ホテルでの土曜の夜から二日後。
月曜の朝、健介はいつもより少し無口だった。寝不足なのか、それとも——。
私は卵焼きを切り分けながら、何気ない声色を装う。
「今週は忙しい?」
「……まあ、ちょっと立て込んでる」
「大丈夫?」
「ああ」
返事のタイミングが、微妙に遅い。フォークを持つ指先がわずかに力を失っているのも見逃さない。
日曜は終日外出だったらしいが、帰宅は21時過ぎ。風呂も早く、布団に潜り込むとすぐに寝息を立てた。
私はその横顔を観察するように見つめた。顎の線、閉じたまつ毛、その奥の脈打ち——どこかで警戒が緩んでいる。ホテルでの封筒の一件が、効いている証拠だ。
食卓に置いたコーヒーが少し冷めた頃、健介のスマホが短く震えた。
画面が伏せられているせいで内容は見えないが、その音に彼の手が一瞬止まったのを、私は見逃さない。
「会社から?」
「……ああ」
声が硬い。私は小さく笑って肩をすくめた。
「もう出ないと遅れるんじゃない?」
「ああ、行ってきます」
ネクタイを整える動作も少し急いている。こういう時、人は必ずミスをする。
玄関のドアが閉まると、私はすぐにリビングに戻り、カーテンの隙間からマンション前の通りを覗く。
健介はいつものルートではなく、裏手の道へ曲がっていった。タクシーを拾う気か、あるいは——。
私はスマホを取り、誠二に連絡を入れた。
『今、裏道方向へ。追える?』
『了解』
短いやりとりのあと、私は一息つき、掃除機をかけ始めた。生活音で感情を均す。復讐は、生活の延長にあるほうが相手には怖い。
昼過ぎ、誠二から報告が届く。
『30分後、銀座。喫茶店で女性と合流。顔確認——椎名ゆかり。会話短く、その後別行動』
私は唇を噛んだ。会っている。だが長くは一緒にいない。これは、何かあった証拠だ。ホテルの件を、彼女が問い詰めた可能性が高い。
『会話録音は?』
『環境音で不明瞭。内容は拾えないが、彼女の声のトーンは硬い』
硬いトーン——それだけで十分だ。疑心暗鬼は関係を内側から腐らせる。私はさらに追い詰める準備をする。
午後、藤村ラウンジに顔を出すと、明子がカウンター越しに低く笑った。
「顔色いいじゃない」
「そう見える?」
「見える。たぶん計画が順調なんでしょ」
「まあね」
私はバッグから封筒を取り出し、明子に渡した。中にはホテル名義のコピーと、廊下映像のプリント。
「これ、保管しておいて。別ルートで使うかもしれない」
「別ルート?」
「会社」
明子は目を細め、頷いた。
「噂を落とすのは簡単。でも本物の証拠と一緒に流せば、戻らない」
「そう。それを、やる」
夕方、私はスーパーで食材を買い込みながら、小さな封筒を一つ購入した。宛名も何も書かない白封筒。
中には一枚のコピー——ホテルの宿泊名義証明書を入れるつもりだ。送り先は、健介の直属の上司宅。差出人不明で届けば、開けずに捨てるわけにはいかないだろう。
だが、それはまだ先。腐敗はゆっくり進めたほうがいい。
夜、健介が帰宅したのは22時過ぎ。
「おかえり。夕飯温める?」
「いや、軽く食べてきた」
「そっか。仕事?」
「うん」
目線がわずかに逸れる。その逸れた先に、ソファのクッションがある。そこには——先日私が隠した店前の写真が入っている。もちろん、見えてはいないが、無意識は正直だ。
健介がシャワーに行った後、私は彼のスーツの内ポケットを軽く探った。レシートが一枚。
——アステール銀座、ラウンジバー利用。日付は土曜。
私はそれを新しい封筒に入れ、別の場所に隠した。これも、後で効いてくる。
シャワーから出た健介は、私の顔を一瞬だけ探るように見た。
「どうかした?」
「ううん、何も」
私は微笑み、テレビの音量を上げた。背後で彼の足音が寝室に消える。
——外堀は、ほぼ埋まった。
あとは、彼が自分で落ちてくるのを待つだけだ。