ゆかりに「敵への挨拶」を済ませた翌朝、キッチンの蛇口から落ちる水の音がやけに大きく聞こえた。
ステンレスの底で跳ねる雫は、私の胸に住みついたざわめきを忠実に復唱しているようだった。昨夜、彼女の耳元で囁いた言葉
——「“それなり”は長く続かない」——は、
彼女だけでなく私自身にも向けた宣言だったのかもしれない。もう、曖昧な平穏に逃げ込むのはやめる。
健介は、いつもより二分遅く起きてきた。寝癖を手で慌ただしく抑え、無言でコップの水を飲み干す。
「珍しいね、寝坊」
「……昨日、帰り遅かったから」
「接待?」
「うん」
返事の速度が半拍遅い。夜の女だった頃、客の嘘のテンポを測る癖が身体に染みている。嘘は下手でも、習慣は正直だ。
私は何も追及せず、テーブルに置いたスクランブルエッグに胡椒を振った。鍋肌で軽く焦がしたバターの匂いが立ちのぼる。こういう「普通」を演出する手つきは、私のほうがよほどプロだ。
「今夜は?」
「……たぶん、遅くなる」
「分かった。軽めにしておくね」
目線は合わない。けれど、指輪は外していない。そのギャップが、かえって空々しい。
玄関が閉まり、廊下の足音が遠ざかる。私はゆっくり息を吐き、ダイニングチェアに腰を下ろした。
ここからは「仕込み」の時間だ。
まず、家計簿アプリを開く。連携しているクレジット明細に、見慣れない店名が増えている。バー、タクシー、フレンチのコース。
ラベルを「仕事接待」と自分で付けていたのは数ヶ月前まで。最近は分類が空欄のまま走っている。
私はカテゴリ分けをすべて自分でやり直し、金の流れを一本の線にした。銀座、丸の内、赤坂——移動は弧を描いて、夜の遅い時間帯で膨らんでいる。
タクシーの領収書アプリの時刻と、カード決済のタイムスタンプを重ねる。誤差は数分。
——追い詰めるためには、感情ではなく数字が要る。
次に、メールボックスを整理する。健介の共有カレンダーに「打合せ」「会食」などの予定が並ぶが、場所の記載が抜け落ちている日が増えた。
私は弁護士の連絡先を一件、新規登録した。藤村ラウンジの明子が紹介してくれた「離婚案件に強い」女性弁護士だ。まだ電話はしない。ただ、いつでも押せるボタンとして手元に置く。
そして、誠二にメッセージ。
『次の彼女のロングはいつ?』
すぐに既読になり、短い返事が来る。
『木曜と土曜、23時まで。土曜は店外(ディナー→ホテル)』
画面の文字が、心拍に合わせて微かに脈打って見えた。
『土曜、現場のホテル名わかる?』
『候補二つ。どちらも会員制フロアあり。前日までに確定する』
『確定したら、隣室を取る。押さえをお願い』
『了解。室番連携は当日で』
淡々としたやりとりは、私の呼吸を整えてくれる。復讐は勢いでやるものじゃない。段取り八分、実行二分。
午後、私はクローゼットの最奥から、引退のときに封印した箱を取り出した。
照明の下で、黒のジャケットワンピースとシルクのスカーフ、控えめに光るピアスを並べる。夜の店で男たちを落ち着かせた「昼の品の良さ」——それを今度は、武器として使う。
鏡をのぞく。肌の色、髪のツヤ、口紅の赤み。派手さはいらない。視線が流れた方向に自然と止まるような、静かな存在感だけを調整する。
——敵の前で、私の呼吸は乱れない。
夕方、藤村ラウンジへ。明子はカウンターで仕込みをしていた。
「顔が決まってる。やるんだね」
「土曜」
「サポートいる?」
「ホテルの会員フロアに顔、作りたい。あなたの常連で受付に強い子、いたよね」
「いる。紹介状を書こう。表向きは“妹の婚約前祝いでの宿泊リクエスト”にする」
「完璧」
明子は眉を少し上げて笑った。
「それと、“もしもの時”の逃げ道、用意しておく。あなたが動けなくなったら、私が弁護士を呼ぶ」
「ありがと」
「礼は成功してから」
ラウンジを出ると、夕暮れが街の輪郭を柔らかく削っていた。私はビル風の冷たさで頭をクリアにし、ついでに化粧室に寄ってスカーフの結び目を結び直した。鏡の向こうの女は、数年前とは別人に見える。
どちらが本当の私なのかは、もう重要じゃない。こうして「必要な私」を選び取れることが、今の私の強さだ。
