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第10話 偶然の顔合わせ

 シャンデリアの光が天井で泡みたいに弾け、グラスの縁が小さく歌う。


 帝都ホテルのレセプションは、香水とテーブルフラワーと、柔らかな弦の音で満たされていた。


「こんばんは」


 隣席の彼が、さっきより少し近い距離で微笑んだ。


「さっきはご挨拶だけでしたね。改めて——一条 蓮です」


 ——一条...


 招待状の隅にあった名前が、現実の体温を持った。


「美咲です」

「知っていますよ。先ほどの自己紹介、聞こえていました」

「じゃあ、二度目の“初めまして”ですね」

「そんな感じです」


 彼は喉の奥で小さく笑い、シャンパンを軽く揺らした。


「パーティはお好きですか?」

「……得意ではないです」

「正直でいい。僕もです。騒がしいのは苦手で」

「でも、今日はずいぶんと注目されてるみたい」

「生まれの副作用です。治りません」


 その言い回しに、私は思わず笑ってしまった。


「お友だちと?」

「主催のチャリティの関係者にご挨拶を。美咲さんは?」

「友人に誘われて。……場違いかと心配でしたが」

「とんでもない。たぶん半分以上の人より、穏やかに場に馴染んでいます」

「褒めすぎです」

「観察の結果です」


 観察...


