——絵具の匂いに混じって、君の声が響く
放課後の美術室は、窓の向こうの校庭よりも静かで、でもまるで別の海みたいに揺れている。揺れているのは光と匂いだ。水張りした紙が乾くときのわずかな軋み、油絵具のまろやかな香り、洗い桶で眠る筆の気配。
私はいつもの席に座り、画板の角を小さく整えてから、HBの鉛筆で一筋の線を引いた。最初の線は深呼吸みたいなものだ、と先生が言っていたけれど、私にはいつも、少しだけ息が浅い。
「佐伯さんの線、今日も息が長いね」
背後からふわりと声が降ってきて、私は手を止めた。
桐生真帆。美術部のエース。油絵のF50号に平気な顔で立ち向かう、まぶしい人。
「長い?」
「うん。途中で怖がらない線。紙の端っこまで会いに行こうとしてる」
そう言って彼女は、私の前の空いた椅子に腰を落とす。制服の袖口に小さく残った群青色が、今日も彼女の一日を証明していた。
「怖がってるよ、ちゃんと」
「じゃあ、怖がり方が上手いんだね」
笑った口元に、金属みたいな小さな光が宿る。彼女の笑いは、絵筆の先で紙をやさしく撫でるときの音に似ていた。耳の奥が温かくなる。
静物台にはガラス瓶とレモン、白い布。私は瓶の縁をなぞるように、細く円を重ねた。線が震えると、瓶はたちまち水たまりになる。深呼吸、深呼吸。
「ここ、ちょっと貸して」
真帆の手が伸びて、私の右手にそっと重なる。重さは羽みたいに軽いのに、そこだけ体温が濃い。
「瓶の縁は“硬い丸”ね。硬さは手首じゃなくて、肩の角度で作る。ほら——」
彼女の指が私の指を包み、鉛筆が紙の上を滑っていく。肩越しに重なる呼吸。制服の布の擦れる音が小さく混ざる。私は思わず、時計の秒針を置き忘れてきたみたいに、時間の感覚を失った。
「ね、見て。線が同じ調子で走ってる」
「……うん」
「佐伯さんの線、やっぱり優しい。触れられても怒らない線」
紙の上に落ちた褒め言葉が、波紋になって広がる。心臓はきっと、机の下でスケッチブックよりもうるさく開いたり閉じたりしている。
「桐生さんの線は、強いよね」
「強い、というより、勢い任せかも。佐伯さんみたいに人の温度を残す線、私には難しい」
彼女はそう言って、棚から練り消しを小さくちぎる。柔らかい白が指にまとわりついて、淡い形になっていく。
「ね、ここ。ハイライトは消すのも描くうち。ぎゅっとじゃなく、ふわっと。レモンは甘くないけど、酸っぱさが光ると可愛い」
「酸っぱさが、光る……」
言葉の形が美術室の空気によく似合う。私は言いながら、自分が何に頷いているのか、ほんのすこし分からなくなる。レモンか、彼女か。
窓の外でサッカー部の掛け声が遠くに波打つ。部長が出欠表を持って一巡していき、三年の先輩たちが受験話を始めた。音は増えているのに、私の周りだけは静かだ。静けさは彼女の近さの形をしている。
「ねえ、佐伯さん」
「なに」
「今日、髪、変えた?」
「ん……少し短くした、かも」
「似合う。首筋が、線みたいに綺麗」
言葉が肌に触れる。私は鉛筆の芯を少し立てすぎて、瓶の輪郭に傷みたいな影を作ってしまう。
「ごめん、集中の邪魔しちゃった?」
「違う、私が、勝手に跳ねただけ」
跳ねたのは心拍。言えないから、代わりに消しゴムで傷の端をやさしく撫でる。薄くなる。見えなくなる。けれどたぶん、私だけが覚えている。
「文化祭、共同制作の担当、決まったって」
真帆は机に身を預け、私のスケッチブックの端の余白をじっと見つめる。そこは私がいつも、描き切れなかった気持ちを落とす白い場所だ。
「私と——佐伯さんで、どうかなって部長が」
胸の奥で、何かが小さく跳ねて、すぐに落ち着いて、また跳ねた。
「……私でいいの?」
「よくない理由が分からないよ」
「上手じゃないから」
「上手いかどうかは、絵が決める。私たちは手を貸すだけ」
彼女の言い方は、絵の具を水でほどくときのようにやわらかい。ほどけた色は、紙の上で予想しない滲みを作る。
「でも、嬉しい」
「うん。私も」
