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第11話:若月「生きていてくれて、ありがとう」

 病院の中は、会計前の椅子に数人が腰掛けているだけで、とても静かだった。

 ロビーを少し抜けたところにエレベーターがあり、それに乗り込んだ。

 礼子さんが五階のボタンを押す。簡素な機械音がエレベーター内に微かに響き、僕達を運ぶ。


「ねえ。若月君はひなと付き合ってるのかしら?」


 突然そんなことを尋ねてきた。

 正直、かなり狼狽えた。礼子さんの言う通り、僕と園田さんは付き合っている。でも、そんなことを突然尋ねられると思ってなかった。付き合ってると正直に答えたら高校生なのに不純だと怒られるんじゃないだろうか、と少し不安に思った。


「えっと」


 答えに悩む。そんな僕の様子を見た礼子さんが「大丈夫よ。おばさん、結構そういうことにも理解はある方だから」と笑ったのを見て、僕は小さな声で「はい」と頷いた。


「そう。ふふっ、良かったわ。若月君みたいな子で、うちの娘は見る目あるのね」


 礼子さんは僕が頷いたのを見て三日月みたいに目を細める。その笑ったときの目の形が園田さんと同じ形をしていたのを見て、胸が締め付けられた。


「そんな、こと……」


 声が喉につっかえて言葉が尻切れトンボになって、顔を伏せる。

 僕は良い奴じゃない。ここに来るまでにかなり葛藤をした。何度も帰ろうと思った。病気になって、意識の無い園田さんを目の前にして良かったって、そういう純粋な気持ちだけを抱くことができるか不安でしかなかった。

 だから、園田さんと瓜二つな笑みを浮かべる礼子さんの顔を見ることができなかった。


「大丈夫よ。不安なのはわかるわ。でも、あなたは逃げずに来てくれた。それだけで十分よ」


 僕の気持ちを見透かしているかのような言葉に、僕は目を丸くさせて驚いた表情を浮かべる。エレベーターが五階に到着する。

 礼子さんが先に降りて、すぐ後ろをついていく。

 降りてすぐ左手にあるナースステーションに礼子さんが声をかける。中にいた若い看護師の女性が「どうぞ」と、仕事を止めて、軽く微笑みながら応えた。


「こっちよ」


 礼子さんが歩き出す。僕は看護師に軽く会釈をして後に続く。

 エレベーターすぐ横の角を曲がって、十数歩。礼子さんがドアの前で立ち止まった。壁に埋まった金属のプレートにHCU、準集中治療室と書いてあった。


「あの、普通の部屋じゃないんですか?」


 僕はそれを見つめながら、恐る恐る礼子さんに尋ねる。


「ええ、手術後すぐでまだ目を覚ましていないからね。看護師さんたちのすぐ目の届くところにしばらく入ることになってるの」


 それを聞いて足が震えだした。

 くも膜下出血で手術をした。手術は成功して一命は取り留めたと聞いていた。だから、もう普通の病室にいるんだと思っていた。

 準集中治療室というあまりに重く感じる言葉に、覚悟が決まらないままここに来た僕は怖気つきそうになる。

 命は繋ぎとめたけど、状況は詳しく聞いていない。手術の為に頭を剃った園田さんを目にしたとき、何よりも先にショックを受けてしまうんじゃないか。

 そんな色々な想いが錯綜して、震えが止まらない。


「手術は、成功したんですよね?」


 僕は確認するように尋ねる。

 礼子さんが「ええ」と微笑んだ。

 その笑顔に嘘は感じない。礼子さんは、娘の命が助かったことに心から安堵しているんだ。

 大丈夫、怖くない。成功は成功なんだから。そう自分に言い聞かせる。

 僕は少しだけ目に力を入れてドアを睨みつけた。


「良いかしら?」

「はい」


 短く力を込めて頷いた。

 礼子さんが、ゆっくり音をたてないようにHCUのドアを開いた。

 ドアの隙間から、独特の空気が外に漏れ出た気がした。僕達がいつも生きている日常では感じられない、生と死が混在したような空気感。

 ドアをくぐる瞬間、まるでそこに水の壁があるみたいに体が重く感じた。

 HCUの中に足を踏み入れる。入ってすぐにマスクが置いてあった。礼子さんがそこから二枚取って、一枚を僕に渡してきたので装着する。

 次に礼子さんは、入り口すぐの手洗い場で入念に手を洗った。その後に僕も洗い残しが無いように手の隅々まで石鹸でこすり、しっかりと水で洗い流した。

 僕の手洗いが終わるのを待っていた礼子さんが目配せして小さく頷いた。そして、音をたてないようにゆっくりと部屋の中を歩いた。

 HCUの中には四人程患者がいて、全員静かに目を瞑っていた。見える範囲でみんな僕の祖父母くらいの年齢に見える。全員、髪が剃られていて頭に大きなガーゼがつけられている。

