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第20話:若月「園田さんがリハビリをしなくなった」

 ◆【若月香】◆


 園田さんが取り乱した姿は相当ショックだった。

 病院がいじめてくるなんて、ありえないことを本気で口にする園田さんの姿に、僕の胸に巣食っていた黒い点が更に広がったのを感じた。

 冷静になる為に時間を開けようと、次の日は初めてお見舞いに行かなかった。代わりに、くも膜下出血について調べ直し、家族がそれを患ってしまった人のブログを読んだ。

 やっぱり園田さんみたいに思い込みや感情の調整ができなくなる人が多いみたいだった。それを確認して、声を荒げてしまった自分に強い嫌悪感を抱く。頭を勉強机に打ちつけた。

 園田さんはくも膜下出血になったせいで感情の調整がまだ上手くできない。それは仕方のないことだ。それに比べて僕は、健康体のくせに感情を抑えられなかった。

 こんなの幼児と変わらないじゃないか。園田さんにちゃんと謝ろう。

 そう決めて、また病院に向かう。

 僕がどれだけ反省しても、夏の暑さと蝉の鳴き声のボリュームは変わらない。世界は本当に人間の為にあるんじゃないんだな、と再確認した。

 病院に到着する。午前の外来の時間は終わっていて、いつもならガランとしているロビー。そこに、椅子に座り、黒いTシャツを着た見覚えのあるポニーテールの後姿が見えた。

 早く来すぎたか。ポケットからスマホを取り出した。午後二時半と表示されていて、むしろいつもより遅いくらいの到着だった。

 声をかけようか迷う。そもそも僕と千堂さんは仲が良いわけじゃないし、声をかける義理もない。共通の話題といえば園田さんのことだけど、園田さんの様子は病室にいけばわかる。

 このまま気付かなかったことにして横を通り過ぎよう。

 どうか気付かれませんようにと願いながら歩くが、「若月」と声をかけられた。

 立ち止まって顔を向ける。千堂さんがデニムパンツを履いた足を組んだまま、こちらに真っ直ぐ視線を向けていた。

 千堂さんが手をこまねいてこっちに来いと催促してくる。声をかけてきたんだからそっちから来いよ、とは思ったけど言わない。僕はあっさりと従った。

 千堂さんが訝しげな表情を浮かべ、問いかけてきた。


「あんた、昨日なんかあったの?」


 心臓がギュッとなった。

 昨日、僕がお見舞いに来なかったことを知られているんだ。


「外せない用事があったんだ」


 嘘をついた。

 嘘がバレる可能性も考えたけど、千堂さんは僕には興味が無いのが助かった。「あっそ」と呟いただけで、それ以上の追求はなく、それとは別の質問を投げかけてきた。


「ナコさ、一昨日なんかあった?」


 また胸が掴まれたように締め付けられる。

 僕が怒鳴ってしまったことまで千堂さんに筒抜けなのかと不安になった。だけど、それは違うことが千堂さんの暗い表情を見て悟る。

 もし僕が声を荒げたことがわかっているなら、こんな暗い表情ではなくて、猛獣のような視線を向けてきているはずだからだ。


「なんで?」


 僕のことを言っていないとすれば、どうして千堂さんは一昨日のことを聞いてきたのだろう。

 千堂さんは僕の表情から何かあったのかを読み取ろうとしているのか、じっとこちらに鋭い視線を向けながら教えてくれた。


「昨日からリハビリをしなくなった」


 胸がざわつく。言葉がでない。

 ご飯のことを聞かれれば、何かしら表情に出ていたかもしれない。でも、リハビリをしなくなったということに関しては全く理由がわからない。

 それを千堂さんも察してくれたのだろう。


「あんたもわからないか」


 そう呟いた後、園田さんの現状を教えてくれた。


「リハビリの時間になると、拷問だって泣き喚くようになった」


 リハビリが拷問? どうして急にそんなことを言い出した。何故ご飯だけじゃなくて、リハビリまでそんな風に考えるようになったのかわからない。

 いや、違う。わからないなんて、そんなことを言い出した理由を探すな。後遺症のせいなんだ。昨日調べただろ。思い込みや妄言を吐くようになることもあるって。だから理由なんてない。園田さんは思い込んでいるだけだ。

 それはわかっているのに、僕の好きな園田さんとは別人になってしまったみたいだと思ってしまった。

 尚も言葉が出てこない僕をよそに、千堂さんは言葉を続ける。


「あたしもリハビリするように言ったんだけどダメでさ。あんたからも言ってくんないかな」

「わかった」


 僕が頷いたのを見て、千堂さんが「そんじゃ」と言葉を残して病院から出て行く。歩きながら髪ゴムを外す。どうやら、それを言う為に残っていたらしい。

 本当に千堂さんは園田さんのことを大切な友人だと思ってるんだな。それに比べて僕は、一昨日声を荒げてしまった。そんな自分が更に惨めになって嫌になる。

 自分の感情を抑えて、優しく冷静に園田さんと話をできるだろうか。いや、今日は一昨日とは違う。昨日お見舞いに来るのを止めて頭を冷やした。だから大丈夫だ。

 でも明日は、明後日は、その次の日は、来週は?

