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第7話 信用の糸を切る日

 火曜日の朝、窓の外は雨だった。


 細い糸のように降り続く雨を眺めながら、私はトーストを焼き、黒胡椒を利かせたスクランブルエッグを皿に広げた。


 健介は黙ってコーヒーを飲み、スマホを裏返したまま食卓に置いた。湯気の向こうで、彼のまつ毛が小刻みに震える。

眠いのではない。神経が尖っているのだ。


「今日のスケジュールは?」

「朝から会議。そのまま客先」

「どの辺?」

「……丸の内」


 答えながら、彼は私の顔ではなく、背後の時計を見た。


 私はうなずいて「いってらっしゃい」とだけ言う。追及はしない。追及は彼の防御を厚くする。今日は、防御を“薄く”させる日だ。


 玄関の閉まる音が消えると同時に、私は封筒を三つ並べた。


 一つ目は白い無地のもの。中には、アステール銀座の宿泊名義のコピーと、ラウンジバーのレシート。差出人は記さない。宛先は、健介の直属上司・小早川の自宅。


 二つ目は薄いグレーの封筒。印字した紙が一枚だけ入っている——「社内規程に抵触する可能性のある行為」について、人事部の“ご意見箱”宛ての指摘文。内部通報制度は形式的でも、紙で残る。


 三つ目は、速達用の赤いラインが入った封筒。中身は空だ。これはダミー。宛先は健介の会社の総務。受け取り印が残れば、後日「何かが送られていた」という足跡になる。中身が空でも、痕跡は心理を掻き回す。


 私は手袋をはめ、切手を正確な位置に貼る。文字は、万年筆でわずかに癖を変えて書いた。


 ポストへ向かう足取りは、雨のせいで自然にゆっくりになる。傘の縁を打つ雨粒の音が、私の心拍を同じテンポに整えた。

 投函の瞬間、私は深呼吸を一度。


 ——これで、糸は切り始めた。あとは、張り詰めた先が勝手にほつれる。


 帰宅して、キッチンで手を洗い、指の匂いを嗅いでみる。洗剤の柑橘と、紙の乾いた匂い。夜の世界を上がってから、私は匂いに敏感になった。香りは足跡。私自身の足跡も、他人の足跡も、匂いでたどれる。


