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第8話 終わらせる日


「今日で終わらせよう」


 朝、鏡の前で自分にそう言った。パール一粒のピアス、黒のワンピース、落ち着いた口紅。夜の世界で磨いた“気配の整え方”を、昼の戦場に持っていく。



「確認します——心理戦・金と信用・業界・離婚。四手を同日に畳み込みます」


 篠原弁護士が白いテーブルの上に封筒を四つ、音を立てずに並べた。


「順番は?」

「一と二は水面下で継続中。三は午前、四は午後で決着を」

「了解。誠二さんは?」


 篠原が視線で合図すると、奥の席でコーヒーを持つ高橋誠二が短く頷いた。


「店のほう、午前十一時に“面談”。録音はこっちで拾う」

「ありがとう」


 スマホが震く。——明子。


『バックヤード、もうピリピリ。マネが“太客、面倒”ってまた言った』

『録音お願い。無理しないで』

『了解』


 深呼吸。胸の奥にある“怒り”は、すでに紙とデータに変わっている。今日はただ、置き場に置くだけだ。


 11:10、駅前のカフェ。

明子から通話が入る。喧騒の向こうで、低い男の声が拾えた。


《休むことが続くと店が困るんだよ》

《太客の素性、会社巻き込んでるって何》《火の粉がこっちに来たら——》


 続いて、震える女の声。


《でも…もう、名義はちゃんとするって》《私、迷惑かけたくない》


 私は音量を下げ、メモに「名義」「面倒」「迷惑」とだけ書いた。


「——十分」


 誠二が小さく笑い、ICレコーダーを指で弾いた。


「反訳して、こっちにも回す」


 画面の通知がもう一つ。裏アカのDMだ。


《もう関わらないで。あなた誰なの》


 私は一行だけ返す。


《“それなり”は、今日で終わり》


 既読。返事は来ない。来なくていい。


 午後。区の調停室。

 薄い木目のテーブルを挟んで、私と篠原。向かいに健介、その代理人。

 健介は視線を落としたまま、卓上のペットボトルを触っている。指の節が白い。


「まず事実確認から」


 篠原の声は柔らかい。


「ホテル宿泊の名義、こちらのご主人。ラウンジ利用の領収、タクシーの降車時刻、SNSの投稿時刻——整合します。否認は?」


 健介は一度目を閉じ、短く息を吐いた。


「……否認しません」


 卓上の空気が、ひとつ沈んだ。私の中の何かも、ゆっくり沈んだ。


「条件の提示に移ります」


 篠原が紙をめくる音が小さく響く。


「慰謝料は相場上限近く、共有財産は正味50%で分与。賃貸契約は妻側へ承継、退去は二週間。以後の連絡は代理人経由のみ。双方、SNS・会社・家族へ不適切な言及禁止」


 代理人が計算機を叩き、健介の耳元で囁く。


「……受けます」


 健介の声は掠れていた。


「最後に一点」


 篠原がペン先を上げる。


「相手女性への連絡・接触は、以後一切行わない。違反時は違約金——」

「わかりました」


 健介が遮った。顔は上げない。


 捺印した紙の繊維に朱が沁みる。


 ——終わった。


 内側の鉛が一つ、静かに床に置かれたような感覚。


「……美咲」


 席を立つ直前、健介が小さく私の名を呼んだ。


「ごめん」

「ううん」


 私は首を横に振った。


「“ごめん”と“終わり”は、別物だよ」


 それ以上は、言わない。言葉は、もう紙に全部書いてきた。



 廊下を出ると、スマホが震えた。明子だ。

『彼女、しばらく“外し”。実質、準引退。アカウントも鍵かけた』

「そう……体は大丈夫?」

『泣いてた。——ねえ、みさき。救いまでは、あなたの仕事?』


 私は数秒黙って、正直に答えた。


「違う。私は、終わらせに来た」

『うん。わかってる』


 返信を書きかけて、やめる。

 かわりに、短いエッセイを開いた。


 ——“普通”は借り物じゃつらい。

 ——記録は、誰の味方もしない。

 ——私が私の味方をやる。


 公開ボタンを押す。固有名詞は一つもない。

 でも、数時間後、会社に全社通達が出た。

 〈社名・肩書きの私的利用の禁止徹底〉

 誰も名前を言わないのに、全員が知っている。灯りをつけただけで、影の形が浮かぶ。


 夕方、玄関の鍵が回り、健介が入ってくる。紙袋ひとつ。


「鍵、これ」


 差し出された鍵束は、少し重かった。


「二週間、ありがとう」

「……世話になった」


 妙に他人行儀な言葉。もう“夫婦”ではないのだから、正しい。


「ねえ、最後に一つだけ」

「……何」

「“普通”が欲しいって、あなたが言ったよね」

「……ああ」

「じゃあこれは、あなたの“普通”を守るための終わりでもある。——会社にも、あなたの家族にも...」


 健介の喉が動いた。


「……ありがとう」

「ううん。私のため」


 それが真実。私は私のために、今日ここまで来た。


 ドアが閉まる。足音が遠ざかる。

 部屋に私だけの空気が戻る。


「普通、ね」


 ひとりごちて、窓を開けた。秋の乾いた風がカーテンを膨らませる。


 その夜、明子に電話をかけた。


「終わったよ」

『おめでとう——って言っていいのかな』

「言って」

『おめでとう。で、仕上げの“スカッと”、どうする?』

「静かに」

『静かに?』

「“事実の置き配”。noteは出した。タグはつけない。あとは読む人が勝手に当てる」

『了解。——そうだ、週末のレセプション、覚えてる?』

「帝都ホテル?」

『うん。ドレスで来な。鏡の中の“次の顔”、見においで』

「行く」

 迷いはなかった。


 通話を切ると、誠二から短いメッセージ。


『一連、クローズ。データは三重バックアップ。君の名前はどこにも出てない』

《ありがとう。これでいい》

『じゃ、また“平和な依頼”の時に』

《そんなのある?》

『君なら作れる』


 笑ってしまった。

 ——作れる、か。

 たぶん、作れる。

 夜の女として“空気を整える”ことを、私は知っている。昼の女として“紙を整える”ことも知った。次は、私自身を整える番だ。


 寝る前に、最後のDMを送った。

 宛先は彼女。

《鍵、かけたね。正しいと思う》

 既読。返事はやはり来ない。

 スマホを伏せ、明かりを落とす。

 暗闇の中で、静かに息を吐く。

 復讐は、叫んだら短い。静かにやると、長持ちする。

 そして何より、自分が静かに眠れる。


 ——第一部、閉幕。


 翌朝の手帳には、新しい予定が四つ。

 英会話、ピラティス、美容皮膚科、そして帝都ホテル。

 ページの余白に、小さく書く。

 “夜の名残で、昼を磨く”。


 カーテン越しの朝が、少し広く見えた。

 窓を開ける。

 風が、次の幕の匂いを運んできた。

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