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第2話 色鉛筆の音

——色鉛筆の音は、小さな雨のように


 放課後の美術室は、昨日よりも少しだけ早く私を受け入れてくれた。窓の隙間から入る風で、貼り直した掲示物の角がかすかに震える。机の上に並べた色鉛筆は、木の匂いを薄くまとっていて、一本ずつがまだ眠っているみたいだ。


「佐伯さん、はやい」

 桐生真帆が肩で息を整えながら入ってきた。前髪の端に、乾ききらない水滴が一粒だけ残っている。彼女が笑うと、その水滴が光って、頬の線を横切った。

「昨日の“余白”、忘れないうちに、と思って」

「忘れないように、音にしておこう」

 彼女は二人分の画用紙を机に並べ、私の方を見ずに色鉛筆の缶を開けた。金属同士が触れる乾いた音。次の瞬間、鉛筆たちは互いにぶつかり合い、小さな雨みたいにこつこつと鳴った。


「今日の共同制作、試作から始めよう。描かないところを、先に決める」

「描かないところ……どこだろう」

「たとえば、ここ」

 真帆は私の右手首をそっと持ち上げた。脈の浅いところ。薄桃色を一本取り、「失礼」と小さく言ってから、手首の内側に短い線を置く。指の腹でふわりと擦って、色を空気にほどく。肌の上で色が曖昧になる。その曖昧さが、私の喉の奥まで染みてくる。

「線は消えても、温度は残る。余白って、きっとそういう場所」

「……うん」

 言葉が細くなる。彼女の親指が離れても、そこだけやわらかい鼓動が続く。


「お、二人とももう始めてるのか」

 背後から、部長の声。三年の陸先輩が、カッターと定規と大きなボードを抱えて入ってきた。白いシャツの袖を肘までまくり、手首に細い傷が一本。準備でつけたのだろう。

「共同制作の枠、採寸しとく。テーマは“余白”でいいんだな?」

「はい」

 真帆が頷くと、陸先輩は私たちの机を覗き込み、色見本のページに目を細めた。

「面白いな。描かない場所を先に固定するのか。……それなら、色は重ねすぎない方がいいかも」

「重ねない色、って難しいですね」

「だったら、これ使え」

 先輩は自分のバッグから、使い込まれた木箱を出した。油性色鉛筆の太い軸が、整列している。蓋の裏には、彼が作ったであろう色の階段が薄く残っていた。

「二十四色じゃ足りない時がある。四十八色でも足りない時もあるけどな」

「ありがとうございます」

 箱を受け取ろうと手を伸ばした瞬間、指先が陸先輩の指と軽く触れた。紙よりも少しだけ温かい。その温度を、私の手は知ってしまう。真帆が視線をこちらに滑らせ、ほんの一拍だけ止まる。止まった、と思う間にはもう動いていて、彼女は平然と私の前に新しい紙を置いた。


「佐伯さん、まずは“塗らない”で囲む」

「囲む?」

「うん。私が影を描く。佐伯さんは影の外側——空気をなぞって」

 真帆は2Bで私の肩越しに落ちる光を測り、小さな三角定規で角度を確かめてから、紙の上に薄い影を置いた。私はHBでその影の縁を追い、色鉛筆で境界をあいまいに撫でる。芯が紙を擦る音が、心拍と同期する。こつ、こつ。こつ。


「いい。今の音、続けて」

 耳元で囁く声。吐息が髪の根元をやさしく凪いでいく。私はわずかに首をすくめ、でも逃げない。逃げない自分に、驚いている。

「おーい、採寸いくぞー」

 陸先輩の声が空気を揺らす。三年の先輩たちが応じる声。計測用のメジャーが引き出される音。美術室がいっせいに動き出す中で、私と真帆の机の上だけ、別のテンポで時が進む。


「陸先輩、こっちの枠は横長でお願いできますか」

 真帆が顔を上げ、部長に声をかける。彼女の横顔は光を受けて、頬骨から耳の後ろへうっすらと影を引いた。その影の線が、妙に私の目を捕まえる。

「横長ね。了解。——佐伯、カットの時は手を出すな、危ないから」

「はい」

 名前を呼ばれると、胸の奥の何かが姿勢を正す。陸先輩は定規を置き、カッターの刃を静かに走らせた。厚紙が切れていく音は、色鉛筆とは違う、低い雨音だ。


「ねえ」

 真帆が小声で言う。

「さっきの、陸先輩の色の階段、きれいだった」

「うん。練習の跡、みたいな」

「人の練習の跡、好き。そこに、触れたくなる」

 “触れたくなる”の五文字が、私の皮膚のすぐ下をゆっくり通り過ぎていく。指先がむずむずする。昨日から、私の線は少しずつ、皮膚の内側に降りてきている。


 試作は、白の中に影だけが並ぶ構図になった。二人分の呼吸が、描かれていないところに浮かぶ。光を描かず、影を置く。影の濃度を上下させるたび、教室の音が遠くなったり近くなったりした。


