離婚が成立してから三週間。
ようやく私の生活は、私だけの音で回り始めた。
朝、アラームより早く目が覚める。窓を開けると、秋の風。昨日までは重かったカーテンが、軽く揺れている。
「おはよう、私」
口に出すと、ほんの少し笑えた。
午前十時。銀座の小さな英会話スクール。
「Hi, Misaki. Nice to meet you!」
「Nice to meet you too. I’m Misaki.」
担当の女性講師が目を丸くした。
「発音、とても綺麗ですね」
「前の仕事で海外のお客さんもいたので」
言ってから、少し照れくさい。
レッスンの後、講師が笑いながら聞いてきた。
「旅行の予定とかあります?」
「……まだ。でも、“次”の私に必要だから」
「素敵。じゃあ次はディナーで使う会話にしましょうか」
「はい、お願いします」
“ディナー”。それだけで少し胸が躍る。
——かつては、店のライトの下で聞いていた言葉。今は、私自身の選択肢として口にできる。
午後はジムのロッカーでシューズに履き替えながら、隣の女性が話しかけてきた。
「初めてですか?」
「はい。……体、固くて」
「大丈夫、みんな最初はそう」
ピラティスのマットに寝転ぶ。インストラクターの声が柔らかく響く。
「吸って、吐いて。背中を床に沈めましょう」
呼吸を整えるだけで、胸の奥が解けていく。
汗をかいて鏡を見ると、少し頬が赤い。
「……悪くない」
小さな声でつぶやいた。
ジムの後は美容皮膚科の待合室。
白いソファに腰かけると、隣の女性がスマホを見ながら溜息をついていた。
「彼氏にフラれて、もうボロボロで」
ふと目が合い、思わず微笑んでしまう。
「私も最近、終わったばかりです」
「……え、離婚?」
「はい」
「すご、前向き……」
「“整える”のが好きなんです。体も肌も心も」
「かっこいい……」
順番が来て立ち上がるとき、女性が小声で言った。
「私も、頑張ろ」
「うん。一緒に」
見知らぬ誰かと少し言葉を交わすだけで、新しい道を歩いている気がした。
夜、帝都ホテルのレセプション。
明子に誘われ、少し早めに着いた。大理石のホールに足を踏み入れると、天井のシャンデリアが眩しい。
「みさき!」
明子が駆け寄ってくる。ブルーのドレスがよく似合う。
「来てくれてよかった!」
「こんな場所、久しぶりで……緊張する」
「似合ってるよ。ほら、背筋伸ばして」
明子が私の肩を軽く押す。鏡に映った私は、黒のドレスにパールのピアス。数週間前の離婚調停の日と同じ装い。
でも、今日は全く違う意味を持っている。
「今日はね、財界の御曹司も来るんだって」
「へえ……私には関係ないけど」
「そう? みさきならすぐ話題さらえるって」
「やめてよ」
二人で笑った瞬間、ホールの空気が一変した。
重厚な扉が開き、数人の男性グループが入ってくる。記者らしき人々が小声で囁く。
「……あれ、一条グループの後継ぎじゃない?」
「ほんとだ、珍しい」
彼の視線がふとこちらに流れてきた。
一瞬、目が合った。
何かを測るような、でも柔らかい眼差し。
私は咄嗟に目を逸らす。胸が、強く跳ねた。
「……今の、誰?」
「財閥の御曹司。名前は——」
明子が言いかけた時、スタッフが私たちの方へ近づいてきた。
「失礼します。お席はこちらへ」
導かれたテーブルの隣には、さっきの男性がいた。
シャンパンの泡が立ち上る。
「こんばんは」
彼が微笑んだ。落ち着いた低い声。
「初めてお会いしますね」
「……はい」
頬が少し熱い。
「お名前を伺っても?」
「美咲です」
「美咲さん。いい名前だ」
彼はそれ以上名乗らなかった。ただ、視線をまっすぐに向けてくる。
「よかったら、乾杯を」
グラスが触れ合い、小さな音を立てた。
その瞬間、胸の奥にまたあの声が響いた。
——“次の顔を見においで”。
私は、次の顔を作り始めている。
そう確信した。