——影を追えば、光に触れる
土曜日の美術室は、校舎の他のどの部屋とも違う呼吸をしている。
廊下の先では運動部の掛け声が跳ね、グラウンドのホイッスルが空気を細く切っているのに、分厚い扉を閉めた内側だけは、時間が水面みたいに静かに張りつめていた。窓のカーテンは半分だけ引かれ、差し込む光は机の角をやわらかく洗う。白布の上のガラス瓶とレモンは、昨日よりも深い影をまとっている。
私は早めに来て、紙を水張りし、角をゆっくり撫でる。手のひらに吸いつく紙の弾力は、まだ眠っている体温みたいで、少しだけ心が落ち着く。筆洗いの桶に水を張る音が短く跳ね、やがて静かになる。
「おはよう」
扉が開いて、桐生真帆が入ってきた。髪を低い位置でひとつに結び、前髪はピンで止められている。動くたび、耳の下の細い毛が光を拾った。
「今日は、影やる」
挨拶の続きみたいに、彼女は宣言した。
「光は昨日の復習。影は、今日の発見」
「影って、苦手」
私は素直に言う。
「輪郭が揺れると、瓶がすぐ溶ける。それが怖い」
「うん。でも、影がなきゃ光は立ち上がらない」
真帆は私の隣にイーゼルを移し、斜めの位置から静物台を覗いた。光源は窓。瓶の右側に、布の皺に沿って、長く薄い影が落ちている。
「輪郭で描かない。空気の濃さで掴む。——やってみよ」
私が鉛筆を構えると、真帆は私の背後に回り、右手をそっと包む。包まれたところだけ、体温が濃くなる。
「握り変える。力は親指と人差し指の腹じゃなくて、関節の“面”で持つ。紙の上では、音を聞く」
「音?」
「そう。芯が紙に触れる“こつ、こつ”っていう音。空気の密度が変わる場所で、音が少し変わる」
言われたとおりに手を運ぶと、瓶の影の起伏に合わせて、芯の擦れるリズムが微妙に上ずったり沈んだりする。
「——ほら、今のところ。影が息してる」
彼女が顎で示す。顎の先が私の肩にふれそうになり、私は無意識に肩先をすくめた。制服の布が擦れて、微かな音。耳の奥が温かくなる。
「貸して」
真帆が鉛筆を取り、私の描いた線の外側を、一本だけ、さらりと撫でた。
「ここ、空気を足す」
それだけで、影の厚みが変わる。描かれていないところが、逆に見えてくる。
「影は“ない”を描くこと」
「“ない”を、描く……」
口にすると、喉の奥に淡い味がする。昨日から私の中にずっと残っている、薄桃色の後味みたいな。
窓の外を雲が横切る。光が一段落ち、瓶の輪郭が柔らかくほどけた。
「あ、光が変わった」
「事故だね」
真帆が笑う。
「でも事故はおいしい。いまの濃さで続けよ。新しい影を上に重ねない。昨日の光の記憶に合わせて、薄く延ばす」
彼女の指先が私の手首を探る。脈の浅いところに親指が乗って、軽く圧がかかる。
「ね、ここで呼吸して」
言われるままに息を整える。吐く長さと鉛筆の運びを合わせる。私の呼吸と紙の上の影が、細い糸でつながる感じがする。
しばらく無言で描いた。色鉛筆も加えて、グレーの階調を紙の上に溶かす。芯が紙を撫でる音が、微かな雨みたいに続く。
真帆は私の横顔をちらと見て、口角を上げた。
「顔、真剣」
「うん。いま、影がちょっとだけ分かった気がする」
「わかる感じ、似合う」
そう言って、彼女は私の頬に落ちかけた前髪を、爪の背でそっと除けた。爪の冷たさと、肌の上を通る風。ほんの一秒のことなのに、首筋の産毛がふっと立つ。
「おーい。採寸、もう一回チェックするぞ」
扉の向こうから陸先輩の声が届く。
彼は片手に大判のカッターマット、もう片手に図面の入ったファイルを持って現れた。白シャツの袖を肘までまくって、手首の細い傷が今日も一本。
「展示、廊下突き当たりの壁、取れそう。縦横の割り付け、二人の“余白”の実験版に合わせたい」
「横長でお願いします」
真帆が即答する。
「影が伸びる方向に合わせたいので」
「了解。——佐伯、丸刃は俺が持つから、手出すなよ」
「はい」
呼ばれるたび、胸の奥で姿勢が正される。
先輩はメジャーを伸ばし、正確に寸法を刻む。刃を入れると、厚紙が低い音でさく、と割れた。色鉛筆の雨音とは違う、重たい雨。教室の空気がその音に合わせて一瞬だけ深く息をする。