「いいね。余白が、呼吸してる」

 真帆が身体を乗り出し、私の肩に額が触れそうな距離で紙面を覗き込む。肩先に彼女の髪がふれて、細い産毛が逆立つ。私は鉛筆を一度止め、深く息を吐いた。吐いた息を、彼女が同じ速度で吸う。重なる。重なってしまう。


「そこ、もう半歩だけ明るく」

「このあたり?」

「うん。手首の色で合わせよう」

 真帆は私の手首に視線を落とし、さっき置いた薄桃色の名残を確かめる。彼女の指がまたそっと触れ、指先で色を拾うように離れた。手首の脈が、紙の上にうつる気がした。


「文化祭の動線、俺が図面引いておく。展示位置は廊下突き当たりの壁、取れそうだ」

 陸先輩が戻ってきて、スケッチブックにざっと見取り図を描く。早い線。迷いのない角度。隅に“小物:画材説明”“体験コーナー?”と走り書きが増える。

「体験コーナー、いいですね」

「“塗らない色”を体験してもらうとか」

 真帆が乗ってくる。陸先輩は嬉しそうに笑った。

「二人の企画、ちゃんと形にしよう。……佐伯、これ貸す」

 先輩は短い消しゴムを一つ、私の机に置いた。角が丸くなるまで使い込まれた、小さな白い塊。

「ハイライト抜くとき、これが一番手に馴染む。新品より、思いがけない表情が出る」

「ありがとうございます」

 消しゴムを拾おうとして、私は机の端に指をぶつけた。つい顔をしかめる。すぐに真帆が私の手を取った。爪の先で、ぶつけたところの皮膚をそっと撫でる。触れても、押さない。確かめるだけの触れ方。痛みが、別の温度に変わる。


「だいじょうぶ?」

「うん。ちょっと、驚いただけ」

 真帆が微笑む。視線が一瞬、私の鎖骨のあたりをかすめて、すぐ戻る。その往復の痕を、私は確かに感じた。


 片づけの時間になっても、二人の机の上だけはまだ昼の温度を残していた。私たちは画用紙を重ね、試作を乾かすために棚の上段へ置く。背伸びした瞬間、真帆の肩が私の肩に触れ、骨の形同士が静かに挨拶する。言葉はいらない。


「このあと、画材屋、寄る?」

 真帆が言った。

「色、試したい」

「行く」

 返事が速すぎて、自分で可笑しくなる。二人で笑う。陸先輩が鍵を持って戸締まりに回りながら、「暗くなる前に帰れよ」と遠くから手を振った。


 外に出ると、空はまだ青く、街は少しだけ湿っていた。歩きながら、色鉛筆の缶が私のリュックの中で小さく鳴る。こつ、こつ。こつ。店までは、信号をふたつ渡る。


「ねえ、さっきの“音”、覚えてる?」

「鉛筆の?」

「ううん。佐伯さんの。線の音」

 真帆は横を向かずに言った。私は少しだけ歩幅を狭める。

「覚えてる、と思う」

「明日も、それ、聞かせて」

 明日も。放課後。約束の言い方。胸の中で、音がひとつ増える。


 店で買ったのは、紙やすり付きの芯研器と、薄いグレーの紙。余白の色を、白だけにしないための道具。レジ袋を持つ私の手に、真帆の指が一瞬重なる。風に揺れただけ、と言い訳できる短さ。でも、触れたことは確かだった。


 別れ際、駅前の階段で立ち止まる。

「じゃあ、明日。放課後」

「うん。放課後」

 昨日と同じ会話なのに、少し違う味がする。私の中のどこかに、新しい色が一本加わったみたいだ。


 家に戻って机に向かう。スケッチブックの余白に、今日の音を小さく書き留める。

「こつ、こつ、こつ」

 色鉛筆の音。私の心拍。陸先輩の低い雨音。真帆の囁き。全部が重なったところに、描かない線が一本、立ち上がる。


 灯りを消す前、手首の内側に残った薄桃色を見つめる。もう色はほとんど見えないのに、そこだけ肌が記憶している。

 ——明日も、この音で始めたい。

 そう思いながら、私はゆっくりと呼吸を整えた。呼吸の長さを測るみたいに、まぶたの裏で、白い紙が静かに明るくなる。

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