 昼過ぎ、藤村ラウンジに寄ると、明子が仕込み用のレモンを薄くスライスしていた。


「予定通り?」

「うん、投函した。人事と総務にも揺さぶり」

「いいね。社内って、外より“噂”が速いから」

「だからこそ、紙の証拠を先に落としておく。噂の速さに、真実の重さを乗せるために」


 明子が小さく笑った。


「性格、変わってない。準備八割」

「準備が好きなのよ。勝ち筋が見えるから」


 コーヒーを飲みながら、私はもう一つの布石を置くことにした。


 ——SNS。


 私は古いアカウントを一つ開いた。かつて夜の仕事で、客の動向を見るためだけに使っていたもの。


 そこから、銀座のホテルラウンジの“素敵な朝食”の写真をシェアする。日付は昨日、場所はタグ付けしない。キャプションは「土曜の夜は、偽物の笑顔がよく似合う」。

 誰が読んでも意味不明だが、読ませたい相手は意味を感じる。


 投稿を上げて数分後、旧知の女たちから反応がついた。彼女たちのネットワークは速い。彼女たちの中の誰かが、必ず“彼女”に伝える。


 ——ゆかり。


 彼女が動揺すれば、健介も揺れる。ふたりの揺れは、やがて会社の床へ伝わる。


 夕方、誠二から短い報告が入った。

『対象、本日17:40退社。上司と会話、表情硬い。直帰せず、喫茶店へ。着席後、通話5分』

「誰と?」と返信すると、『推測だが女性。声の高さと語尾』と返ってきた。


 私はスマホを伏せ、窓の外を見た。雨は細くなり、空は青を取り戻しつつある。


 ——最初の糸が、きしんだ。


 夜、健介の帰宅は21時半。

「おかえり」

「ただいま」

 顔色は悪くないが、視線が落ち着かない。靴を脱ぐ動作の途中で、二回ほど止まる。


「ご飯、温めるね」

「……ありがとう。少しでいい」


 テーブルに置いたスープの湯気の向こうで、彼はスマホを手にした。通知は出ていない。けれど、画面を開いて閉じる、を二度繰り返す。


 私はテレビをBGM程度に流し、無関心を装いながら彼の指先の力を観察した。親指に、余計な力が入るとき、人はたいてい嘘の準備をしている。


「今日、会社どうだった?」

「普通」

「へえ」


 私はそれ以上、何も問わない。「普通」を自分の口で言わせるのが目的だ。彼自身に言わせた「普通」は、次の瞬間に裏切られたとき、いちばん苦い。


 食後、健介はソファに座り、ニュースを眺めるふりをしながら、ぼんやりと画面の奥を見ていた。


「週末、どこか行こうか」


 不意に彼が言った。


「どこかって?」

「箱根とか。温泉」


 私は一拍、沈黙を置いた。


「いいね。私、土曜は友だちの用事があるかも。日曜なら」

「そっか」


 彼は目線を落とし、口の中で小さく舌打ちをした。今まで、彼はデートの誘いに舌打ちなんかしなかった。


 ——予定が、誰かと重なったのだろう。いや、誰かの機嫌と。


 22時を回った頃、インターホンが鳴った。

 私はドアスコープを覗く。宅配便。差出人不明の小包。

 受け取ってサインをすると、段ボールは妙に軽い。

 開封すると、中には白い封筒が一つ。表には何も書かれていない。


 ——これは私宛ではない。会社宛に送ったダミーの“返り”だ。誰かが、動いた。


封を切ると、紙が一枚。

 《貴女の投稿、見たよ。“偽物の笑顔”って、誰のこと?》

 下手な挑発。送り主は書いていないが、文体は若く、甘い。


 私は封筒をそっと閉じ、キッチンの引き出しにしまった。使い道は後で考える。

 リビングに戻ると、健介がこちらを見上げた。


「何?」

「チラシ」


 嘘は、薄い紙ほど軽い。


 その夜、健介が寝静まったあと、私は机に向かい、小さなリストを作った。


 【本日の変化】

 ・上司と会話。表情硬い(誠二報告)

・旧SNSへの反応から、情報が“彼女”へ届いた可能性高

・健介、週末の予定を急に提案(不自然)

・差出人不明の手紙(若い文体)


 【明日の仕込み】

 ・小早川宅への封筒到着見込み→誠二、ポスト監視

・人事の意見箱回収日確認(明子→会社勤めの客に聞く)

・健介の会社の総務に“空封筒”の受領確認電話(匿名)

 箇条書きは怒りを作業に変える。私はペンを置き、深く息を吸った。


 ——翌日。


 朝から湿気は高く、空は曇り。

 私は洗濯機を回しながら、明子に連絡した。


『人事の意見箱、回収は何曜日?』

 数分後、『水曜の午後。担当は若い男性。真面目だけど、融通は利くタイプ』と返ってくる。

『ありがとう。噂は?』

『“営業部で誰かがやらかした”くらいは回ってる。具体名はまだ』

 私は小さく笑った。噂のほうが一歩先に走っている。紙は、その噂の“行き先”を決める。


 午前十一時、誠二から連絡。


『小早川宅、投函物回収確認。封筒開封、奥様らしき人物の手。五分後、小早川に通話』

 私は時計を見た。

 ——五分。

 人は、信じたくない情報を受け取ったとき、五分で誰かに縋る。上司ならなおさら、部下の私生活の“真偽”を、仕事の目線で整理しにかかる。


 さらに十分後、誠二。

『対象(健介)、上司室へ呼び出し。滞在時間二十五分。退出時、顔色悪い』

 私は窓を開け、湿った空気を肺に入れた。

 信用の糸は、確かにどこかで切れ始めている。


 午後、私は近所の郵便局に寄り、もう一通だけ封筒を出した。

 宛先は、健介の会社の「コンプライアンス窓口」。内容は、規程にある兼ね合い——「取引先との不適切な接待」「社名の入った名刺を私的交際に利用」という二つの可能性の“照会”。