「体験コーナー、出したいって言ってたろ」
先輩が図面の余白に走り書きを増やしながら言う。
「“塗らない色”を感じてもらうワーク、どうやる?」
「透明紙とグレーの紙を重ねて、光の抜けを見せたいです」
と真帆。
「あと、消しゴムでハイライトを“描く”体験。影を置かないで光を起こす」
「良いね。子どもも大人も遊べる」
陸先輩は満足げに頷き、スケッチブックの端に「透明紙・重ね方要検討」と書き加えた。
先輩が他のテーブルへ回っていくと、教室はまた二人の温度に戻る。
「木炭、使ってみる?」
真帆が小さな箱を持ってきた。細い木炭が布に包まれて並んでいる。
「粉が落ちるから、息で優しく払ってね。——こう」
彼女は私の手首を持ち上げて、骨の際についた粉をふっと吹いた。吐息が肌を撫で、薄い温度が残る。
「息、くすぐったい」
「うん。影も、くすぐったいよ」
木炭は鉛筆よりも柔らかく、紙の上でよく滑った。角を使うと線が立ち、面で使うと薄い霧が広がる。
「耳の後ろ、少し赤い」
真帆が不意に言う。
「集中すると、そこ、血が集まるんだね」
「見ないで」
「見る。描くから」
息の混じった声は、冗談とも本気とも取れる。その曖昧さが、また私の内側で色を混ぜた。
雲が切れて、光が戻る。瓶の肩に小さなハイライトが立った。
「今だ」
真帆が練り消しをちぎる。柔らかい白の塊を、指先で尖らせる。
「“消す”じゃなく“起こす”。光を」
彼女は紙の上にそっと触れて、ほんのひとかけ、色を掬い取った。そこだけ空気が澄んで、瓶が息をした。
「佐伯さんも」
促されて、私も練り消しを握る。指の跡が残る柔らかさが、妙に心を落ち着かせる。
「強くねじらないで。撫でて、掬う」
私はそっと撫でる。影の海から、小さな光が浮かび上がった。
「——できた」
思わず声が漏れる。
「うん、いい」
真帆が笑う。笑い方が、紙の上のハイライトと同じ明るさだと思う。
「光の位置、さっきの“脈”の場所と繋がってる」
「私の脈?」
「そう。呼吸と一緒に動く。だから、名前をつけないで覚えておく」
名前をつけると、固定される。固定されると、呼吸しなくなる。そう言いたかったのだろう。私は頷いて、言葉を飲み込んだ。
昼を過ぎたころ、陸先輩が自販機の温かい缶ココアを三本、カランと転がしてきた。
「休憩。糖分」
「助かります」
缶を受け取ると、指の骨がじわっと温まる。真帆はプルタブに親指を引っかけ、開ける音を楽しむみたいに少しゆっくりと引いた。
「甘い」
一口飲んで、彼女は目を細める。
私も真似して口をつけると、舌の上に甘さが流れ、喉の奥で柔らかく広がった。
「文化祭のキャプション、文章どうする?」
先輩がベンチに腰を下ろしながら訊く。
「“余白は、ふたりの呼吸によって立ち上がる色の在りか”……みたいな」
真帆が即興で言葉を組む。
「難しい言葉にしすぎないで、でも甘すぎないやつがいい」
「じゃあ、佐伯。お前の言葉で書いてみてくれ」
缶を二口飲み終えた先輩が、自然にそう言った。
私の中のどこかがびくっと動いたが、逃げる感覚はなかった。
「……やってみます」
「頼んだ」
先輩は満足げに立ち上がり、別のテーブルの採寸へ戻っていった。
午後、試作二枚目。
今度は白い布の皺だけを追う。影の濃淡を面で掴み、線をほどく。筆圧を少しだけ落とすと、紙の上の空気がふっと軽くなる。
「いい。いまの軽さ」
真帆が私の手首を、その軽さのまま掴んだ。骨の形と骨の形が、皮膚越しに静かに挨拶をする。
「そのまま。逃げないで」
囁きが耳殻の縁を薄く撫でた。呼吸の音が重なる。
私は逃げないで続ける。影の縁を、一本の線で囲まず、肌で触るように撫で続ける。撫でているのは紙なのに、指先の記憶は別の場所を探してしまう。
夕方が近づくと、窓の光は橙に傾く。瓶の影は長く伸び、白布の皺は金色の縁を持った。
「ここで止めよう」
真帆が言う。
「描き込みたくなるけど、欲張らない。呼吸が浅くなるから」
私は鉛筆を置き、手の平に残る黒い粉を見た。
真帆がその手をとって、親指で粉を拭う。