 その言葉に、胸のどこかがわずかに反応した。私もまた、人を観察してきた側だ。



「一条さま、少々お時間よろしいでしょうか」


 スタッフが小声で近づく。


「失礼」


 立ち上がる彼の上着の裾が、テーブルの水差しにかかったナプキンを引いた。


 嫌な予感。

 私はグラスを片手でそっと寄せ、空いている方の手でナプキンを押さえる。

 水差しは、揺れただけで止まった。


「あ、危な……」とスタッフが息を呑む。

「ありがとうございます」

 彼が目線だけで礼を言い、席を立った。


 ——身体が先に動いた。

 昔、グラスやボトルが倒れそうになるたび、指先が勝手に動いていたのを思い出す。


「夜の名残、ね」


 自分にだけ聞こえるくらいの声で笑って、私は手元のグラスを整えた。



 十分ほどして、彼が戻ってきた。

「お待たせしました。退屈しませんでした?」

「楽しかったですよ。テーブルの上だけは」

「テーブルの上だけ?」

「人間観察をしてました」

「どんな?」

「ネクタイを五回触る人は緊張、三回の人は退屈。指でグラスの脚を撫でるのは、とりあえず“退路の確認”。帰る口実を探しているときに、よく出ます」

「怖いなあ」

「大丈夫。言いませんから」

「じゃあ、僕の癖は?」

「さっき、ナプキンを引いたのはあなたの癖じゃない。周りを気にしすぎる人が隣にいると、テーブルがざわつく。あなたは……戻ってきたとき、先に私のグラスを見ました」

「見られてた」

「見えました」

「なぜ?」

「乾いてたから。さっき私が飲み干したのに、スタッフが忙しそうで」

「じゃあ——」

「じゃあ、何?」

「次の一杯は、僕が頼んでもいい?」


 彼が軽く手を挙げた。スタッフが音もなく現れ、私のグラスは新しい泡で満たされる。


「お上手」

「観察の結果です」



 音楽が変わり、スピーチの時間になった。

 壇上のスピーカーが話し始めると同時に、テーブルは小さな沈黙に包まれる。

 その沈黙の中で、彼が私のドレスの肩のところをそっと指差した。


「糸、出ています」

「え?」


 気づけば、本当に極細の糸が一筋だけ。


「失礼——」


 彼は自分の名刺ケースから、薄いミニハサミを取り出した。


「そんなもの、持ち歩いてるの?」

「習慣です。母に“男でも身だしなみは道具から”と言われました」


 彼の指先が、糸を一度だけ軽く引き、音もなく切る。


「ありがとう」

「こちらこそ」

「こちらこそ?」

「さっきの水差し。お互い様です」


 微笑が、グラスの泡みたいに弾けた。



「ところで」

 スピーチの合間に、彼が少し姿勢を正した。


「連絡先を交換しても?」


 不意に指先が冷たくなる。名刺は——今の私は、会社の肩書を持っていない。

 彼は、その一瞬の躊躇を正確に見ていた。


「名刺じゃなくていい。お名前と連絡の窓口だけ」

「……分かりました」


 スマホを取り出し、QRを表示する。

 彼は迷いなく読み取って、短くメッセージを打つ。


《今夜はありがとう。一条》


 通知が、私の手のひらで震えた。

 その震えが、少しだけ心地いい。


「美咲さん」

「はい」

「このあと、少しだけ歩きませんか。会場を抜けて、ホテルの中庭が綺麗なんです」

「……長くは。友人を待たせているので」

「もちろん」



 中庭は、思ったより静かだった。

 植え込みには白い小花、奥に水盤。夜風が甘く、遠くでタクシーのドアが閉まる音。


「ここ、僕が子どもの頃から変わらない」

「小さいときから来てたんですか」

「父に連れられて。退屈で、よく逃げ出して叱られました」

「今は逃げません?」

「逃げません。逃げない場所を、自分で作れる歳になりましたから」

「……いい答え」

「美咲さんは?」

「私?」

「逃げたいとき、逃げる場所」


 少し考えてから、私は言った。


「台所」

「台所?」

「水を出して、鍋に水を溜める音を聞く。落ち着くんです」

「へえ」

「きっと、——すみません、地味で」

「地味じゃない。僕は好きです。音のある静けさ」


 “音のある静けさ”。


 彼の言葉は、私にとっての台所の音と同じくらい、すっと胸に入ってきた。



 中庭の端で、彼の腕時計が小さく光った。


「時間、大丈夫ですか」

「そろそろ戻りましょう。——その前に」

「はい?」

「ひとつ、お願いしてもいいですか」


 彼は少しだけ真面目な表情になった。


「今、お仕事は?」

「フリーです」

「なら、差し支えなければ——来週のチャリティの打合せに同席してもらえませんか。今日の観察眼、さっきのナプキンの手、そして……」

「そして?」

「“場を守る気配”。企画側の目が一つ増えると、事故が減る。謝礼は出します。肩書きは“外部協力”。」

「私に、できるでしょうか」

「できますよ」


 迷いは、一分もしなかった。


「一度だけ、やってみます」

「一度されると、二度目をお願いしたくなる予感がします」

「それは、様子を見て」

「フェアですね」


 会場へ戻る途中、彼が立ち止まった。

 彼の靴の先に、カフリンクスの片方が落ちている。


「失くしたのかと思った」

「予感が当たった。ありがとう」

「こちらこそ」


 彼はポケットから白いハンカチを出して、私の手のひらにそっと置いた。


「さっき、糸の礼。お守りです。返さなくていい」

「もらってばかり」

「いいんです。貸し借りは、また今度でも」

「貸し借り?」

「たとえば、コーヒー。僕が奢る番」


 彼の目が、子どもみたいにいたずらっぽく笑った。



 ホールへ戻ると、明子がこちらを見つけてウインクした。


「どう?」

「空気が美味しい」

「なにそれ」

「内緒」


 テーブルでは抽選会が始まり、司会者が番号を読み上げては笑いが弾む。


「当たる気がしない」

「当てましょう」

「どうやって」

「観察の結果、司会者は偶数を続けて出せないタイプです」

「つまり?」

「次は奇数」


 ——本当に奇数が呼ばれた。


 隣のテーブルの女性が歓声を上げる。

 彼が肩をすくめる。


「たまには外します」

「当たってるじゃないですか」

「ほら、隣のテーブル」

「……それは盲点だ」


 笑い合って、拍手をする。

 少しだけ近い距離で。



 お開きのアナウンスで人の流れが出口へ向かい始める。


「今日はありがとうございました」

「こちらこそ」

「来週、連絡します。スケジュール、無理のない範囲で」

「はい」


 彼がふと、何かを思い出したように口を開く。


「最後に一つだけ」

「まだ何か?」

「“普通”って、なんだと思いますか」


 唐突。でも私には、馴染みのある問いだった。

 私は少しだけ考えて、答える。


「借りないこと。誰かの“普通”を借りないで、自分の支払いで立っていること」

「いい定義だ」

「ありがとうございます」

「僕もそれ、採用していいですか」

「借りないこと、の定義を借りるんですか」

「……たしかに矛盾している」


 二人で笑う。


「じゃあ、引用ということで」

「引用は許可します」


 出口の近くで、彼は少しだけ距離を詰めて言った。


「美咲さん」

「はい」

「“次の顔”、今日もう見えました」

「どんな顔でした?」

「自分の呼吸で立ってる顔」


 息が、胸の奥で一拍遅れてから跳ねた。


「——また」

「また」


 短い挨拶を交わし、私は明子と並んで外へ出た。

 夜風が頬を撫で、街の灯りが靴先で揺れる。


「で、御曹司は?」

「歩きやすい靴だった」

「そこ?」

「大事でしょ」


 明子が吹き出す。


「つまり、次がある顔だ」

「……あるかもしれない」


 私は自分でも驚くほど自然に、そう言えた。


 タクシーの窓越しに、帝都ホテルの灯りが遠ざかる。

 膝の上の白いハンカチを指で撫でる。

 糸切りの礼。お守り。

 借りものは返すのが礼儀だと思っていたけれど、今日は素直に受け取ることにした。

 “借りない普通”を目指すなら、最初に返すべきは過去の借金。もう、返し終えた。


 スマホが小さく震える。


《今日の“音のある静けさ”、覚えておきます。一条》


 私は短く返す。


《台所の音、今度聞かせます》


 送ってから、“今度”という言葉が指先に残った。

 それは約束ではない。けれど、約束の予感だ。


 信号が青に変わる。

 タクシーが滑るように走り出す。

 夜のガラスに映る自分の横顔は、少しだけ、新しかった。

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