——朝の影は、夜の名残を連れてくる
日曜の朝の美術室は、鍵の開く音から始まる。
管理当番の先生が扉を引き、金属が小さく鳴る。空気は昨夜の冷たさを少しだけ残していて、机の天板は乾いた木の匂いがした。窓を開けると、風がカーテンを押し出し、白い布が静物台の上でゆっくり持ち上がる。
私は昨日より少し早く着き、紙を水張りして角を指で整えた。呼吸を合わせるように、指の腹で紙の張りを確かめる。——息を吐く。吸う。紙も、息をしている。
「おはよう、佐伯さん」
背後から、桐生真帆の声。
彼女はポニーテールを低く結び、首筋が朝の光を受けて細い線になっている。耳の下で解けた髪が一本、風に揺れて、彼女の動きに合わせて光った。
「朝の影、やろう」
「うん」
「それと——今日は、ひとつ試したいことがある」
彼女はイーゼルを私の隣に移し、視線だけで静物台から私へと移動させた。
「ポートレート。風の“余白”で描く」
「私を、モデルに?」
「うん。動かないで座ってみて。風が髪を“描く”から、私は風の描かないところ——つまり余白を拾う」
言われるままに、私は窓際のスツールに腰かける。
背筋を立てると、肩甲骨の位置がはっきりわかる。膝の角度を調整する。彼女は私の正面に立ち、片手でスツールの足を軽く押し、水平をとる。動作は迷いがない。
「顎、少しだけ右。……そう。首はそのまま。目線は窓の外に落として」
指示のリズムが心地いい。私は指示の通りに視線を落とし、窓の外の銀杏の葉を数えるふりをした。
「髪、触るね」
真帆が近づく。
私のこめかみのところで、彼女の指先が髪をすくい、耳の後ろへそっと払う。爪は立てない。指の腹が、髪と皮膚の境目を探るように滑る。呼吸を忘れないように、私は喉の奥でひとつ小さく息を飲んだ。
「乱れないように、ここ、クリップで留めて……うん。首筋の線、きれい」
彼女の声が、肌の上で薄い紙のように留まる。
「肩の力、もう半分だけ抜ける」
「……こんな感じ?」
「そう。呼吸の長さに合わせる。今の“吸う”が少し速い。吐くを長くして」
私は吐く。長く。
窓から入る風が、前髪の先を小さく持ち上げる。髪の、細い一本一本が空気の形をなぞるのがわかる。彼女はその揺れを、見逃さない。
「今日は鉛筆の前に、木炭を置く」
真帆は布包みから細い木炭を取り出し、人差し指と中指の間に挟む。
「柔らかい方が、風の痕跡を掴める。描くんじゃなくて、落とす」
彼女の手首が動くたび、紙に薄い灰が沈む。輪郭を描いていないのに、私の輪郭が浮いてくる。
「髪はね、“ある”ところより、“ない”ところで光る。逆光のここ——」
彼女は紙から目を離さずに、私の耳の後ろを指差すような角度で顎を動かす。
私はじっとする。動かないことを選ぶのは、思ったよりも、体のあちこちを目覚めさせる。
「顎下、陰をもう一段足す」
彼女は木炭の角を使い、細い影をひとつ落とした。
影は線ではない。空気の濃度。昨日覚えた言葉が、今、私の喉の奥できれいに呼吸している。
「目線、逃げないで」
彼女が言う。
「逃げてないよ」
「うん、いまの“強がり”の位置、いい」
強がり、という単語に、頬の中ほどが熱を持つ。
「顔、少しだけ左……止めて。はい、その“止めた”の長さ、覚えて」
鉛筆に持ち替え、彼女は髪の流れの合間に細い線を一本だけ置く。
その一本が、さっきまで“無数の流れ”だったものに方向を与える。風が私を撫でたルートを、紙の上に移していく手つき。
「耳の軟骨、光が薄く跳ねてる」
彼女の声が低くなる。
私は頷かない。動かない。代わりに、耳の中で自分の心拍を数える。
こつ、こつ。
紙の上の線と、どこかで同じ速度で鳴る。
静物台の白布が風で持ち上がり、影が少しだけ移動する。
「事故」
彼女は短く言って、笑った。
「いい事故。今のまま、追わないで待つ」
待つこと。何かを選ばないまま、余白を開けておくこと。——私がずっと苦手にしてきた行為が、いま、肯定されている。
目を細めると、風に揺れる自身の前髪の先が、かすかに視界に入った。
一本一本が、小さな線。彼女が拾う前の、世界の線。
「水、飲む?」
「大丈夫」
