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第12話 猛アプローチの作法

 翌朝、目覚ましが鳴る前にスマホが震えた。


《おはようございます。一条です。昨日は助かりました。——朝のコーヒー、淹れる派?買う派?》


 唐突だけど、悪い感じはしない。


《家で淹れる派。台所の音が好きなので》

《名答。では昼は僕が買う派で。十三時、帝都の向かいにある小さな珈琲店でどうでしょう。打合せの前に十五分だけ》


 “十五分だけ”。押しが強いのに、きちんと逃げ道を用意してくる。


《分かりました。十五分だけ》

《延長されたら、喜びます》


 朝から軽い冗談。指先が少しだけ温かくなる。


カウンターしかない小さな珈琲店。


「ようこそ」

 蓮はジャケットのボタンを外し、立ったまま私の椅子を引いた。


「十五分。延長交渉は後で」

「交渉成立の可能性は?」

「観察の結果次第です」


 彼は店主に短く注文し、私に向き直る。


「ブラック?」

「今日はラテで」

「甘い日だ」

「たまに」

「いいですね。甘い“たまに”は貴重」


 運ばれてきたラテはミルクの香りがやさしく、泡の上に葉っぱの絵が描かれていた。


「葉脈の入り方、丁寧ですね」

「……やっぱり観察する」

「職業病です」

「元・職業病?」

「現・武器、かな」


「美咲さん」

「はい」

「仕事の話から一つ。ガラ当日、会場導線の見直しをお願いしたい。入場の列に“溜まり”ができると、皆が不機嫌になる。不機嫌は募金額を下げる。数字の話で恐縮ですが、ここは現実です」

「分かります。不機嫌は空気にうつる」

「あなたの“場を守る気配”が必要だ」

「肩書は?」

「外部ディレクター。役職じゃなく、役割です」


 即答できない沈黙を、彼は邪魔しなかった。


「少し考えます」

「もちろん」


「もう一つ、プライベート」

 空気が、ほんの少し変わる。


「来週、財団の図書室を一般公開します。静かで、人が少なくて、音のある静けさがあります。案内してもいいですか」

「図書室?」

「古い寄贈本が並んでいます。香りがいい。紙の匂いは時間の匂いです」

「行ってみたい」

「やった」


 彼の目尻が子どもみたいに和らぐ。

 私は笑いかけ、すぐに真顔に戻した。


「ひとつ、条件が」

「どうぞ」

「送迎や、目立つ贈り物はなし。私の“普通”を借りないでください」

「承知。あなたの普通を尊重します。——借りない、の定義、好きです」

「ありがとう」


 ラテの泡をスプーンで崩しながら、心の中でチェックを入れる。確認し、守る人。それが彼の第一印象だった。


「そろそろ十五分」

「延長交渉を」

「条件は?」

「三分。質問を一つだけ」

「どうぞ」

「あなたは、過去を“いつ”話しますか」


 空気が、少しだけ冷える。

 私は視線を落とさずに答えた。


「私が、私に勝てた日」


 彼は即座に頷いた。


「了解。待てます」

「待てる?」

「待ちます、じゃなく、“待てる”。動詞の形は、責任の形です」

「……言葉の選び方、好きです」

「観察の結果です」

二人はそれとなく微笑みながら視線が重なり合った。


 打合せ室で私はフロア図にペンで点を打った。


「受付の“前”に、笑顔の予備軍を置きたい。案内係じゃなく“笑顔の置き場”。緊張は入口で解くのが最短です」


 役員の一人が腕を組む。


「笑顔の置き場、とは?」

「受付のさらに手前。来場者に一言だけ。『本日はお越しくださってありがとうございます』。その一言を言うための人です」

「一言だけ?」

「それ以上は邪魔です」


 場に小さな笑いが走り、蓮がすかさずまとめる。


「採用。人選は僕がやる。視線の高さが合う人を配置しよう」

「視線の高さ?」

「背の話じゃない。目線の温度」

 ——やっぱり、見ている。


 当日リハーサルの休憩。廊下の端に、紙コップのコーヒーが山のように並んだ台車がある。


「ご自由にどうぞ、って書いてあります」


 スタッフが笑う。

 紙コップの底に、小さなスタンプ。“Thanks, team.”


