翌朝、健介を送り出した私は、冷蔵庫の前で深呼吸した。吐く息が、胃の奥のざらつきを少しも洗い流してくれない。
もう、自分だけで答えを出す段階じゃない。夜の世界で知り合った「最後の切り札」に頼るときが来た。
スマホの連絡先から、「高橋誠二」の名前を探す。
——数年前、店でトラブルを起こした客の素性を調べてもらったことがある。元刑事で探偵歴も長い。仕事は早く、確実で、そして何より口が固い。
呼び出し音が三回鳴ったところで、低い声が応えた。
「もしもし、高橋です」
「お久しぶりです、誠二さん。水野美咲です」
「……ああ、あの時の。何かあったか」
「依頼したいことがあります。できれば直接、お会いして」
その日の午後、待ち合わせた喫茶店に現れた誠二は、以前と変わらず無駄のないスーツ姿だった。背筋はまっすぐ、視線は鋭いのに、不思議と人を落ち着かせる。
「三年ぶりか」
「そうですね」
「——で、何を調べればいい」
私はバッグからスマホを取り出し、昨夜届いたメッセージを見せた。
「送り主は、椎名ゆかり。現役の風俗嬢で……私の元後輩です」
「ふむ」
「彼女に太客ができたって噂を聞きました。その客が、うちの夫の可能性が高い」
「“可能性”か」
「はい。まだ証拠はありません。だからこそ、確実にしたい」
誠二は短く頷き、ポケットから黒い手帳を取り出した。
「対象者は?」
「夫——水野健介、三十四歳。IT関連企業の営業職」
「行動パターンは?」
「平日は朝七時半に家を出て、帰宅は二十一時以降。最近はほぼ毎日二十三時を回ります」
メモを取りながら、誠二が質問を重ねる。
私は淡々と答えたが、胸の内は波立っていた。こうして改めて口にすると、彼の生活が私からどれだけ離れているかを突きつけられる。
「まずは彼女の出勤日と勤務先を押さえる。同時に旦那さんの行動を追う」
「費用は構いません。早く、確実に」
「分かった。……ただ覚えておいてくれ。証拠は武器にもなるが、爆弾にもなる」
「覚悟はできています」
自分の声が少し低くなっているのが分かった。
——二日後。
昼過ぎ、スマホが震えた。誠二からだ。
「例の嬢、椎名ゆかりは銀座の高級店『ジュエル』に在籍。週四日出勤、そのうち二回は二十三時までのロングコースだ」
心臓が、ゆっくりと締め付けられる。
「……そして昨夜、そのロングコースの客が、旦那さんだ」
耳の奥で血の音が響いた。
「顔、間違いない?」
「間違いない。入店時と退店時、両方の映像を押さえた」
「映像……」
「写真もある。店の前で笑い合ってるやつもな」
手元のマグカップを握る指に力が入る。想像していたはずの光景なのに、現実として突きつけられると、喉が焼けるように熱くなる。
「送ってください。全部」
「いいのか」
「ええ。見なきゃ始まらない」
届いたファイルを開くと、銀座の街灯の下で、ゆかりと並ぶ健介の姿があった。
——スーツ姿は家を出た時と同じ。でも、ネクタイは少し緩んでいて、表情が妙に柔らかい。
ゆかりは黒のタイトドレス。笑顔は、かつて私が鏡の前で練習した「特別感を与える」やつだ。
私の奥歯がきしむ音が、自分にも聞こえる。
夜、健介はいつものように「接待で遅くなる」とメッセージを送ってきた。
私は短く「気をつけて」と返す。
日付が変わる頃、玄関の鍵が回る音がした。
「遅かったね」
「悪い悪い、長引いちゃって」
その顔には、白々しい疲労の仮面が貼り付いている。
私はテーブルに一枚の写真を置いた。街灯の下で笑い合う二人の写真だ。
健介の顔から一瞬で血の気が引いた。
「……これは」
「接待相手?」
「……違う、これは、誤解だ」
黒を白と呼ぶその声が、耳障りで仕方がなかった。
私は笑った。
「誤解なら、もっと続けて。——全部録音しておくから」
健介の喉が、ごくりと鳴った。
視線は私から外れ、床の一点を見つめている。
その夜、私は心の中でスイッチを押した。
もう、ただの妻じゃいられない。
次に会う時、ゆかりには「後輩」ではなく「敵」として挨拶してやる。
復讐のカウントダウンが、静かに始まった。