朝食のスープをかき混ぜながら、昨夜のメッセージが頭から離れなかった。
『本日のお客様へ:ご来店ありがとうございました。次回のご予約もお待ちしております。——椎名ゆかり』
送信元の名前を見た瞬間、指先が氷のように冷たくなった。
誤送信かもしれない。偶然、番号を間違えたのかもしれない。そう言い聞かせても、夜の世界で働く女が顧客データを間違えるなんて致命的な失敗だ。まして、ゆかりは私の元後輩。真面目でそつがなく、ミスをする姿なんて一度も見たことがない。
「おはよう」
背後から声がして、私は反射的にスマホを裏返した。
健介が寝室から出てくる。髪はまだ少し湿っていて、シャツの襟はきちんと整っている。私がアイロンをかけたばかりの真っ白な生地に、朝の光が反射する。
「おはよ。今日、何時に帰れそう?」
「うーん……また遅くなるかも」
「最近ずっと遅いね」
「期末で忙しいんだよ、営業は」
笑顔を作る健介の視線は、一瞬だけ私の目を外れ、奥の壁の時計を見た。その瞬間、胸の奥で何かが小さくカチリと鳴った。
昔から、人の視線の揺れには敏感だ。夜の仕事をしていた頃、男が嘘をつく瞬間は必ず目に現れる。泳ぐ、逸らす、伏せる……健介は「一瞬だけ外す」タイプ。あれは何かを隠している時のサインだった。
「朝くらいはしっかり食べてね」
「ありがと、ほんと助かる」
スープを口に運ぶ仕草はいつも通り。でも、私の胸の中では「いつも通り」という言葉が少しずつ剥がれ落ちていく。
彼の手首の時計がやけに新しく見える。私がプレゼントしたものじゃない。
玄関で靴を履きながら、「行ってきます」の声がいつもより軽い気がした。
ドアが閉まる音を聞き届けてから、私はすぐにスマホを開いた。昨夜のメッセージはまだ残っている。番号をコピーし、検索エンジンに貼り付ける。ヒットはなし。
次にSNS、風俗情報サイト、口コミ掲示板。画面をスクロールしていると、在籍ページらしき写真が出てきた。黒髪ロング、清楚なドレス、柔らかな笑顔。——間違いない、ゆかりだ。私が引退した後も、彼女は変わらず客を癒やす女の顔をしていた。
指先が震えたのは、怒りのせいか、懐かしさのせいか、自分でも分からなかった。
彼女とは一度だけ、同じ客を取り合ったことがある。あの時は笑って流したけれど、今は笑えない。もし、その「客」が私の夫なら——。
午後、藤村ラウンジの扉を押す。
「みさき、珍しいじゃない」
「昼間にふらっと寄ってみた」
明子がアイスコーヒーを出しながら、私の顔を覗き込む。
「……で、その顔はどうしたの?」
私はためらいながらも、昨夜のメッセージを見せた。
「これ、ゆかりでしょ」
「やっぱりそう思う?」
「思うも何も、間違いないわ。まだ現役だし、この半年で太客がついたって噂よ」
「太客……」
「IT系のサラリーマンらしいけど、詳しいことは聞いてない。でも、ゆかりは客に深入りするタイプじゃないのに、珍しい話だなとは思ってた」
私の耳の奥で、昨夜の健介の声が蘇る。
『接待、長引いてさ』
グラスの音、女性の笑い声、そして、あの粉っぽく甘い香水の匂い。
夜の女だった頃、私は香りの種類で相手の過ごした時間まで当てられた。肌に残る残り香は、どのくらい触れ合っていたかを物語る。
「……ありがとう、明子」
「どうするの?」
「まだ決めつけない」
「でも動く気でしょ」
「……動くときは、一撃で」
明子は苦笑し、「あんたは昔からそうだった」と呟いた。
夜、健介は「今日も遅くなる」とだけメッセージを送ってきた。私は短く「気をつけて」と返す。
時計の針が零時を過ぎた頃、玄関のドアが開く。
「遅かったね」
「悪い、長引いて……」
淡い笑顔の奥に、白々しい影が見える。
私はその影を、まだ名前では呼ばない。ただ、心の奥で静かに笑った。