◆【若月香】◆
深い藍色の雨上がりの夜空の下、僕は自転車で幹線道路沿いにある病院へ向かっている。
園田さんを襲った病気の名前はくも膜下出血。その名前を聞くだけで、吐いてしまいそうなくらい不安と恐怖で押し潰されそうになった。
家から病院まで、車一台分しか通れない細い中道を通った方が早い。それはわかっていたけど、その道は夜になると、より闇と静けさに包まれる。そんな道を進めば、今よりもネガティブなことしか考えられなくなってしまうに違いない。
病院まで遠回りになるけど、様々な店が建ち並び車通りも多く、夜でも比較的明るい大きな県道を進む。視界だけでも明るく保ちたかった。
後悔で涙が溢れる。視界が滲むのを腕で何度も拭いながらペダルを漕いだ。
園田さんのお母さん、園田礼子さんから電話があったのは十九時前のことだった。
そこで初めて、園田さんがくも膜下出血で倒れて、手術を受けていたことを知った。
園田さんは倒れる寸前、僕にメッセージを送ろうとしていたらしい。園田さんのスマホを見た礼子さんが、僕には教えておいた方が良いと連絡をくれた。
僕にメッセージを送ろうとしていたのは、昼の十二時過ぎだったと聞いた。
園田さんが頼ろうとしたのは僕だったんだ。それなのに僕は、別れ話をされたら怖い、と待ち合わせ時間が大きく過ぎても連絡をとらなかった。
強い後悔で胸の奥が刺されたみたいに痛む。
大型家電量販店の横を通る。そのすぐ前に幹線道路が東西に延びている。
家電量販店前の信号を渡った先に、園田さんが手術をした病院がある。
信号は青なのに、僕は横断歩道の前で一度自転車を止める。
電話で礼子さんから手術は成功し、一命は取り留めたと聞いた。
だけど、電話越しにこうも言われた。
『髪の毛は全部剃っちゃってるけどね』
その言葉に、園田さんが大きな手術を受けたという現実を突きつけられた。
栗色のふわりとした肩まで伸びた髪が無くなった。脳の手術を受けたんだ。そのくらいは当然の筈だ。でも、髪を全部剃られた園田さんの姿を想像するだけで、胸がざわついた。
まだ会う覚悟が出来ていない。
倒れたことをもっと早く知っていれば、手術が終わる間に覚悟は作れたかもしれない。でも、園田さんがくも膜下出血で倒れたと知ってから、まだ三十分程しか経っていない。
その短い時間で覚悟が作れるほど、僕は強くない。だから、信号が青でも渡れなかった。
二度、三度、信号が赤と青、青から赤になるのを見送った。
面会時間は午後八時までだと聞いた。信号の前で止まっていればいるほど時間は迫ってくる。心のどこかで、面会時間に間に合わなかった、という言い訳を作れることに期待している自分がいることに気付いた。
僕は最低だ。
後悔以上の自己嫌悪が襲いかかってきた。
ふと、園田さんはこんな最低な僕に助けを求めようとしたということを思い出す。
「・・・・・・行くか」
覚悟が決まったわけじゃない。でも、ここで行かないと園田さんと付き合ってから今日までの一年間、全てが嘘になってしまうような気がした。
目の前の現実から目を背けることよりも、この充実した一年を自分自身で嘘にしてしまう方が怖くて信号を渡る。
渡ってすぐにテニススクールの建物があり、その横が園田さんが手術をした病院だ。
駐輪場に自転車を置いて、礼子さんから言われていた通り、園田さんのスマホに電話をかける。
コールが、一回、二回と鳴る。
また胸がざわつく。やっぱり会うのが怖い。ダメだ、次のコールで出なければ電話を切ろう。
そう思った瞬間、電話越しに柔らかい声が聞こえてきた。
『もしもし、若月君かしら?』
「はい、病院の下まで来ました」
『すぐに迎えに行くわね』
礼子さんはそう言って、電話は切れた。
これで園田さんと会わないといけなくなった。いや、『いけなくなった』なんて、本当は会うのが嫌みたいだ。そうじゃない、「これで会える」そう思わないと。
じとりした湿気を多く含んだ風が僕の肌を撫でる。それは、今の僕の心みたいに不快なもので、吐き気を覚えるくらい息苦しさを覚えた。
病院の中を見ることがしんどくて、顔を外に向ける。駐車場が目に入った。一つも止めるところが無いくらい車が駐車してあった。もう外来の時間は過ぎている。この車のほとんどがお見舞いに来た人のだろうか。都会とも田舎ともいえない僕が暮らす市の周辺だけでも、これだけの人が入院するくらいの病気になっているという現実を目の当たりにした気がした。
「若月君かしら?」
背中から声をかけられる。僕はびくりと体を強張らせた。
「あら、急にごめんなさいね」
ゆっくりと振り返る。
一目見ただけで、この女性が礼子さんだとわかった。園田さんが年を取ればきっと瓜二つになる。そう思う程、園田さんをそのまま大人にしたような見た目だったからだ。
「こんな時間にありがとう。親御さんは大丈夫かしら?」
礼子さんは、片手を自分の頬に当てて首を傾げた。
「はい、一応外に出てくるとは言ってきましたから。一言言っておけば大丈夫な家なので」
「あらそう。親御さんもしっかりした息子さんで信頼してるのね」
礼子さんが朗らかな口調で優しく微笑んだ。
「いえ、放任主義な親なだけです」
返事をしながらその笑顔から目を逸らす。その口調も微笑みも、たぶん僕を心配させないように作ってくれていることがわかった。その証拠に礼子さんの目が赤く染まっていた。
「行きましょうか」
小さく頷いて、礼子さんのすぐ後ろを歩きだした。