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第5話 仕込みの夜

 ゆかりに「敵への挨拶」を済ませた翌朝、キッチンの蛇口から落ちる水の音がやけに大きく聞こえた。


 ステンレスの底で跳ねる雫は、私の胸に住みついたざわめきを忠実に復唱しているようだった。昨夜、彼女の耳元で囁いた言葉


——「“それなり”は長く続かない」——は、


彼女だけでなく私自身にも向けた宣言だったのかもしれない。もう、曖昧な平穏に逃げ込むのはやめる。


 健介は、いつもより二分遅く起きてきた。寝癖を手で慌ただしく抑え、無言でコップの水を飲み干す。


「珍しいね、寝坊」

「……昨日、帰り遅かったから」

「接待?」

「うん」


 返事の速度が半拍遅い。夜の女だった頃、客の嘘のテンポを測る癖が身体に染みている。嘘は下手でも、習慣は正直だ。


 私は何も追及せず、テーブルに置いたスクランブルエッグに胡椒を振った。鍋肌で軽く焦がしたバターの匂いが立ちのぼる。こういう「普通」を演出する手つきは、私のほうがよほどプロだ。


「今夜は?」

「……たぶん、遅くなる」

「分かった。軽めにしておくね」


 目線は合わない。けれど、指輪は外していない。そのギャップが、かえって空々しい。


 玄関が閉まり、廊下の足音が遠ざかる。私はゆっくり息を吐き、ダイニングチェアに腰を下ろした。

ここからは「仕込み」の時間だ。


 まず、家計簿アプリを開く。連携しているクレジット明細に、見慣れない店名が増えている。バー、タクシー、フレンチのコース。


ラベルを「仕事接待」と自分で付けていたのは数ヶ月前まで。最近は分類が空欄のまま走っている。


 私はカテゴリ分けをすべて自分でやり直し、金の流れを一本の線にした。銀座、丸の内、赤坂——移動は弧を描いて、夜の遅い時間帯で膨らんでいる。

 タクシーの領収書アプリの時刻と、カード決済のタイムスタンプを重ねる。誤差は数分。

 ——追い詰めるためには、感情ではなく数字が要る。


 次に、メールボックスを整理する。健介の共有カレンダーに「打合せ」「会食」などの予定が並ぶが、場所の記載が抜け落ちている日が増えた。


 私は弁護士の連絡先を一件、新規登録した。藤村ラウンジの明子が紹介してくれた「離婚案件に強い」女性弁護士だ。まだ電話はしない。ただ、いつでも押せるボタンとして手元に置く。


 そして、誠二にメッセージ。

『次の彼女のロングはいつ?』

 すぐに既読になり、短い返事が来る。

『木曜と土曜、23時まで。土曜は店外(ディナー→ホテル)』

 画面の文字が、心拍に合わせて微かに脈打って見えた。


『土曜、現場のホテル名わかる?』

『候補二つ。どちらも会員制フロアあり。前日までに確定する』

『確定したら、隣室を取る。押さえをお願い』

『了解。室番連携は当日で』


 淡々としたやりとりは、私の呼吸を整えてくれる。復讐は勢いでやるものじゃない。段取り八分、実行二分。


 午後、私はクローゼットの最奥から、引退のときに封印した箱を取り出した。


 照明の下で、黒のジャケットワンピースとシルクのスカーフ、控えめに光るピアスを並べる。夜の店で男たちを落ち着かせた「昼の品の良さ」——それを今度は、武器として使う。


 鏡をのぞく。肌の色、髪のツヤ、口紅の赤み。派手さはいらない。視線が流れた方向に自然と止まるような、静かな存在感だけを調整する。


 ——敵の前で、私の呼吸は乱れない。


 夕方、藤村ラウンジへ。明子はカウンターで仕込みをしていた。


「顔が決まってる。やるんだね」

「土曜」

「サポートいる?」

「ホテルの会員フロアに顔、作りたい。あなたの常連で受付に強い子、いたよね」

「いる。紹介状を書こう。表向きは“妹の婚約前祝いでの宿泊リクエスト”にする」

「完璧」

 明子は眉を少し上げて笑った。

「それと、“もしもの時”の逃げ道、用意しておく。あなたが動けなくなったら、私が弁護士を呼ぶ」

「ありがと」

「礼は成功してから」


 ラウンジを出ると、夕暮れが街の輪郭を柔らかく削っていた。私はビル風の冷たさで頭をクリアにし、ついでに化粧室に寄ってスカーフの結び目を結び直した。鏡の向こうの女は、数年前とは別人に見える。