彼女は笑って、机の下で足を小さく揺らした。足先のリズムが、妙に可愛い。私はそのリズムまで描き写してしまいたい衝動に負けそうになる。
日が落ちて、ガラスの瓶がゆっくりと夜の色を飲み始めた。蛍光灯は白いけれど、光に色はある。私はそう思っている。真帆が側にいるときの光は、少しだけ暖かい橙だ。
「そろそろ、片づけようか」
部長の声で皆が動き出す。筆洗いの水を替える音、イーゼルを畳む音、戸締まりの確認。私の手は自然に水道に伸びたけれど、蛇口の前で真帆と手が重なり、互いに止まる。
「あ」
「どうぞ」
「いや、どうぞ」
同時に譲って、二人で笑った。笑うと、緊張がほどけて、残された熱だけが指に滲む。
帰り支度を終えて廊下に出ると、窓ガラスの向こうを夕焼けが横切っていく。やわらかい風が、使い古した貼り紙の角をめくった。
「駅まで一緒に行く?」
真帆が言った。彼女の声は夕焼けと同じ速度で、私の横に並ぶ。
「……うん」
私はリュックの肩ひもを握る。指先にさっきの温度が残っている。歩調を合わせると、靴の音が二つ、同じ間隔で床を叩く。
「佐伯さんって、どうして絵、描いてるの」
階段を降りる途中で、真帆が急に言う。
「どうして、か」
私は手すりの冷たさに指を預けながら考える。
「教室で上手にしゃべれないから、かな。絵の中だと、言いたいことがゆっくり待ってくれる」
「待ってくれる」
「うん。人の会話は、置いていかれることが多いから」
答えながら、胸の奥に小さな恥ずかしさが芽生える。そんなこと、言うつもりじゃなかったのに。
「私も、似てる」
真帆はさらりと言った。
「賑やかな場所は好きだけど、中心には居場所がない。絵を描いてる時だけ、真ん中に“点”ができる」
その言葉は、私の中の空洞の輪郭を、やさしくなぞる指だった。
校門を過ぎると、空気の匂いが変わる。街の夕暮れは、油絵具と違って、あたたかい湿った匂いがする。
「ね」
「うん」
「共同制作、テーマ……“余白”にしない?」
「余白?」
「うん。描かれていない場所。二人でそこに、何を置くかの絵」
彼女の“余白”という言葉が好きだと思った。
「いいね。私、余白が怖い。けど、好き」
「私も。怖いからこそ、手を伸ばしたくなる」
まっすぐな横顔。横顔は正面よりも饒舌だと、最近知った。
駅が見えてきたところで、真帆が立ち止まる。
「佐伯さん」
「なに」
「手、見せて」
差し出すと、彼女は私の指先についた鉛筆の粉を親指でそっと拭った。親指の腹がすべって、紙みたいに乾いた私の皮膚の上に、かすかな温度を置く。
「汚れ、じゃないね。今日の線の跡」
「そうだね」
「好きだな、こういうの」
好き、という音だけが、駅の喧騒から分離して、私の耳に居座る。
「……ありがと」
上手く言えたか分からない返事に、彼女が少しだけ笑う。
「じゃ、明日。放課後」
「うん。放課後」
改札に吸い込まれていく彼女の背中を、私は一歩だけ追ってから止まる。追いかけるには、今日の私の線はまだ短い。
ホームに降りると、風がスカートの裾を小さく揺らした。電車を待つ間、スマホのメモに二つの言葉を書いてみる。
「余白」
「君」
並べると、胸の奥で何かが重なって鳴った。言葉はまだ題名を持っていない。けれど、名前のない気持ちほど、濃く匂うことがある。
電車が来て、ドアが開く。ゆっくり乗り込んで、吊り革に掴まる。窓に映る自分の顔は、いつもより少しだけ、輪郭が柔らかい。
——絵の具の匂いと、心拍数。
それはたぶん、今日から始まる長い線の、いちばん最初の音だ。
家に着くと、机の上のスケッチブックをもう一度開く。描きかけの瓶とレモン。それから、余白。
私は鉛筆を持ち直して、余白にほんの少しだけ影を置いた。影は形じゃなくて、予感の色。
あした、あの人と並んで描くとき、この影がちゃんと光になるように。
息を吐く。吸う。呼吸の長さを計りながら、私はページをそっと閉じた。
窓の外には、夜。夜は色を混ぜるのが上手だ。きっと明日の朝には、今より少しだけ、私の線も長くなっている。