 そこでようやく気付いた。

 出来ていると思い込んでいた覚悟なんて、全く覚悟のうちに入っていなかった。

 園田さんは病気になったんだ。それでも一命を取り留めて、どんどん回復している。それで一番辛い状況を乗り越えたと考えていた。手術から目を覚ました際に目にした後遺症も、それらは全部ネットや本で調べてわかっていたことだから耐えることはできた。だけど、それは後遺症の上澄みを掬っただけだったのかもしれない。調べただけではわからなかった、後遺症本来が巻き起こす更に重い現実が底に沈んでいることに気付いた。

 一昨日、声を荒げてしまった僕が、このまま園田さんと付き合っていけるのだろうか。そんな不安が頭を過ぎる。

 病室に行くのが怖くなる。足が竦んで動かなくなった。

 僕はなんて弱くて愚かな奴なんだ。

 怖気つきそうになる自分をクソ野郎だと心の中で反吐を吐いた。

 だけど、ここで病室に行かなければ僕はもっと最低な人間のクズになる。

 重い足を無理矢理動かして非常階段を上る。これまではゲンを担ぐために登っていた階段も、少しでも病室に着くのを遅らせている為のような気がして嫌になる。

 園田さんの病室の前に到着してドアをノックすると、か細い声で返事があった。

 ゆっくりドアを開く。一昨日までは無かった林檎の芳香剤の香りがふわりと病室から廊下に抜けて、鼻をくすぐった。


「わかつきくんだ。よかった」


 園田さんは布団の上で上半身を起こし、壁に体を預けていた。栗色のウィッグから覗かせた表情が少し安堵したように見えた。うっすらと化粧をしているのがわかる。

 頭の中にさっき聞いた千堂さんの言葉が過ぎった。

 いきなりリハビリの話をするのは良くないかなと空気を読む。何も知らないといった様子で、「昨日は来れなくてごめん。用事があって」と、さらりと嘘をついた。こんなに自然と嘘をつけてしまう自分が少し怖く感じた。


「ううん。わかつきくんにも、ようじはあるし、きにしてないよ」


 園田さんは微笑んだが、麻痺が残る左頬は動かない。一昨日までは何とも思ってなかった目に見える後遺症が、今の僕には深く胸に突き刺さり、目を逸らしてしまった。

 病室がいつも以上に綺麗に整頓されている。片付いている病室には不釣合いなくらい、園田さんが座っている敷布団のシーツが乱れていた。

 それを見て察してしまった。

 園田さんがリハビリに行かないと言って暴れたんだ。物を投げつけたりもしたのかもしれない。それを看護師か礼子さんか千堂さんかはわからないけど綺麗に片付けた。だけど、園田さんが座っている布団は綺麗にできなかった。近づくことすら拒否をしたのかもしれない。だから、シーツは不自然に乱れたままなんだろう。

 病室を見回しただけでそれを想像できてしまい、胸が張り裂けそうなくらい痛む。園田さんだけじゃなくて、乱れたシーツも見られなくなる。

 息苦しい。できるだけ早く外に出たい。逃げたい。そんな思いに支配される。


「わかつきくん」


 ポツリと、か細い声で僕の名前を園田さんが呼んだ。

 僕は目をそちらに向けられず、顔を伏せたまま「なに?」と聞き返す。

 園田さんはすぐには何も言わず、空調の音と外から聞こえてくる蝉の鳴き声だけが響く。

 少しして洟をすする音がした。そのすぐ後に、小さな呻き声が聞こえた。


「園田さん?」


 そこでやっと、僕は園田さんに顔を向けた。

 園田さんが右手で掛け布団を握って目に当てている。肩が小刻みに揺れていて、泣いているのがわかった。


「わたし、ころされるの?」


 胸をナイフで突き刺されたみたいに激痛が走った。顔が熱くのなるのを感じる。

 園田さんはまた突拍子も無い思い込みをしている。それはわかった。だけど僕は、「なんで?」と問いかけるだけで精一杯だった。

 胸に巣食った黒が、また広がっていくのを感じたからだ。


「このびょういん、おかしいよ。びょういんは、びょうきをなおすところなのに、わたし、なおらないもん」

「そんなことないよ」


 気休めだ。


「りはびりだって、いくらしても、ひだりて、うごかないもん」

「そんなことない。少しずつ動くようになるよ」


 ダメだ。こんな言葉しか思いつかない。

 園田さんと二人きりでいられない。


「きっと、りはびりじゃなくて、ごうもんなんだよ!」


 園田さんがヒステリックに声を荒げた。

 痛い。息苦しい。薄ら寒さを感じる。


「ごめん、この後また用事あるから。もう、帰らなきゃ」


 僕はまたそんな嘘をついて逃げるように病室から出た。

 ドアが閉まる寸前、「ごめんなさい」と言った園田さんのか細い声が聞こえた。

 返事はできなかった。口を開いたら「謝るなら最初からそんなこと言うな」と、また怒鳴っていたかもしれない。怒鳴るくらいなら聞こえないフリをした方が良い。そう考えた僕なりの最善策だった。

 閉まったドアに背中を預けて、天を仰ぐ。

 僕はなんて短気なんだ。

 園田さんが口にした、「病院が自分を殺そうとしている。リハビリは拷問だ」という言葉を聞いて頭に血が昇った。それらは後遺症のせいだとわかっているのに、「馬鹿みたいなことを言ってみんなを困らせるな」と怒鳴ってしまいそうになった。

 やっぱり僕はお見舞いに来たらダメなんだろうか。

 園田さんの意味不明な言葉を聞いて、平常心でいられる気がしない。

 どんどん園田さんのことを好きではなくなってしまいそうな気がする。

 太陽が照りつける猛暑の中を、ゆっくり自転車のペダルを漕いで帰る。風が吹くと滲んだ汗がひやりと冷たく感じた。

 家に帰るまでの風景は、僕の気持ちとは裏腹に、様々な色で彩られたいつもと変わらない町並みだった。

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