どちらが本当の私なのかは、もう重要じゃない。こうして「必要な私」を選び取れることが、今の私の強さだ。


 夜、帰宅してすぐにキッチンに立つ。ガーリックをオリーブオイルで温め、セロリと玉ねぎ、鶏肉を炒める。白ワインで香りを飛ばし、トマトを潰してハーブを一つまみ。

 鍋の中で煮詰まっていくソースを眺めながら、私は別のレシピの段取りを組み上げた。


 ——証拠(動画・写真・店の出入り)。

 ——財務(カード・タクシー・店予約ログ)。

——証人(ホテル受付の顔・ラウンジ側の耳)。

——法的(弁護士・別居先・持ち出し禁止の財産目録)。

 箇条書きにした瞬間、復讐は感情から作業へ落ち着く。怒りは燃料であって、ハンドルじゃない。


 21時過ぎ、玄関が開いた。

「ただいま」

「おかえり。少し食べる?」

「うん、軽くでいい」


 ダイニングの灯りの下、健介はネクタイをゆるめ、椅子に落ちるように腰掛けた。


「最近、忙しいね」

「そうだな……期末だし、案件が重なって」

 言いながら、彼は癖でスマホを裏返す。

 私は皿を置き、テーブルの向こうから微笑む。


「そういえば、土曜の夜は?」


 一拍。


「……たぶん、また遅くなる」

「分かった。私、友だちと出かけるね」

「誰と?」

「明子」

 名前を出した瞬間、彼の眉がほんのわずか動いた。明子が私の“夜の同僚だった”ことを、健介は知っている。


「遅くなる?」

「どうかな。終電までには帰るよ」

「そっか」

 表情に出ない不安は、手の動きに出る。フォークの柄が、皿の縁に二度、軽く当たった。


 食後、健介がシャワーに立った隙に、私はクローゼットから薄いA4の封筒を取り出し、ソファの私側のクッション下に滑り込ませた。


中身は、誠二が撮った店前の写真のプリント。

今は使わない。けれど、必要になったときに、すぐに火種にできる。

 浴室から湯気が漏れる。私は姿勢を正し、ニュース番組に視線を向けた。心拍は落ち着いている。


 ——土曜日。

 昼間はいつも通り掃除と買い出しを済ませ、午後は軽いストレッチで身体をほぐす。

 夕方、鏡の前で髪をまとめ、黒のジャケットワンピースに袖を通した。控えめなパールを耳に留め、時計を細いベルトのものに替える。


 スマホが震えた。誠二からだ。


『確定。ホテルはアステール銀座。20:30ディナー→22:30チェックイン。部屋確保済:フロア19、彼らは1924、こちらは1922。コネクティングなし。廊下カメラ死角情報共有済』

『了解。受付の顔、今日入ってる?』

『入ってる。藤村さんルートで話は通ってる。「妹の婚約祝い」設定』


 私はコートを肩にかけ、家を出た。足取りは軽い。緊張は、正しい方向に張っている。


 アステール銀座のロビーは、香りの演出が上手い。白い花のようなノートに、最後だけアンバーが尾を引く。記憶に残る、でも主張しすぎない香り。


 受付の女性は微笑みを崩さず、予約を確認してくれた。


「ご希望どおり、静かなお部屋をご用意しております。お飲み物は?」

「スパークリングウォーターを」


 チェックインを済ませ、エレベーターで19階へ。廊下には厚手のカーペット。足音は吸い込まれる。

 1922号室の鍵を差し込み、無音でドアを閉める。

 カーテンを少し開けると、夜の街がガラスの向こうで静かにうねっていた。


 私はバッグから小さなメモ帳を取り出し、タイムラインを書き込む。

 20:30 ディナー開始(店はホテル1F)

 22:30 1924チェックイン

 22:45〜23:15 部屋前通過(映像)