 証拠はまだ添付しない。初回は質問だけでいい。窓口が動けば、誰かが記録を残す。その記録を、後で“紐付け”する。


 夕方。

 私は通り道のベーカリーで小さなキッシュを買い、帰宅するとすぐオーブンへ入れた。熱の入り具合を待つ時間は、なぜか落ち着く。

 タイマーが鳴るのと同時に、スマホが震えた。誠二からだった。


『人事部、意見箱からの紙束を回収。中に君の文面確認。写しは取れないが、文面は読んだ。担当の表情が変わった』


 私はキッシュを取り出し、テーブルに置いた。

 切り分ける前に、手を止める。

 ——よし。


 健介の帰宅は22時半を過ぎた頃だった。

「おかえり」

「……ただいま」

 声がかすれている。

「大丈夫?」

「いや、まあ」

 彼はスーツのジャケットを脱がずに、椅子に倒れ込んだ。ネクタイの結び目を緩める手が震える。

「ご飯は?」

「いらない……」


 私は頷き、湯を沸かして胃にやさしいハーブティーを淹れた。その湯気が彼の顔をぼかす。


「会社で何かあった?」

「……いや、別に」


 しばらく沈黙が続いた。


 テレビの天気予報が、週末の晴れを告げる。

「週末、温泉の件だけど」

「ごめん、やっぱり無理だ」


 私は目を伏せ、スプーンでマグの縁を静かに叩いた。


「そっか。残念」


 彼は何か言いかけて、やめた。

 ——信用の糸が一本、切れる音。本人は、まだ気づいていない。


 寝室の灯りを落としたあと、私はリビングに戻り、封筒を一つ取り出した。

 宛先は、健介の取引先企業の総務宛。内容は「御社社員と当社営業担当者との不適切な接触があったとの情報。御社の名誉のため、念のため共有まで」。


 差出人は記さない。だが、消印はこの街。

 不倫は私的な罪だ。けれど、接待の席や取引先を巻き込めば、会社の信用に触れる。

 私は封を閉じる前に、一秒だけ迷い、そして押し込んだ。


 ——これは、彼が選んだ泥の範囲に、境界線を引くための線引きだ。


 真夜中に近い時間、ベランダの外では雨が上がっていた。

 街の灯りが、湿ったアスファルトに反射して揺れる。

 私はガラスに映る自分を見た。


 “復讐”という言葉は、いまだに好きになれない。

 けれど、“記録”と“線引き”なら、私はいくらでもできる。

 私がこれから歩く道に、嘘が入ってこないように。

 そして、もう二度と、私の「普通」を踏みにじられないように。


 翌朝、起き抜けのスマホに、未読の通知が二つ。

 一つは誠二。

『対象、本日朝イチで上司室へ。人事同席。30分の面談』

 もう一つは、明子。

『女の子ネットワーク経由。“彼女”、昨日から店に出てない。休み申請』


 私は静かに笑った。

 信用の糸は、切れるとき音を立てない。

 けれど、切れたあとに残る沈黙は、誰にでも分かる。


 私はケトルのスイッチを押し、湯が沸くのを待った。


 今日の段取りは、もう決まっている。

 ——会社が動く。

 ——彼女が怯む。

 ——彼が言い訳をこぼす。

 その全部を、私は紙に変える。

 紙は、裏切らない。


 ポン、とケトルが鳴った。

 私はカップに熱湯を注ぎ、立ち上る湯気に顔を近づけた。

 信用の糸の先——そこには、私の新しい生活が、静かに待っている気がした。

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