夜、帰宅してすぐにキッチンに立つ。ガーリックをオリーブオイルで温め、セロリと玉ねぎ、鶏肉を炒める。白ワインで香りを飛ばし、トマトを潰してハーブを一つまみ。
鍋の中で煮詰まっていくソースを眺めながら、私は別のレシピの段取りを組み上げた。
——証拠(動画・写真・店の出入り)。
——財務(カード・タクシー・店予約ログ)。
——証人(ホテル受付の顔・ラウンジ側の耳)。
——法的(弁護士・別居先・持ち出し禁止の財産目録)。
箇条書きにした瞬間、復讐は感情から作業へ落ち着く。怒りは燃料であって、ハンドルじゃない。
21時過ぎ、玄関が開いた。
「ただいま」
「おかえり。少し食べる?」
「うん、軽くでいい」
ダイニングの灯りの下、健介はネクタイをゆるめ、椅子に落ちるように腰掛けた。
「最近、忙しいね」
「そうだな……期末だし、案件が重なって」
言いながら、彼は癖でスマホを裏返す。
私は皿を置き、テーブルの向こうから微笑む。
「そういえば、土曜の夜は?」
一拍。
「……たぶん、また遅くなる」
「分かった。私、友だちと出かけるね」
「誰と?」
「明子」
名前を出した瞬間、彼の眉がほんのわずか動いた。明子が私の“夜の同僚だった”ことを、健介は知っている。
「遅くなる?」
「どうかな。終電までには帰るよ」
「そっか」
表情に出ない不安は、手の動きに出る。フォークの柄が、皿の縁に二度、軽く当たった。
食後、健介がシャワーに立った隙に、私はクローゼットから薄いA4の封筒を取り出し、ソファの私側のクッション下に滑り込ませた。
中身は、誠二が撮った店前の写真のプリント。
今は使わない。けれど、必要になったときに、すぐに火種にできる。
浴室から湯気が漏れる。私は姿勢を正し、ニュース番組に視線を向けた。心拍は落ち着いている。
——土曜日。
昼間はいつも通り掃除と買い出しを済ませ、午後は軽いストレッチで身体をほぐす。
夕方、鏡の前で髪をまとめ、黒のジャケットワンピースに袖を通した。控えめなパールを耳に留め、時計を細いベルトのものに替える。
スマホが震えた。誠二からだ。
『確定。ホテルはアステール銀座。20:30ディナー→22:30チェックイン。部屋確保済:フロア19、彼らは1924、こちらは1922。コネクティングなし。廊下カメラ死角情報共有済』
『了解。受付の顔、今日入ってる?』
『入ってる。藤村さんルートで話は通ってる。「妹の婚約祝い」設定』
私はコートを肩にかけ、家を出た。足取りは軽い。緊張は、正しい方向に張っている。
アステール銀座のロビーは、香りの演出が上手い。白い花のようなノートに、最後だけアンバーが尾を引く。記憶に残る、でも主張しすぎない香り。
受付の女性は微笑みを崩さず、予約を確認してくれた。
「ご希望どおり、静かなお部屋をご用意しております。お飲み物は?」
「スパークリングウォーターを」
チェックインを済ませ、エレベーターで19階へ。廊下には厚手のカーペット。足音は吸い込まれる。
1922号室の鍵を差し込み、無音でドアを閉める。
カーテンを少し開けると、夜の街がガラスの向こうで静かにうねっていた。
私はバッグから小さなメモ帳を取り出し、タイムラインを書き込む。
20:30 ディナー開始(店はホテル1F)
22:30 1924チェックイン
22:45〜23:15 部屋前通過(映像)
23:15〜 証拠確定
21:05。スマホに誠二から映像が入った。ホテル1Fレストランのエントランスで、黒のドレスの女と、ネイビーのスーツの男——ゆかりと健介。
ゆかりの笑顔は、見慣れた「特別感」の角度。健介は、私の知らない柔らかい表情をしている。知らない、という感情に少し傷つき、すぐにその気持ちを紙に移した。
——観察。痛みは紙に流す。
22:38。
『1924チェックイン』と誠二。
私はヒールを脱ぎ、廊下に出た。足音を殺し、角を曲がる。
部屋番号の前に立つ。ドアの下の隙間からこぼれる光。中の気配は、まだ遠い。
私は持ってきた小さな封筒を、ドアの下へすべらせた。中身は白紙だ。けれど、ラウンジの活版で印字された短い言葉が封筒の表にある。