「誰の差し入れ?」

「匿名です」


 匿名、という言葉に苦い記憶がよぎる。けれど今は、ただ温かい。

 コーヒーはほどよい温度で、苦味が短い。

 私は一口飲み、台車の角をそっとずらした。人の流れとぶつからない角度に。


「見てた?」


 振り向くと、蓮が少し離れたところで頷いた。


「角度、五度。衝突が減る」

「観察の結果です」

「合言葉みたいになってきましたね」

「使いすぎ注意」

「では新しい合言葉を作りましょう」

「何にします?」

「“音のある静けさ”」

「長い」

「長いけど、効きます」


 その夜図書室の下見に出かけた。

 重い扉の向こうは、紙と木の匂い。


「ここ、好きです」

「そうだろうと思ってました」

「どうして」

「観察の結果です」

「反則」


 棚の影に、パブリックドメインのレコードを鳴らす古いプレーヤー。針が落ちると、微かなノイズとチェロの低音。


「音のある静けさ、とはこういうこと?」

「近い」

「何が足りない?」

「湯気」

「湯気?」

「お湯の立つ音があれば、完璧」


 蓮は笑い、非常口の灯りに視線を流した。


「ポットを持ち込みましょう。安全管理は僕が通す」

「無理しないで」

「無理はしません。調整はします」

 言い換えのセンスが、好きだと思った。


「一つお願いが」

「どうぞ」

「写真を撮らないでほしい」

「わかっています」

「私が頼むまで、撮らないで」

「わかってます」


 二度、同じ意味で頷く。

 人は“約束したことを守る”より、“約束の形を大切にする”方が難しい。それを彼は自然にやる。


 帰り道。正面玄関の先で、フラッシュが一つ。


「すみません、一条さん——」


 カメラ。

 私は反射的に半歩下がる。

 蓮は帽子のつばを軽く下げ、私の前に出た。


「取材は広報室へ。今は私的時間です」

「同行の方は?」

「関係者です」


 短く、きっぱり。説明しない説明。

 彼は私に目だけで「こっち」と合図し、スタッフ通用口へ誘導した。

 廊下で立ち止まり、深く頭を下げる。


「驚かせてすみません」

「慣れてます。——傘、差し出すみたいに立ったね」

「傘より頼りないですよ」

「でも濡れなかった」

「なら、よかった」


「送ります」

「最寄りで大丈夫」

「わかりました」


 駅前。信号待ち。


「コーヒー、今日で二杯目です」

「たぶん、明日も一杯」

「依存に気をつけます」

「依存は嫌い?」

「嫌いです。借りるのと似ているから」

「なるほど」


 青になり、横断歩道を渡る。


「美咲さん」

「はい」

「次は“仕事”じゃなく、昼休みの四十五分をください。弁当を持って、公園で。人の少ないベンチを、知っています」

「押すね」

「押します。あなたが止めたら、止まります」

「止めたら?」

「止められる距離にいます」


 それは、私が求めていた形の“押し”だった。


「いいでしょう。四十五分。ただし、弁当は手作り禁止」

「なぜ」

「重くなる」

「では、サンドイッチを買います。パン屋の。レタス多め、マスタード少なめ」

「……観察の結果?」

「昨日、あなたがレタスだけ先に食べたから」

「そこ、見てたんだ」

「はい」


 翌日、昼。

 彼は時間ぴったりに現れ、紙袋からサンドイッチを二つ出した。


「レタス多め、マスタード少なめ」

「ありがとう」


 ベンチに腰かけ、紙コップのスープの蓋を開ける。


「湯気」

「ね」

「音のある静けさです」


 人の少ない公園。小さな噴水の水音、遠くの工事の金属音、子どもの笑い声。

 私の呼吸が、その音に混ざる。


「——訊いても?」


 蓮がスープの湯気越しに言う。


「“私が私に勝てた日”って、どんな日ですか」

「まだ来てない」

「そうか」

「でも、近い気がする」

「なぜ」

「“借りない普通”を、借りずに持てているから」

「誰にも、ですか」

「今のところは」

「今のところ」


 彼は笑い、余計なことは言わなかった。


「一つ、僕の番」

「どうぞ」

「僕は、父の期待に負ける日が時々あります」

 意外だった。

「負ける?」

「期待に寄りかかって立つと、楽です。でも、背中が曲がる」

「曲がる背中、嫌い?」

「嫌いです。自分の呼吸で立ってる顔が、やっぱり好きだから」


 帝都ホテルの夜に彼が言った言葉が、静かに重なる。


「……そういう話、好きです」

「続きは次に」

「ずるい」

「猛アプローチの作法です」

「作法?」

「全部は言わない。次を作る」

「たしかに、ずるい」


 レセプション当日。

 入口の“笑顔の置き場”は、見事に機能した。

 緊張した来場者の顔が、一瞬ゆるむ。そのゆるみが列の後方に連鎖し、受付がスムーズに回る。

 募金箱の前にも小さな置き場を設置した。

「ありがとうございます」を言うだけの係。金額を聞かない口。

 箱の中の封筒が、明らかに厚い。


「数字、伸びました」


 蓮が小声で告げる。


「空気がよかったから」

「あなたの設計です」

「チームの仕事」

「チームの中心は、あなた」


 彼が拍手を二度、静かに打った。これは、私にしか聞こえない拍手。


 終演後。スタッフドアの前に、紙袋が一つ。


「匿名の差し入れ、二便目」


 明子が笑って手渡す。

 中には、小ぶりの白い花束と、カード。


 ——《今日の“音のある静けさ”に、ありがとう。一条》


「匿名じゃないよ」

「気づいた?」

「気づく」

「返事は?」

「返しません」

「どうして」

「“礼の次”を作るから」

「猛アプローチの作法、逆輸入ね」

「学習が早いの」

 二人で笑う。


 帰り道、駅の手前で、蓮が立ち止まる。


「次は、日曜日。昼の“台所”を借りに行ってもいいですか」

「借りない、って言った」

「台所は借りません。あなたの音を、聴きに行く」

「聴く?」

「湯が立つ音。鍋の音。あなたの普通の音」

 胸の奥で、何かが静かに解けていく。

「……よろしい。三十分だけ」

「延長交渉は後で」

「成功率は?」

「観察の結果次第です」


 改札の前で、彼が一歩だけ近づく。

「美咲さん」

「はい」

「借りないという約束を守りながら、近づきます」

「難しいね」

「難しいから、楽しい」

「面倒な人」

「そちらも」


 短い沈黙。


「また、明日」

「また、明日」


 電車が入ってきて、風がスカートの裾を揺らした。

 私は白い花束を抱え直し、ホームに立つ。

 今日、何度目かの“音のある静けさ”が、心に満ちていた。

 猛アプローチは、勢いじゃなく、作法で来る。

 それを受け止める作法も、私は持っている。

 次は、私の番だ。

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