シャンデリアの光が天井で泡みたいに弾け、グラスの縁が小さく歌う。
帝都ホテルのレセプションは、香水とテーブルフラワーと、柔らかな弦の音で満たされていた。
「こんばんは」
隣席の彼が、さっきより少し近い距離で微笑んだ。
「さっきはご挨拶だけでしたね。改めて——一条 蓮です」
——一条...
招待状の隅にあった名前が、現実の体温を持った。
「美咲です」
「知っていますよ。先ほどの自己紹介、聞こえていました」
「じゃあ、二度目の“初めまして”ですね」
「そんな感じです」
彼は喉の奥で小さく笑い、シャンパンを軽く揺らした。
「パーティはお好きですか?」
「……得意ではないです」
「正直でいい。僕もです。騒がしいのは苦手で」
「でも、今日はずいぶんと注目されてるみたい」
「生まれの副作用です。治りません」
その言い回しに、私は思わず笑ってしまった。
「お友だちと?」
「主催のチャリティの関係者にご挨拶を。美咲さんは?」
「友人に誘われて。……場違いかと心配でしたが」
「とんでもない。たぶん半分以上の人より、穏やかに場に馴染んでいます」
「褒めすぎです」
「観察の結果です」
観察...
その言葉に、胸のどこかがわずかに反応した。私もまた、人を観察してきた側だ。
「一条さま、少々お時間よろしいでしょうか」
スタッフが小声で近づく。
「失礼」
立ち上がる彼の上着の裾が、テーブルの水差しにかかったナプキンを引いた。
嫌な予感。
私はグラスを片手でそっと寄せ、空いている方の手でナプキンを押さえる。
水差しは、揺れただけで止まった。
「あ、危な……」とスタッフが息を呑む。
「ありがとうございます」
彼が目線だけで礼を言い、席を立った。
——身体が先に動いた。
昔、グラスやボトルが倒れそうになるたび、指先が勝手に動いていたのを思い出す。
「夜の名残、ね」
自分にだけ聞こえるくらいの声で笑って、私は手元のグラスを整えた。
十分ほどして、彼が戻ってきた。
「お待たせしました。退屈しませんでした?」
「楽しかったですよ。テーブルの上だけは」
「テーブルの上だけ?」
「人間観察をしてました」
「どんな?」
「ネクタイを五回触る人は緊張、三回の人は退屈。指でグラスの脚を撫でるのは、とりあえず“退路の確認”。帰る口実を探しているときに、よく出ます」
「怖いなあ」
「大丈夫。言いませんから」
「じゃあ、僕の癖は?」
「さっき、ナプキンを引いたのはあなたの癖じゃない。周りを気にしすぎる人が隣にいると、テーブルがざわつく。あなたは……戻ってきたとき、先に私のグラスを見ました」
「見られてた」
「見えました」
「なぜ?」
「乾いてたから。さっき私が飲み干したのに、スタッフが忙しそうで」
「じゃあ——」
「じゃあ、何?」
「次の一杯は、僕が頼んでもいい?」
彼が軽く手を挙げた。スタッフが音もなく現れ、私のグラスは新しい泡で満たされる。
「お上手」
「観察の結果です」
音楽が変わり、スピーチの時間になった。
壇上のスピーカーが話し始めると同時に、テーブルは小さな沈黙に包まれる。
その沈黙の中で、彼が私のドレスの肩のところをそっと指差した。
「糸、出ています」
「え?」
気づけば、本当に極細の糸が一筋だけ。
「失礼——」
彼は自分の名刺ケースから、薄いミニハサミを取り出した。
「そんなもの、持ち歩いてるの?」
「習慣です。母に“男でも身だしなみは道具から”と言われました」
彼の指先が、糸を一度だけ軽く引き、音もなく切る。
「ありがとう」
「こちらこそ」
「こちらこそ?」
「さっきの水差し。お互い様です」
微笑が、グラスの泡みたいに弾けた。
「ところで」
スピーチの合間に、彼が少し姿勢を正した。
「連絡先を交換しても?」
不意に指先が冷たくなる。名刺は——今の私は、会社の肩書を持っていない。
彼は、その一瞬の躊躇を正確に見ていた。
「名刺じゃなくていい。お名前と連絡の窓口だけ」
「……分かりました」
スマホを取り出し、QRを表示する。
彼は迷いなく読み取って、短くメッセージを打つ。
《今夜はありがとう。一条》
通知が、私の手のひらで震えた。
その震えが、少しだけ心地いい。
「美咲さん」
「はい」
「このあと、少しだけ歩きませんか。会場を抜けて、ホテルの中庭が綺麗なんです」
「……長くは。友人を待たせているので」
「もちろん」
中庭は、思ったより静かだった。
植え込みには白い小花、奥に水盤。夜風が甘く、遠くでタクシーのドアが閉まる音。
「ここ、僕が子どもの頃から変わらない」
「小さいときから来てたんですか」
「父に連れられて。退屈で、よく逃げ出して叱られました」