「じゃあ、首、二ミリだけ右。……そう。二ミリって言うと、みんな三センチ動くんだよね」
「三センチ動きそうだった」
二人で笑いそうになって、私は耐える。
笑いの気配は、顔の筋肉を一気に連れて行ってしまう。
真帆はそれをわかっていて、笑いきらないで止める。その“止める”が、私の中の何かをやさしく撫でていく。
「——よし、いったん休憩」
彼女が木炭を置いた。
私はやっと背を解き、肩を回す。血が戻る感覚が心地よい。
真帆は立ち上がり、窓のストッパーを少しだけ締めた。風の強さが半歩、弱まる。
「髪、ほどく?」
「このままで平気」
「うん。……佐伯さん、朝の匂いがする」
「何それ」
「夜の名残が、まだ少し残ってる匂い」
意味がよくわからなくて、わかりすぎて、私は黙る。
彼女はそれ以上言わず、ペットボトルの水を一口飲み、私にも差し出した。キャップの縁に彼女の指が触れていた。私は触れないように受け取る。触れない、という選択が、触れることよりも強く意識に残る。
「次、鉛筆で整える。ハイライトは練り消しで起こす」
彼女は再び私の正面に立ち、紙面に目を戻す。
「さっきの“止めた”の長さ、もう一回。——はい」
私は呼吸のメトロノームを整える。
背の中ほどで、筋肉が微かに震える。
その震えを、彼女は紙の上で線の密度に変える。
「首の左側、産毛が光ってる。ここ、余白で残す」
余白。描かないことの選択。
描かない、と決めるのは、描くよりも難しい。
でも今、私はその難しさを、彼女の手の中に預けている。
しばらくして、扉が開いた。
「おはよう」
陸先輩の声。
彼は大きな額縁とカッターマットを抱え、腕に白いガムテープを通している。
「朝の影、どうだ」
「いい。風が、描いてくれてる」
真帆が答える。
先輩は私の座る窓際をちらと見て、微笑んだ。
「モデル、似合ってるな、佐伯」
「……ありがとうございます」
言葉が少し上ずる。
先輩は額縁を壁に立てかけ、持ってきたクロスで窓の桟を拭き、私のスツールの足元を覗き込んだ。
「水平、取れてるけど、長い時間だとずれるかも。——ちょっと持ち上げて」
彼は私のスツールの座面の下に手を差し入れ、ほんの数ミリ持ち上げる。私は姿勢を崩さないように、腹筋に力を入れる。
先輩の指が座面を押さえるとき、私の膝とふくらはぎの間を風が通り抜けた。
「これで大丈夫」
「ありがとう、陸先輩」
真帆が短く礼を言い、すぐに紙面に戻る。その眼差しの深さに、先輩は少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「昼には一回、展示の枠、通してみる。配置、二人で見て決めてくれ」
「はい」
先輩は軽く手を振り、別のテーブルへと移動していく。
足音が遠のく。
美術室はまた、私と真帆の時間へ戻った。
「ねえ」
真帆が、紙から目を離さずに言う。
「今の“ありがとう”、声の高さが昨日と違う」
「え?」
「昨日より、半音低い。落ち着いてる」
「……そうかな」
「うん。落ち着いてるときの線、出るよ」
彼女はHBを柔らかく寝かせ、紙の上に短い線をいくつも置いた。呼吸の長さに合わせて、線の長さも揃う。
「顎、あと一ミリだけ右。——止める。はい」
私は止める。
止めた時間が、首筋の影に静かに沈んでいく。
どれくらい経ったのか、わからない。
ただ、紙の上にもうひとりの私が生まれつつあるのはわかった。輪郭は曖昧で、髪の線は風にほどけている。
なのに、確かに“私”なのだ。
彼女が拾ったのは、目の形でも、唇の曲線でもない。呼吸の長さ。止めた一秒。耳の後ろに残った、朝の名残。
そういうものが、紙の中で私をつくっている。
「——ここで止める」
真帆が鉛筆を置く。
「描き込みたくなるけど、欲張らない。呼吸が浅くなるから」
昨日と同じ言葉。けれど、今日の“止める”には風の温度が混じっている。
「見ていい?」
「どうぞ」
私はスツールからそっと降り、彼女と並んで紙面を覗き込んだ。
そこにいたのは、私の知らない私だった。
髪の流れは線よりも前に空気で印され、首筋は光で切り取られている。目ははっきり描かれていないのに、目線がどこへ向かっているかはわかった。