 その年配の患者さん達の前を歩いて、部屋の一番奥へと進む。


「ひな。若月君が来たわよ」


 ベッドの枕元に立った礼子さんが眠っている園田さんに顔を近づけて、耳元で囁くように優しく声をかけた。

 僕もすぐ横に立ってベッドの上に視線を落とす。

 他の患者さんのように髪が剃られていて大きなガーゼがつけられた白い肌の女の子。目を瞑っていても端正な顔立ちだとわかる。僕の彼女、園田さんが寝ていた。

 その姿を見た瞬間、目から涙が溢れた。

 足の力が抜けてその場に膝をついた。園田さんの腕からはいくつも管が伸びていた。ある管は点滴に繋がっていて、またある管はベッド脇に置かれている機械に伸びていた。

 その管をかきわけるようにして、僕は園田さんの小さな拳を両手で握り締めた。柔らかくて、ほのかに体温を感じる。生きてると実感した。

 大きな声では泣けない。だから声を押し殺す。でも、小さな嗚咽は我慢できなくて、声にもならない呻き声が漏れる。体全体が震える。

 涙が止まらない。目の前が滲んで見えない。

 そこまで涙を流す理由は一つ。たった一つの思いが僕を支配したからだ。

 良かった。生きていて良かった。生きていてくれて良かった。頑張ったんだね。園田さんは必死に病気と戦って、勝ってくれたんだ。園田さん頑張ったね。良かった。本当に良かった!

 ここに来る前、不安に感じていたことは杞憂だった。

 会うのが怖い。覚悟ができていない。そんなことは、こうやって手術を戦い抜いて、命を繋ぎとめた園田さんの姿を目にしたら全部吹き飛んだ。


「何か声をかけてあげて」


 礼子さんが、涙を堪えたように声を震わせながらそう言った。

 小さく「はい」と頷いて、立ち上がる。

 なんでも良いのかな、名前を呼ぶだけでも良いのかな。

 そんなことを考えながら、さっき礼子さんがしていたみたいに園田さんの耳元に自分の顔を近づける。いつも風によって運ばれてくる園田さんの甘い桃の香りが鼻をくすぐった。


「生きていてくれて、ありがとう」


 色々考えたけど、僕の口からふいに出た言葉はそれだった。

 僕が声をかけた瞬間、かすかに園田さんの首が動いたような気がした。まだ手術後で意識がない筈だ。さっき礼子さんが声をかけた時もそんな素振りはなかったのに。

 僕は驚いて礼子さんに顔を向ける。礼子さんも少し驚いた表情を浮かべていて、僕と目が合った瞬間、嬉しそうに目を細めて目尻から涙を溢れさせた。


「聞こえてるのね」


 そっか、園田さんが少し動いたのは気のせいじゃなかったんだ。声が届いたんだ。

 僕はそれが嬉しくて、何度も耳元で園田さんの名前を呼んだ。

 首を動かしたのは最初の一回だけだったけど、それでも十分だった。園田さんはちゃんと生きている。それがただ嬉しくて、僕は子供みたいに涙を止められなかった。

 いつまでも園田さんの姿を見ていたい。ずっと傍に張り付いて、経過をちゃんとこの目に焼き付けていたい。でも、それはやっぱりできなくて、面会終了の時間になる。

 僕と礼子さんは、園田さんに「またね」と交代で声をかけて、そこに常在しているらしい看護師に会釈をしてHCUを後にする。

 ドアへ向かう途中、僕は何度も振り返って園田さんに視線を送る。

 目を覚ましたときに髪の毛が無いのは嫌かもな。

 そのまま僕達は病院を後にする。

 別れ際、礼子さんに「また来てあげて」と言われた。


「必ずまた来ます。何度も来ます」


 僕はそう答えて、自転車に跨ってペダルを漕ぎ始める。

 病院へ来る時には避けた細い中道を帰りは通ることができた。月明かりがしっかりと道を照らしていて、思っていたよりも明るい。その中を僕は、園田さんが生きていてくれたということに安堵しながらペダルを漕いで、帰路についた。

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