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第3話 黒を白と呼ぶ男

翌朝、健介を送り出した私は、冷蔵庫の前で深呼吸した。吐く息が、胃の奥のざらつきを少しも洗い流してくれない。


 もう、自分だけで答えを出す段階じゃない。夜の世界で知り合った「最後の切り札」に頼るときが来た。


 スマホの連絡先から、「高橋誠二」の名前を探す。


 ——数年前、店でトラブルを起こした客の素性を調べてもらったことがある。元刑事で探偵歴も長い。仕事は早く、確実で、そして何より口が固い。


 呼び出し音が三回鳴ったところで、低い声が応えた。

「もしもし、高橋です」

「お久しぶりです、誠二さん。水野美咲です」

「……ああ、あの時の。何かあったか」

「依頼したいことがあります。できれば直接、お会いして」


 その日の午後、待ち合わせた喫茶店に現れた誠二は、以前と変わらず無駄のないスーツ姿だった。背筋はまっすぐ、視線は鋭いのに、不思議と人を落ち着かせる。


「三年ぶりか」

「そうですね」

「——で、何を調べればいい」


 私はバッグからスマホを取り出し、昨夜届いたメッセージを見せた。


「送り主は、椎名ゆかり。現役の風俗嬢で……私の元後輩です」

「ふむ」

「彼女に太客ができたって噂を聞きました。その客が、うちの夫の可能性が高い」

「“可能性”か」

「はい。まだ証拠はありません。だからこそ、確実にしたい」


 誠二は短く頷き、ポケットから黒い手帳を取り出した。

「対象者は?」

「夫——水野健介、三十四歳。IT関連企業の営業職」

「行動パターンは?」

「平日は朝七時半に家を出て、帰宅は二十一時以降。最近はほぼ毎日二十三時を回ります」

 メモを取りながら、誠二が質問を重ねる。


私は淡々と答えたが、胸の内は波立っていた。こうして改めて口にすると、彼の生活が私からどれだけ離れているかを突きつけられる。


「まずは彼女の出勤日と勤務先を押さえる。同時に旦那さんの行動を追う」

「費用は構いません。早く、確実に」

「分かった。……ただ覚えておいてくれ。証拠は武器にもなるが、爆弾にもなる」

「覚悟はできています」

 自分の声が少し低くなっているのが分かった。


 ——二日後。

 昼過ぎ、スマホが震えた。誠二からだ。

「例の嬢、椎名ゆかりは銀座の高級店『ジュエル』に在籍。週四日出勤、そのうち二回は二十三時までのロングコースだ」


 心臓が、ゆっくりと締め付けられる。

「……そして昨夜、そのロングコースの客が、旦那さんだ」


 耳の奥で血の音が響いた。

「顔、間違いない?」

「間違いない。入店時と退店時、両方の映像を押さえた」

「映像……」

「写真もある。店の前で笑い合ってるやつもな」


 手元のマグカップを握る指に力が入る。想像していたはずの光景なのに、現実として突きつけられると、喉が焼けるように熱くなる。

「送ってください。全部」

「いいのか」

「ええ。見なきゃ始まらない」


 届いたファイルを開くと、銀座の街灯の下で、ゆかりと並ぶ健介の姿があった。

 ——スーツ姿は家を出た時と同じ。でも、ネクタイは少し緩んでいて、表情が妙に柔らかい。

 ゆかりは黒のタイトドレス。笑顔は、かつて私が鏡の前で練習した「特別感を与える」やつだ。

 私の奥歯がきしむ音が、自分にも聞こえる。


 夜、健介はいつものように「接待で遅くなる」とメッセージを送ってきた。

 私は短く「気をつけて」と返す。

 日付が変わる頃、玄関の鍵が回る音がした。


「遅かったね」

「悪い悪い、長引いちゃって」


 その顔には、白々しい疲労の仮面が貼り付いている。

 私はテーブルに一枚の写真を置いた。街灯の下で笑い合う二人の写真だ。

 健介の顔から一瞬で血の気が引いた。


「……これは」

「接待相手?」

「……違う、これは、誤解だ」

 黒を白と呼ぶその声が、耳障りで仕方がなかった。


 私は笑った。

「誤解なら、もっと続けて。——全部録音しておくから」

 健介の喉が、ごくりと鳴った。

視線は私から外れ、床の一点を見つめている。


 その夜、私は心の中でスイッチを押した。

 もう、ただの妻じゃいられない。

 次に会う時、ゆかりには「後輩」ではなく「敵」として挨拶してやる。

 復讐のカウントダウンが、静かに始まった。

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