「……私だ」
「うん。朝のあなた」
彼女は小さく笑い、練り消しの先で額の上にほんの一点だけ白を置いた。
「ここは、風の出入り口。——今日はここで閉める」
昼前、陸先輩が額縁を持って戻ってきた。
「仮で入れてみるか」
彼は手早く四辺を締め、私と真帆の間に立てた。
額に入ると、絵はすぐ“展示物”の顔をする。
距離がひとつ生まれる。距離があるからこそ見えるものがある。
「キャプション、考えた?」
「案はあります」
私は昨日のメモを開き、三つの単語を並べて見せた。
「事故/呼吸/丸」
「いい。——その三つで、読んだ人に余白が残る文にしよう」
陸先輩は満足げに頷き、壁際の仮釘に額をかけた。
「午後、他の作品も合わせる。二人は昼、何か食べてこい」
「はい」
先輩が去ったあと、私たちは同時に小さく息を吐いた。タイミングが揃って、可笑しくなる。
「外、風、まだあるかな」
真帆が窓の外を見やる。
「ある。——駅前まで散歩、兼、昼」
「うん」
校門を出ると、風は少し強くなっていた。
銀杏の葉が裏向きにひるがえり、空は白く、雲は低い。
歩道橋の上で、髪がまた揺れる。前髪が目にかかり、私は手で押さえる。
「待って」
真帆が立ち止まり、小さな布ゴムを取り出した。
「結び直す。——動かないで」
彼女は私の背に立ち、両手で髪をまとめる。指先が頭皮をやわらかく撫で、ゴムが通るたびに髪が集まっていく。
結び目をきゅっと締めると、首の後ろに冷たい風がすっと通った。
「……涼しい」
「うん。その涼しさ、覚えておいて。今日の絵の“入口”になるから」
彼女はそう言って、結び目の位置を少し下げた。
「きつくない?」
「大丈夫」
「じゃあ、行こ」
駅前のパン屋でサンドイッチを買い、ベンチで並んで食べる。
真帆はレタスをはみ出したままかじり、私はそれを見て笑ってしまう。
「笑った」
「うん」
「笑った顔、まだ描いてない」
「描かなくていい」
「でも、余白に残ってる」
彼女がパンを持つ指の横で、風がまた小さくひるがえる。
ベンチの足元で、落ち葉がころがった。
街の音は細かく砕け、風の中で混ざる。
それなのに、彼女と私の間だけは、音の粒が大きい。
呼吸の音。紙の上の線と同じリズムで、今も鳴っている。
午後、教室に戻ると、額に入った“朝の私”は少し落ち着いて見えた。
陸先輩が廊下の突き当たりへ運び、仮の位置に掛けてくれる。
白い壁に、風の余白が立ち上がる。
「いい」
真帆が短く言う。
その声音に、私の胸の中の何かが静かに頷いた。
「今日はここまでにしよう」
真帆はイーゼルを畳み、木炭の箱を布で包む。
私も水張り板を拭き、机の天板を手の平でなぞって確認する。
帰り支度を終え、窓の鍵をかける。
カーテンの裾が最後に一度だけ膨らんで、部屋に風の輪郭を置いていった。
廊下に出ると、窓の外は薄く曇っていた。
真帆が立ち止まり、私の肩に自分のカーディガンをふっと載せる。
「冷える」
「ありがとう」
布は彼女の体温を少しだけ残していて、肩にその温度が広がる。
私は思わず、カーディガンごと自分の身体を抱きしめた。
抱く、というより、温度を落とさないように“囲う”。
真帆は何も言わず、私の前に回り込んで、両手でカーディガンの前を整えた。
「——明日、放課後」
「うん。放課後」
いつもの言葉。
でも今日は、その言葉の手前に、風の匂いが一枚、薄く挟まっている。
駅までの道。
私はポケットの中の練り消しを指先で押し、形を変える。
柔らかい白は、押せば押すほど、指の跡を残す。
指の跡。今日の朝の止めた一秒。耳の後ろの光。結び直した髪の涼しさ。
全部が、見えない“丸”になって胸の左上に留まっている。
ホームで列に並ぶ。
風がもう一度だけ、私の髪を撫でた。結び目の下で、短い毛が跳ねる。
私は反射的に手を上げ、跳ねた毛を抑えた。
その瞬間、紙の上の“入口”が、額のどこかで明るくなるような気がした。
——朝の影は、夜の名残を連れてくる。
明日の放課後、その名残を、もう少しだけ手前に引き寄せたい。
電車が入ってくる音の中で、私は小さく息を整えた。
呼吸の長さを数える。
風の長さと、同じ速さで。