——《それなりは、長く続かない》
ノックはしない。私は静かに踵を返し、自室に戻った。
23:02。
スマホが再び震えた。廊下カメラの死角で撮った短いクリップ。1924のドアが、内側から少し開いて、誰かが廊下に顔を出す。瞳に警戒が走る——ゆかりだ。
彼女は足元の封筒を見つけ、拾い上げ、素早く中を確かめる。白紙と、表の言葉。
目が一瞬だけ細くなり、次の瞬間には平静を装ってドアの中へ消えた。
——効いている。
23:18。
私は机の上に広げたノートに、もう一つの段取りを走り書きした。
明子へ、フロント経由で伝言。内容は「1924号室の宿泊者名義で、明朝のモーニングコールを6:30に設定」。
名義確認で慌てさせる狙い。名前が誰になっているのか——彼か、彼女か。
同時に、誠二には「翌朝、ホテル出の動線」を押さえてもらう。顔、腕、指輪、荷物。細部は嘘をつけない。
そのとき、部屋の電話が鳴った。胸の内側のどこかが、ゆっくりと冷える。
「はい、1922です」
『——お客様、1924号室のお連れ様からメッセージが届いております』
受付の女性の声は訓練された中立の温度。
「内容を」
『“間違いでした。失礼しました”とのことです』
私は一拍だけ黙り、微笑むのが自分でも分かった。
「伝言ありがとうございます。返信は不要です」
受話器を置いて、窓の外に目をやる。
“間違い”——どちらの意味でも良い。部屋番号を誤ったのか、関係そのものを誤ったのか。私はどちらにも頷ける顔をしている。
0:10。
ノック。
私はドアスコープをのぞいた。そこに立っていたのは、ホテルスタッフの若い男性だった。
「遅い時間に失礼します。ご依頼の件、承りました」
「ありがとう」
彼は小さな封筒を差し出した。今度は中に本物の紙が入っている。フロントでの名義確認のコピー。
——1924名義:水野健介。
私はその一行にペンで四角を引き、深く息を吸った。
これで、ホテルの宿泊が彼の名義であること、つまり支払い責任が彼にあることが客観的に残る。
カード履歴、宿泊名義、同行者映像。線は、面になった。
0:40。
スマホに短いテキストが届く。差出人は、健介。
『今日は会社の人と泊まる。明日早い。先に寝てて』
私は「了解、気をつけて」の定型文を打ち、最後の一文字を入力する手前で止めた。
——“会社の人”。
嘘の輪郭がはっきり見える。けれど、今は追い詰めない。獲物は、走らせた分だけ疲れる。
1:10。
私はメイクを落とし、ベッドに横になった。天井のうすい模様が、波のように揺れている。
耳鳴りはしない。心臓も静かだ。
怒りは、紙束とファイルに変わった。
眠りに落ちる直前、私は明日の朝に送るメッセージの文面を頭の中で整えた。
——「今日の夜ごはん、何がいい?」
いつも通りの問いで、彼の返答の速度と温度を見る。
“普通”の仮面を、もう一度だけかけてもらう。その仮面がはがれる音を、確実に拾うために。
カーテンの隙間から、わずかな街の光が差し込む。
私は目を閉じながら思った。
復讐は、相手を壊すためだけにあるんじゃない。
自分が二度と壊れないために、準備すること——それが、私の「仕込み」だ。
明け方に目が覚め、枕元のスマホを見る。通知は静かだ。
6:27、ホテルの廊下に出て1924号室の前を通り過ぎるふりをして、耳を澄ます。
6:30、内線のコール音が小さく漏れ、やがて止む。
——誰が取った?
答えは、少し先で回収する。
私はエレベーターに乗り、1Fのロビーでコーヒーをテイクアウトした。深煎りの苦味が、喉の奥で心地よく広がる。
出口の自動ドアが開くと、朝の銀座は昨日より透明に見えた。
決着はもうすぐ、ではない。
決着は、私が“いま”積んでいる段取りの一つひとつの先に、自然と置かれるものだ。
私は紙コップの蓋を軽く押さえ、ビルの谷間の空を見上げた。
土曜の空は、やけに高い。
——次は、彼の会社。
彼の上司の耳に、小さな種を落とす準備を始めよう。
私の「普通」を踏みにじった代償をしっかり払ってもらうために...