「今は逃げません?」
「逃げません。逃げない場所を、自分で作れる歳になりましたから」
「……いい答え」
「美咲さんは?」
「私?」
「逃げたいとき、逃げる場所」
少し考えてから、私は言った。
「台所」
「台所?」
「水を出して、鍋に水を溜める音を聞く。落ち着くんです」
「へえ」
「きっと、——すみません、地味で」
「地味じゃない。僕は好きです。音のある静けさ」
“音のある静けさ”。
彼の言葉は、私にとっての台所の音と同じくらい、すっと胸に入ってきた。
中庭の端で、彼の腕時計が小さく光った。
「時間、大丈夫ですか」
「そろそろ戻りましょう。——その前に」
「はい?」
「ひとつ、お願いしてもいいですか」
彼は少しだけ真面目な表情になった。
「今、お仕事は?」
「フリーです」
「なら、差し支えなければ——来週のチャリティの打合せに同席してもらえませんか。今日の観察眼、さっきのナプキンの手、そして……」
「そして?」
「“場を守る気配”。企画側の目が一つ増えると、事故が減る。謝礼は出します。肩書きは“外部協力”。」
「私に、できるでしょうか」
「できますよ」
迷いは、一分もしなかった。
「一度だけ、やってみます」
「一度されると、二度目をお願いしたくなる予感がします」
「それは、様子を見て」
「フェアですね」
会場へ戻る途中、彼が立ち止まった。
彼の靴の先に、カフリンクスの片方が落ちている。
「失くしたのかと思った」
「予感が当たった。ありがとう」
「こちらこそ」
彼はポケットから白いハンカチを出して、私の手のひらにそっと置いた。
「さっき、糸の礼。お守りです。返さなくていい」
「もらってばかり」
「いいんです。貸し借りは、また今度でも」
「貸し借り?」
「たとえば、コーヒー。僕が奢る番」
彼の目が、子どもみたいにいたずらっぽく笑った。
ホールへ戻ると、明子がこちらを見つけてウインクした。
「どう?」
「空気が美味しい」
「なにそれ」
「内緒」
テーブルでは抽選会が始まり、司会者が番号を読み上げては笑いが弾む。
「当たる気がしない」
「当てましょう」
「どうやって」
「観察の結果、司会者は偶数を続けて出せないタイプです」
「つまり?」
「次は奇数」
——本当に奇数が呼ばれた。
隣のテーブルの女性が歓声を上げる。
彼が肩をすくめる。
「たまには外します」
「当たってるじゃないですか」
「ほら、隣のテーブル」
「……それは盲点だ」
笑い合って、拍手をする。
少しだけ近い距離で。
お開きのアナウンスで人の流れが出口へ向かい始める。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「来週、連絡します。スケジュール、無理のない範囲で」
「はい」
彼がふと、何かを思い出したように口を開く。
「最後に一つだけ」
「まだ何か?」
「“普通”って、なんだと思いますか」
唐突。でも私には、馴染みのある問いだった。
私は少しだけ考えて、答える。
「借りないこと。誰かの“普通”を借りないで、自分の支払いで立っていること」
「いい定義だ」
「ありがとうございます」
「僕もそれ、採用していいですか」
「借りないこと、の定義を借りるんですか」
「……たしかに矛盾している」
二人で笑う。
「じゃあ、引用ということで」
「引用は許可します」
出口の近くで、彼は少しだけ距離を詰めて言った。
「美咲さん」
「はい」
「“次の顔”、今日もう見えました」
「どんな顔でした?」
「自分の呼吸で立ってる顔」
息が、胸の奥で一拍遅れてから跳ねた。
「——また」
「また」
短い挨拶を交わし、私は明子と並んで外へ出た。
夜風が頬を撫で、街の灯りが靴先で揺れる。
「で、御曹司は?」
「歩きやすい靴だった」
「そこ?」
「大事でしょ」
明子が吹き出す。
「つまり、次がある顔だ」
「……あるかもしれない」
私は自分でも驚くほど自然に、そう言えた。
タクシーの窓越しに、帝都ホテルの灯りが遠ざかる。
膝の上の白いハンカチを指で撫でる。
糸切りの礼。お守り。
借りものは返すのが礼儀だと思っていたけれど、今日は素直に受け取ることにした。
“借りない普通”を目指すなら、最初に返すべきは過去の借金。もう、返し終えた。
スマホが小さく震える。
《今日の“音のある静けさ”、覚えておきます。一条》
私は短く返す。
《台所の音、今度聞かせます》
送ってから、“今度”という言葉が指先に残った。
それは約束ではない。けれど、約束の予感だ。
信号が青に変わる。
タクシーが滑るように走り出す。
夜のガラスに映る自分の横顔は、少しだけ、新しかった。