「汚れ、じゃないね。今日の影の跡」
「うん」
「好きだな、そういうの」
昨日と同じ言い方なのに、今日の“好き”は少しだけ重かった。缶ココアみたいに。
片づけに入る。画用紙を棚へ。試作の一枚目と二枚目を重ね、その間に薄いトレーシングペーパーを挟む。背伸びした私の肩に、真帆の腕がふれて、一瞬だけ身体の重心が近づく。
「ごめん」
「ううん」
謝る必要なんてない距離感なのに、口は勝手に言葉をこぼす。言葉の形が空中でほどけて、すぐに消えた。
戸締まりの最終確認に出た陸先輩の背中が遠ざかり、教室には私と真帆だけが残った。
「もう一個だけ、試したい」
真帆が自分のスケッチブックを開く。
「“描かない丸”」
私は頷く。
「昨日の丸、気になってた」
真帆は紙のほぼ中央に、小さな丸を置いた。置く、といっても、何も描かないで、周りにだけ薄い影を重ねる。丸は白のまま浮かび、周囲の空気の密度だけが変わっていく。
「名前をつけない。意味を与えない。——でも、ここを中心に呼吸する」
私はその丸の外側を、色鉛筆の薄いグレーで撫で、境界を溶かした。
丸が、呼吸した。
何かに似ていると思った。脈の位置。手首の浅いところ。昨日からずっと、私の中で鳴っている音。
「……できたね」
真帆が息を吐く。
私は頷く。視線は丸の上。
丸は何にも見えないくせに、私の中の何かを正確に指していた。
名前は、まだいらない。いらないけれど、存在だけは確かだ。
外に出ると、廊下の窓越しに夕焼けが長く伸びていた。貼り紙の角が同じリズムでめくれ、遠くで掃除のモップの音が行って戻る。
「駅まで、また一緒に」
昨日と同じ言葉を、私が先に言った。
真帆は目だけで笑って頷く。
階段を降りる途中、私はふと立ち止まる。
「ねえ」
「なに」
「今日の丸、どこに置く?」
「心臓の左斜め上」
即答だった。
「どうして」
「そこに、声が落ちたから」
「声?」
「佐伯さんの、さっきの“できた”っていう声」
彼女は自分の胸元を指さして、それ以上は言わなかった。言葉にしてしまうと、丸が小さくなるからだろう。私も黙って、手すりに指をあずけた。冷たい金属が、今日の熱を正確に測る。
駅前に近づくと人が増え、ざわめきが影を細かく砕く。
「明日、日曜も来る?」
「来る。午前中なら」
「じゃあ、朝の影をやろう。午前の影は、夜の名残がある」
「夜の名残」
聞き返すと、真帆は少しだけ頬を傾けた。
「朝の肌、って意味」
言い方が少しずるいと思った。
でも、嫌じゃない。むしろ、その“ずるさ”の輪郭を、指でなぞりたくなる。
改札前で、昨日と同じ別れ方をする。
繰り返しの中に、音の違いがある。今日は低く、柔らかい。
ホームで列に並び、ガラスに映る自分の顔を見る。首筋に一本、細い影が落ちている。さっき真帆が前髪を除けたとき、空気が触れてできた影だ。指先でなぞるふりをして、なぞらない。描かない。
ポケットからメモを取り出し、今日の言葉を三つ、書き留める。
「事故」「呼吸」「丸」
書いてみると、三つは同じ高さで並んだ。誰にも見せないキャプション。自分だけの練習の跡。
電車が来る。乗り込む瞬間、ポケットの中で消しゴムが転がった。角が丸くなった、小さな白い塊。陸先輩から預かったもの。
——光は、消して起きる。
今日、覚えたこと。
影を置いて、呼吸を合わせて、最後に光を起こす。名前をつけず、意味を与えず、でも確かにそこにある。
夜。机の上で、スケッチブックを開く。
昼間の試作を見返して、丸の外側の空気に、ほんの少しだけ影を足す。
筆圧を落とし、呼吸を整える。吐く長さで影を薄め、吸う長さで余白を残す。
ページを閉じる直前、手首の内側を見た。薄桃色はもう見えない。けれど、そこに丸がひとつ、確かにある気がする。
——名前は、まだいらない。
そのかわり、音を覚える。
芯が紙を撫でる音。吐息が肌をくすぐる音。心拍が小さく跳ねる音。
それらが重なったところに、私の“余白”がある。明日の朝、その余白に光が立ち上がるように。
私は電気を落とし、暗闇の中で、ゆっくりと呼吸の長さを数えた。