「今日で終わらせよう」
朝、鏡の前で自分にそう言った。パール一粒のピアス、黒のワンピース、落ち着いた口紅。夜の世界で磨いた“気配の整え方”を、昼の戦場に持っていく。
「確認します——心理戦・金と信用・業界・離婚。四手を同日に畳み込みます」
篠原弁護士が白いテーブルの上に封筒を四つ、音を立てずに並べた。
「順番は?」
「一と二は水面下で継続中。三は午前、四は午後で決着を」
「了解。誠二さんは?」
篠原が視線で合図すると、奥の席でコーヒーを持つ高橋誠二が短く頷いた。
「店のほう、午前十一時に“面談”。録音はこっちで拾う」
「ありがとう」
スマホが震く。——明子。
『バックヤード、もうピリピリ。マネが“太客、面倒”ってまた言った』
『録音お願い。無理しないで』
『了解』
深呼吸。胸の奥にある“怒り”は、すでに紙とデータに変わっている。今日はただ、置き場に置くだけだ。
11:10、駅前のカフェ。
明子から通話が入る。喧騒の向こうで、低い男の声が拾えた。
《休むことが続くと店が困るんだよ》
《太客の素性、会社巻き込んでるって何》《火の粉がこっちに来たら——》
続いて、震える女の声。
《でも…もう、名義はちゃんとするって》《私、迷惑かけたくない》
私は音量を下げ、メモに「名義」「面倒」「迷惑」とだけ書いた。
「——十分」
誠二が小さく笑い、ICレコーダーを指で弾いた。
「反訳して、こっちにも回す」
画面の通知がもう一つ。裏アカのDMだ。
《もう関わらないで。あなた誰なの》
私は一行だけ返す。
《“それなり”は、今日で終わり》
既読。返事は来ない。来なくていい。
午後。区の調停室。
薄い木目のテーブルを挟んで、私と篠原。向かいに健介、その代理人。
健介は視線を落としたまま、卓上のペットボトルを触っている。指の節が白い。
「まず事実確認から」
篠原の声は柔らかい。
「ホテル宿泊の名義、こちらのご主人。ラウンジ利用の領収、タクシーの降車時刻、SNSの投稿時刻——整合します。否認は?」
健介は一度目を閉じ、短く息を吐いた。
「……否認しません」
卓上の空気が、ひとつ沈んだ。私の中の何かも、ゆっくり沈んだ。
「条件の提示に移ります」
篠原が紙をめくる音が小さく響く。
「慰謝料は相場上限近く、共有財産は正味50%で分与。賃貸契約は妻側へ承継、退去は二週間。以後の連絡は代理人経由のみ。双方、SNS・会社・家族へ不適切な言及禁止」
代理人が計算機を叩き、健介の耳元で囁く。
「……受けます」
健介の声は掠れていた。
「最後に一点」
篠原がペン先を上げる。
「相手女性への連絡・接触は、以後一切行わない。違反時は違約金——」
「わかりました」
健介が遮った。顔は上げない。
捺印した紙の繊維に朱が沁みる。
——終わった。
内側の鉛が一つ、静かに床に置かれたような感覚。
「……美咲」
席を立つ直前、健介が小さく私の名を呼んだ。
「ごめん」
「ううん」
私は首を横に振った。
「“ごめん”と“終わり”は、別物だよ」
それ以上は、言わない。言葉は、もう紙に全部書いてきた。
廊下を出ると、スマホが震えた。明子だ。
『彼女、しばらく“外し”。実質、準引退。アカウントも鍵かけた』
「そう……体は大丈夫?」
『泣いてた。——ねえ、みさき。救いまでは、あなたの仕事?』
私は数秒黙って、正直に答えた。
「違う。私は、終わらせに来た」
『うん。わかってる』
返信を書きかけて、やめる。
かわりに、短いエッセイを開いた。
——“普通”は借り物じゃつらい。
——記録は、誰の味方もしない。
——私が私の味方をやる。
公開ボタンを押す。固有名詞は一つもない。
でも、数時間後、会社に全社通達が出た。
〈社名・肩書きの私的利用の禁止徹底〉
誰も名前を言わないのに、全員が知っている。灯りをつけただけで、影の形が浮かぶ。
夕方、玄関の鍵が回り、健介が入ってくる。紙袋ひとつ。
「鍵、これ」
差し出された鍵束は、少し重かった。
「二週間、ありがとう」
「……世話になった」
妙に他人行儀な言葉。もう“夫婦”ではないのだから、正しい。
「ねえ、最後に一つだけ」
「……何」
「“普通”が欲しいって、あなたが言ったよね」
「……ああ」
「じゃあこれは、あなたの“普通”を守るための終わりでもある。——会社にも、あなたの家族にも...」
健介の喉が動いた。
「……ありがとう」
「ううん。私のため」
それが真実。私は私のために、今日ここまで来た。
ドアが閉まる。足音が遠ざかる。
部屋に私だけの空気が戻る。
「普通、ね」
ひとりごちて、窓を開けた。秋の乾いた風がカーテンを膨らませる。
その夜、明子に電話をかけた。
「終わったよ」
『おめでとう——って言っていいのかな』
「言って」
『おめでとう。で、仕上げの“スカッと”、どうする?』
「静かに」
『静かに?』
「“事実の置き配”。noteは出した。タグはつけない。あとは読む人が勝手に当てる」
『了解。——そうだ、週末のレセプション、覚えてる?』
「帝都ホテル?」
『うん。ドレスで来な。鏡の中の“次の顔”、見においで』
「行く」
迷いはなかった。
通話を切ると、誠二から短いメッセージ。
『一連、クローズ。データは三重バックアップ。君の名前はどこにも出てない』
《ありがとう。これでいい》
『じゃ、また“平和な依頼”の時に』
《そんなのある?》
『君なら作れる』
笑ってしまった。
——作れる、か。
たぶん、作れる。
夜の女として“空気を整える”ことを、私は知っている。昼の女として“紙を整える”ことも知った。次は、私自身を整える番だ。
寝る前に、最後のDMを送った。
宛先は彼女。
《鍵、かけたね。正しいと思う》
既読。返事はやはり来ない。
スマホを伏せ、明かりを落とす。
暗闇の中で、静かに息を吐く。
復讐は、叫んだら短い。静かにやると、長持ちする。
そして何より、自分が静かに眠れる。
——第一部、閉幕。
翌朝の手帳には、新しい予定が四つ。
英会話、ピラティス、美容皮膚科、そして帝都ホテル。
ページの余白に、小さく書く。
“夜の名残で、昼を磨く”。
カーテン越しの朝が、少し広く見えた。
窓を開ける。
風が、次の幕の匂いを運んできた。