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第5話 キャンバスに滲む想い

——言葉よりも早く、色が広がる


 月曜の放課後。美術室に入ると、ガラス窓の外は曇り空だった。

 昼間の湿気を含んだ空気が、教室の中に重く漂っている。机の上に置かれたキャンバスに、まだ乾ききらない昨日の絵具の匂いが残っていた。

 油彩特有の甘い匂い。胸の奥に沈むように広がり、気持ちを落ち着けるどころか、逆にざわつかせる。


「佐伯さん、こっち」

 桐生真帆がイーゼルを並べながら手を振った。

 彼女の袖口には、朱色と群青が乾いた跡になって残っている。

 それだけで、今日の時間も“絵”に支配されることが決まったような気がした。


「文化祭の共同制作、正式に決まったよ」

 部長の陸先輩がファイルを持って入ってきた。

「展示スペースは廊下突き当たり。二人の作品をメインに置く」

 ざわついていた部室の空気が、一瞬で張りつめる。

 “メイン”という言葉は、期待と重圧を同時に背負わせる。

 私は思わず手の中の鉛筆を強く握り、芯が紙に小さな傷をつけてしまった。


「大丈夫」

 隣から真帆の声。

 彼女は何でもない顔で私の手から鉛筆を抜き取り、代わりに平筆を握らせた。

「色を置いて。言葉は後でいい」

 彼女がそう言うと、心拍の速さが少しだけ落ち着いた。


 ——でも、落ち着いたはずの手は震えていた。



 キャンバスに向かうと、真帆が隣で筆を走らせる。

 青と黒を混ぜて、布の影を広げていく。筆先が布の皺に沿って動き、その跡は呼吸の長さを正確に映していた。

「佐伯さんは、光を」

「光?」

「そう。影の外に残ってる“温度”。佐伯さんにしか見えない色」

 彼女の声は穏やかで、それ自体がすでに光を運んでいるみたいだった。


 私はパレットの端で、黄色に白を少しずつ足す。

 レモンよりも柔らかい、橙寄りの光。

 それを布の端に置くと、キャンバスの片隅がふっと温まった。


「いい」

 真帆の声。

 私の中で膨らんでいた不安が、ほんの少しだけ滲んで溶ける。

 代わりに広がるのは、彼女の横顔への視線。

 筆を走らせる彼女の頬、額の髪、首筋の細い影。

 それを“描く”ことはできない。だから私は、キャンバスに別の光を置いた。



「……色が滲んでる」

 気づいたときには遅かった。

 私の置いた光が、水分を吸いすぎて広がり、布の影を侵食していく。

「ごめん、失敗——」

「違う」

 真帆の手が、私の手首を強く掴んだ。

「事故は、おいしい」

 彼女はその滲みの外側を即座に塗り重ね、滲みが“呼吸する影”に変わっていった。

「ね、見て。光と影が喧嘩してない。抱き合ってる」

 彼女はそう言いながら、私の指を離さなかった。

 掴まれた手首の温度が、皮膚の奥まで沈んでいく。

 私は言葉を探したけれど、見つけられなかった。



 休憩時間。窓際に腰掛けると、外の風で前髪が揺れた。

 真帆は私の髪を指先で払う。爪ではなく、指の腹で。

「今日の色、佐伯さんみたいだった」

「私みたい?」

「うん。最初は震えて、でも広がると優しい」

 彼女の声が、胸の内側に直線を引く。

 線はまっすぐで、けれど私の呼吸を乱す。


「……佐伯」

 陸先輩が近づいてきた。

 ファイルを小脇に抱え、まっすぐに私を見る。

「キャプション、任せたい。君の言葉は、作品に呼吸を与える」

 真帆も頷いた。

「佐伯さんの言葉なら、大丈夫」


 言葉。

 私がいちばん不器用なもの。

 でも、二人がそう言うなら——。

 私はゆっくりと頷いた。



 夕方。片付けを終え、廊下に出る。

 窓の向こう、曇り空が夕焼けに少しずつ滲んでいく。

 朱色と紫が重なって、境界はどこにもなかった。


「色って、人と同じだね」

 真帆が言った。

「ぶつかっても、滲んでも、最後はちゃんと一枚になる」

「……そうなのかな」

「そうだよ。今日のキャンバス、証明してる」


 私は答えられず、彼女の横顔を見た。

 夕焼けの中で風に揺れる髪が、光と影の境界を曖昧にしていた。

 その曖昧さごと、私は覚えておきたいと思った。



 電車の窓に映る自分の顔。

 頬に、かすかに色が残っているように見えた。

 絵具でも、夕焼けでもない。

 ——あの人に掴まれた手首の温度が、まだ消えていなかった。


 ページを開き、メモに書く。

「滲む」「事故」「抱き合う」

 今日の三つ。

 言葉よりも早く、色が広がっていった証拠。

 私はメモを閉じ、窓の外の影に視線を重ねた。

 その影は、光と喧嘩していなかった。

 ただ、ひとつの色になろうとしていた。

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