 23:15〜 証拠確定


 21:05。スマホに誠二から映像が入った。ホテル1Fレストランのエントランスで、黒のドレスの女と、ネイビーのスーツの男——ゆかりと健介。


 ゆかりの笑顔は、見慣れた「特別感」の角度。健介は、私の知らない柔らかい表情をしている。知らない、という感情に少し傷つき、すぐにその気持ちを紙に移した。

 ——観察。痛みは紙に流す。


 22:38。

『1924チェックイン』と誠二。

 私はヒールを脱ぎ、廊下に出た。足音を殺し、角を曲がる。


 部屋番号の前に立つ。ドアの下の隙間からこぼれる光。中の気配は、まだ遠い。

 私は持ってきた小さな封筒を、ドアの下へすべらせた。中身は白紙だ。けれど、ラウンジの活版で印字された短い言葉が封筒の表にある。

 ——《それなりは、長く続かない》


 ノックはしない。私は静かに踵を返し、自室に戻った。


 23:02。

 スマホが再び震えた。廊下カメラの死角で撮った短いクリップ。1924のドアが、内側から少し開いて、誰かが廊下に顔を出す。瞳に警戒が走る——ゆかりだ。


 彼女は足元の封筒を見つけ、拾い上げ、素早く中を確かめる。白紙と、表の言葉。

 目が一瞬だけ細くなり、次の瞬間には平静を装ってドアの中へ消えた。


 ——効いている。


 23:18。

 私は机の上に広げたノートに、もう一つの段取りを走り書きした。

 明子へ、フロント経由で伝言。内容は「1924号室の宿泊者名義で、明朝のモーニングコールを6:30に設定」。

名義確認で慌てさせる狙い。名前が誰になっているのか——彼か、彼女か。

 同時に、誠二には「翌朝、ホテル出の動線」を押さえてもらう。顔、腕、指輪、荷物。細部は嘘をつけない。


 そのとき、部屋の電話が鳴った。胸の内側のどこかが、ゆっくりと冷える。


「はい、1922です」

『——お客様、1924号室のお連れ様からメッセージが届いております』

 受付の女性の声は訓練された中立の温度。

「内容を」

『“間違いでした。失礼しました”とのことです』


 私は一拍だけ黙り、微笑むのが自分でも分かった。

「伝言ありがとうございます。返信は不要です」

 受話器を置いて、窓の外に目をやる。

 “間違い”——どちらの意味でも良い。部屋番号を誤ったのか、関係そのものを誤ったのか。私はどちらにも頷ける顔をしている。


 0:10。

 ノック。

 私はドアスコープをのぞいた。そこに立っていたのは、ホテルスタッフの若い男性だった。

「遅い時間に失礼します。ご依頼の件、承りました」

「ありがとう」

 彼は小さな封筒を差し出した。今度は中に本物の紙が入っている。フロントでの名義確認のコピー。


 ——1924名義:水野健介。


 私はその一行にペンで四角を引き、深く息を吸った。

 これで、ホテルの宿泊が彼の名義であること、つまり支払い責任が彼にあることが客観的に残る。

 カード履歴、宿泊名義、同行者映像。線は、面になった。


 0:40。

 スマホに短いテキストが届く。差出人は、健介。


『今日は会社の人と泊まる。明日早い。先に寝てて』

 私は「了解、気をつけて」の定型文を打ち、最後の一文字を入力する手前で止めた。


 ——“会社の人”。


 嘘の輪郭がはっきり見える。けれど、今は追い詰めない。獲物は、走らせた分だけ疲れる。


 1:10。

 私はメイクを落とし、ベッドに横になった。天井のうすい模様が、波のように揺れている。

 耳鳴りはしない。心臓も静かだ。

 怒りは、紙束とファイルに変わった。

 眠りに落ちる直前、私は明日の朝に送るメッセージの文面を頭の中で整えた。


 ——「今日の夜ごはん、何がいい?」


 いつも通りの問いで、彼の返答の速度と温度を見る。

 “普通”の仮面を、もう一度だけかけてもらう。その仮面がはがれる音を、確実に拾うために。


 カーテンの隙間から、わずかな街の光が差し込む。

 私は目を閉じながら思った。

 復讐は、相手を壊すためだけにあるんじゃない。

 自分が二度と壊れないために、準備すること——それが、私の「仕込み」だ。


 明け方に目が覚め、枕元のスマホを見る。通知は静かだ。

 6:27、ホテルの廊下に出て1924号室の前を通り過ぎるふりをして、耳を澄ます。

 6:30、内線のコール音が小さく漏れ、やがて止む。


 ——誰が取った?


 答えは、少し先で回収する。

 私はエレベーターに乗り、1Fのロビーでコーヒーをテイクアウトした。深煎りの苦味が、喉の奥で心地よく広がる。


 出口の自動ドアが開くと、朝の銀座は昨日より透明に見えた。

 決着はもうすぐ、ではない。

 決着は、私が“いま”積んでいる段取りの一つひとつの先に、自然と置かれるものだ。


 私は紙コップの蓋を軽く押さえ、ビルの谷間の空を見上げた。

 土曜の空は、やけに高い。


 ——次は、彼の会社。


 彼の上司の耳に、小さな種を落とす準備を始めよう。

 私の「普通」を踏みにじった代償をしっかり払ってもらうために...

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