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第6話 外堀を埋める日

 ホテルでの土曜の夜から二日後。


 月曜の朝、健介はいつもより少し無口だった。寝不足なのか、それとも——。


 私は卵焼きを切り分けながら、何気ない声色を装う。


「今週は忙しい?」

「……まあ、ちょっと立て込んでる」

「大丈夫?」

「ああ」


 返事のタイミングが、微妙に遅い。フォークを持つ指先がわずかに力を失っているのも見逃さない。


 日曜は終日外出だったらしいが、帰宅は21時過ぎ。風呂も早く、布団に潜り込むとすぐに寝息を立てた。


 私はその横顔を観察するように見つめた。顎の線、閉じたまつ毛、その奥の脈打ち——どこかで警戒が緩んでいる。ホテルでの封筒の一件が、効いている証拠だ。


 食卓に置いたコーヒーが少し冷めた頃、健介のスマホが短く震えた。

 画面が伏せられているせいで内容は見えないが、その音に彼の手が一瞬止まったのを、私は見逃さない。


「会社から?」

「……ああ」


 声が硬い。私は小さく笑って肩をすくめた。


「もう出ないと遅れるんじゃない?」

「ああ、行ってきます」

 ネクタイを整える動作も少し急いている。こういう時、人は必ずミスをする。


 玄関のドアが閉まると、私はすぐにリビングに戻り、カーテンの隙間からマンション前の通りを覗く。

 健介はいつものルートではなく、裏手の道へ曲がっていった。タクシーを拾う気か、あるいは——。

 私はスマホを取り、誠二に連絡を入れた。


『今、裏道方向へ。追える?』

『了解』


 短いやりとりのあと、私は一息つき、掃除機をかけ始めた。生活音で感情を均す。復讐は、生活の延長にあるほうが相手には怖い。


 昼過ぎ、誠二から報告が届く。

『30分後、銀座。喫茶店で女性と合流。顔確認——椎名ゆかり。会話短く、その後別行動』


 私は唇を噛んだ。会っている。だが長くは一緒にいない。これは、何かあった証拠だ。ホテルの件を、彼女が問い詰めた可能性が高い。


『会話録音は?』

『環境音で不明瞭。内容は拾えないが、彼女の声のトーンは硬い』


 硬いトーン——それだけで十分だ。疑心暗鬼は関係を内側から腐らせる。私はさらに追い詰める準備をする。


 午後、藤村ラウンジに顔を出すと、明子がカウンター越しに低く笑った。


「顔色いいじゃない」

「そう見える?」

「見える。たぶん計画が順調なんでしょ」

「まあね」

 私はバッグから封筒を取り出し、明子に渡した。中にはホテル名義のコピーと、廊下映像のプリント。


「これ、保管しておいて。別ルートで使うかもしれない」

「別ルート?」

「会社」


 明子は目を細め、頷いた。


「噂を落とすのは簡単。でも本物の証拠と一緒に流せば、戻らない」

「そう。それを、やる」


 夕方、私はスーパーで食材を買い込みながら、小さな封筒を一つ購入した。宛名も何も書かない白封筒。

中には一枚のコピー——ホテルの宿泊名義証明書を入れるつもりだ。送り先は、健介の直属の上司宅。差出人不明で届けば、開けずに捨てるわけにはいかないだろう。

 だが、それはまだ先。腐敗はゆっくり進めたほうがいい。


 夜、健介が帰宅したのは22時過ぎ。

「おかえり。夕飯温める?」

「いや、軽く食べてきた」

「そっか。仕事?」

「うん」


 目線がわずかに逸れる。その逸れた先に、ソファのクッションがある。そこには——先日私が隠した店前の写真が入っている。もちろん、見えてはいないが、無意識は正直だ。


 健介がシャワーに行った後、私は彼のスーツの内ポケットを軽く探った。レシートが一枚。

 ——アステール銀座、ラウンジバー利用。日付は土曜。

 私はそれを新しい封筒に入れ、別の場所に隠した。これも、後で効いてくる。


 シャワーから出た健介は、私の顔を一瞬だけ探るように見た。


「どうかした?」

「ううん、何も」


 私は微笑み、テレビの音量を上げた。背後で彼の足音が寝室に消える。


 ——外堀は、ほぼ埋まった。

 あとは、彼が自分で落ちてくるのを待つだけだ。

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