銀座の夜は、ネオンよりもタクシーのライトの方がまぶしい。
私は約束もないのに、その街に足を運んでいた。誠二が送ってくれた出勤スケジュールを頭に入れ、彼女が働く『ジュエル』のビルの向かいにあるカフェの窓際席に座る。
アイスコーヒーの氷をストローで回しながら、心拍数を整えた。
午後八時過ぎ、黒いタイトドレスの女がビルの入り口を通った。ヒールの音が石畳に軽く響く。
——椎名ゆかり。
髪は艶のある黒、腰までのロング。化粧は濃すぎず、目尻だけが艶っぽく跳ね上がっている。歩き方も変わっていない。指先まで計算された、「客を迎えに行く女」の所作だ。
私はストローを口にくわえたまま、その姿を目で追った。
彼女は自動ドアの前で軽く背伸びし、ガラスに映る自分の髪を整えている。
あの仕草を、私は知っている。現場に入る前、最後に戦闘モードに入る合図だ。
その夜の客は健介ではない。誠二の情報では、今日は別の固定客だという。
——だからこそ、今夜がいい。夫の名前を出さずに、彼女の足場を揺らすことができる。
閉店時間を見計らい、私は再びビルの前に立った。夜風が少し湿っている。
午前零時過ぎ、ゆかりが姿を現す。客を送り出した後らしく、笑顔を貼ったままの顔が、ふっと緩む瞬間だった。
「……ゆかり」
呼びかけると、彼女の目が一瞬だけ泳ぎ、すぐに笑顔の仮面を戻す。
「……あれ? 美咲さん?」
「久しぶりね」
「ほんと……何年ぶりだろ」
言葉は懐かしさを装っているが、警戒心が隠しきれていない。
「まだ、頑張ってるのね」
「まあ、ね。美咲さんは?」
「今は引退して、結婚してる」
「へえ、おめでとう」
口元は笑っているのに、目だけが冷たい。夜の女同士、腹の中を隠すのはお互い様だ。
「ゆかり、太客ができたって聞いたわ」
「……誰からそんな話を」
「まあ、夜の世界って狭いから」
彼女の肩がわずかに強張る。その反応を、私は見逃さない。
「幸せ?」
「……まあ、それなりに」
「それならいい。でも——」
私は半歩近づき、彼女の耳元で囁いた。
「“それなり”は、長く続かない」
ゆかりの呼吸が一瞬乱れたのが分かった。
私は何も言わず、軽く手を振ってその場を離れる。振り返らなくても、彼女がこちらを見送っているのが分かった。
帰宅すると、健介はすでに眠っていた。枕元にはスマホが裏返しに置かれている。
その裏側に、何通のメッセージが眠っているのか——私は覗かない。