した。
廊下で立ち止まり、深く頭を下げる。
「驚かせてすみません」
「慣れてます。——傘、差し出すみたいに立ったね」
「傘より頼りないですよ」
「でも濡れなかった」
「なら、よかった」
「送ります」
「最寄りで大丈夫」
「わかりました」
駅前。信号待ち。
「コーヒー、今日で二杯目です」
「たぶん、明日も一杯」
「依存に気をつけます」
「依存は嫌い?」
「嫌いです。借りるのと似ているから」
「なるほど」
青になり、横断歩道を渡る。
「美咲さん」
「はい」
「次は“仕事”じゃなく、昼休みの四十五分をください。弁当を持って、公園で。人の少ないベンチを、知っています」
「押すね」
「押します。あなたが止めたら、止まります」
「止めたら?」
「止められる距離にいます」
それは、私が求めていた形の“押し”だった。
「いいでしょう。四十五分。ただし、弁当は手作り禁止」
「なぜ」
「重くなる」
「では、サンドイッチを買います。パン屋の。レタス多め、マスタード少なめ」
「……観察の結果?」
「昨日、あなたがレタスだけ先に食べたから」
「そこ、見てたんだ」
「はい」
翌日、昼。
彼は時間ぴったりに現れ、紙袋からサンドイッチを二つ出した。
「レタス多め、マスタード少なめ」
「ありがとう」
ベンチに腰かけ、紙コップのスープの蓋を開ける。
「湯気」
「ね」
「音のある静けさです」
人の少ない公園。小さな噴水の水音、遠くの工事の金属音、子どもの笑い声。
私の呼吸が、その音に混ざる。
「——訊いても?」
蓮がスープの湯気越しに言う。
「“私が私に勝てた日”って、どんな日ですか」
「まだ来てない」
「そうか」
「でも、近い気がする」
「なぜ」
「“借りない普通”を、借りずに持てているから」
「誰にも、ですか」
「今のところは」
「今のところ」
彼は笑い、余計なことは言わなかった。
「一つ、僕の番」
「どうぞ」
「僕は、父の期待に負ける日が時々あります」
意外だった。
「負ける?」
「期待に寄りかかって立つと、楽です。でも、背中が曲がる」
「曲がる背中、嫌い?」
「嫌いです。自分の呼吸で立ってる顔が、やっぱり好きだから」
帝都ホテルの夜に彼が言った言葉が、静かに重なる。
「……そういう話、好きです」
「続きは次に」
「ずるい」
「猛アプローチの作法です」
「作法?」
「全部は言わない。次を作る」
「たしかに、ずるい」
レセプション当日。
入口の“笑顔の置き場”は、見事に機能した。
緊張した来場者の顔が、一瞬ゆるむ。そのゆるみが列の後方に連鎖し、受付がスムーズに回る。
募金箱の前にも小さな置き場を設置した。
「ありがとうございます」を言うだけの係。金額を聞かない口。
箱の中の封筒が、明らかに厚い。
「数字、伸びました」
蓮が小声で告げる。
「空気がよかったから」
「あなたの設計です」
「チームの仕事」
「チームの中心は、あなた」
彼が拍手を二度、静かに打った。これは、私にしか聞こえない拍手。
終演後。スタッフドアの前に、紙袋が一つ。
「匿名の差し入れ、二便目」
明子が笑って手渡す。
中には、小ぶりの白い花束と、カード。
——《今日の“音のある静けさ”に、ありがとう。一条》
「匿名じゃないよ」
「気づいた?」
「気づく」
「返事は?」
「返しません」
「どうして」
「“礼の次”を作るから」
「猛アプローチの作法、逆輸入ね」
「学習が早いの」
二人で笑う。
帰り道、駅の手前で、蓮が立ち止まる。
「次は、日曜日。昼の“台所”を借りに行ってもいいですか」
「借りない、って言った」
「台所は借りません。あなたの音を、聴きに行く」
「聴く?」
「湯が立つ音。鍋の音。あなたの普通の音」
胸の奥で、何かが静かに解けていく。
「……よろしい。三十分だけ」
「延長交渉は後で」
「成功率は?」
「観察の結果次第です」
改札の前で、彼が一歩だけ近づく。
「美咲さん」
「はい」
「借りないという約束を守りながら、近づきます」
「難しいね」
「難しいから、楽しい」
「面倒な人」
「そちらも」
短い沈黙。
「また、明日」
「また、明日」
電車が入ってきて、風がスカートの裾を揺らした。
私は白い花束を抱え直し、ホームに立つ。
今日、何度目かの“音のある静けさ”が、心に満ちていた。
猛アプローチは、勢いじゃなく、作法で来る。
それを受け止める作法も、私は持っている。
次は、私の番だ。