翌週。
私は、帝都ホテルの会議室にいた。
大理石の床、無駄のない照明、楕円形のテーブル。そこに座るのは、一条財閥の関連財団の役員たち。皆が濃紺や黒のスーツで武装し、言葉よりも沈黙の重さで場を支配していた。
「本日の進行役は私、一条 蓮です」
御曹司の声は、静かでよく通る。
「チャリティ・ガラの企画に関して、外部協力として——美咲さんに意見を伺いたい」
一斉に視線がこちらへ向いた。冷たく、値踏みするような眼差し。
私は、わずかに姿勢を正した。
「初めまして。美咲と申します」
声が震えないように、呼吸をゆっくり整える。
「私は長く“接客”の仕事をしてきました。お客様がどう振る舞えば心地よく過ごせるか——それを観察し、空気を作るのが役割でした」
ざわめきが起こる。役員の一人が眉をひそめた。
「なるほど。で、具体的には?」
挑むような視線。
私は、口元に小さな笑みを浮かべて答えた。
「この場でも、既にいくつか観察しました。
——時計を三度以上確認された方。退屈している証拠です。
——ネクタイを直した方。緊張で集中力が落ちています。
——そして、書類を指でトントンと揃える方。早く終わらせたい気持ちが出ています」
会議室の空気が一瞬固まる。
数名の役員が無意識に動作をやめた。
「こうした小さな癖が積み重なると、会場全体に“落ち着かない空気”が伝わります。
逆に、スタッフが一つ笑顔を見せるだけで、その緊張は和らぐ。ガラに必要なのは華やかな装飾より、安心できる空気の設計です」
沈黙。
次の瞬間、蓮がゆっくりと拍手をした。
「その通りだ」
彼の声が、場を切り替えた。
「我々は規模や金額に意識を取られすぎていた。けれど、美咲さんの視点は実際に参加者の心を動かす。チャリティに必要なのは数字だけではない」
役員たちは顔を見合わせ、やがて何人かが頷いた。
「……確かに一理ある」
「観察眼は侮れませんな」
私は内心で深く息を吐いた。
会議が終わり、廊下に出る。
張り詰めていた空気が消え、私は壁に背を預けた。
「緊張した」
「よくやりました」
横に現れた蓮が、淡い笑みを浮かべる。
「あなたが言ったことは、僕にも刺さった。僕も時々、数字に囚われすぎる」
「でも、あなたは人を見てる」
「そう見えますか?」
「見えます。さっき、私の声が震えた瞬間に、すぐ水を頼んでくれた」
「気づかれたか」
「ええ」
目が合い、二人で少し笑った。
「美咲さん」
「はい」
「前の経験は——武器だ」
蓮は真剣な目をして言った。
「それを隠す必要はない。むしろ堂々と、今のあなたを作った力として誇ればいい」
胸の奥が、じんと熱くなる。
今まで“過去”は、恥じるものだと思っていた。
でも彼は、それを肯定してくれる。
「……ありがとう」
「礼を言うのは僕のほうです」
帰り際、蓮がエレベーターの前で立ち止まった。
「来週のリハーサルも、同席をお願いしたい」
「私でいいんですか?」
「あなたでないと。——理由は?」
「観察の結果、ですか?」
「その通り」
二人で小さく笑う。
エレベーターの扉が閉まる直前、彼が言った。
「次は、プライベートでも会いましょう」
扉が閉じる。
鏡に映った自分の顔は、少しだけ誇らしげに見えた。
——私は、もう“元夜の女”ではない。
“観察眼を持つ女”。
そう呼ばれる日が、始まったのかもしれない。