——言葉よりも早く、色が広がる
月曜の放課後。美術室に入ると、ガラス窓の外は曇り空だった。
昼間の湿気を含んだ空気が、教室の中に重く漂っている。机の上に置かれたキャンバスに、まだ乾ききらない昨日の絵具の匂いが残っていた。
油彩特有の甘い匂い。胸の奥に沈むように広がり、気持ちを落ち着けるどころか、逆にざわつかせる。
「佐伯さん、こっち」
桐生真帆がイーゼルを並べながら手を振った。
彼女の袖口には、朱色と群青が乾いた跡になって残っている。
それだけで、今日の時間も“絵”に支配されることが決まったような気がした。
「文化祭の共同制作、正式に決まったよ」
部長の陸先輩がファイルを持って入ってきた。
「展示スペースは廊下突き当たり。二人の作品をメインに置く」
ざわついていた部室の空気が、一瞬で張りつめる。
“メイン”という言葉は、期待と重圧を同時に背負わせる。
私は思わず手の中の鉛筆を強く握り、芯が紙に小さな傷をつけてしまった。
「大丈夫」
隣から真帆の声。
彼女は何でもない顔で私の手から鉛筆を抜き取り、代わりに平筆を握らせた。
「色を置いて。言葉は後でいい」
彼女がそう言うと、心拍の速さが少しだけ落ち着いた。
——でも、落ち着いたはずの手は震えていた。
⸻
キャンバスに向かうと、真帆が隣で筆を走らせる。
青と黒を混ぜて、布の影を広げていく。筆先が布の皺に沿って動き、その跡は呼吸の長さを正確に映していた。
「佐伯さんは、光を」
「光?」
「そう。影の外に残ってる“温度”。佐伯さんにしか見えない色」
彼女の声は穏やかで、それ自体がすでに光を運んでいるみたいだった。
私はパレットの端で、黄色に白を少しずつ足す。
レモンよりも柔らかい、橙寄りの光。
それを布の端に置くと、キャンバスの片隅がふっと温まった。
「いい」
真帆の声。
私の中で膨らんでいた不安が、ほんの少しだけ滲んで溶ける。
代わりに広がるのは、彼女の横顔への視線。
筆を走らせる彼女の頬、額の髪、首筋の細い影。
それを“描く”ことはできない。だから私は、キャンバスに別の光を置いた。
⸻
「……色が滲んでる」
気づいたときには遅かった。
私の置いた光が、水分を吸いすぎて広がり、布の影を侵食していく。
「ごめん、失敗——」
「違う」
真帆の手が、私の手首を強く掴んだ。
「事故は、おいしい」
彼女はその滲みの外側を即座に塗り重ね、滲みが“呼吸する影”に変わっていった。
「ね、見て。光と影が喧嘩してない。抱き合ってる」
彼女はそう言いながら、私の指を離さなかった。
掴まれた手首の温度が、皮膚の奥まで沈んでいく。
私は言葉を探したけれど、見つけられなかった。
⸻
休憩時間。窓際に腰掛けると、外の風で前髪が揺れた。
真帆は私の髪を指先で払う。爪ではなく、指の腹で。
「今日の色、佐伯さんみたいだった」
「私みたい?」
「うん。最初は震えて、でも広がると優しい」
彼女の声が、胸の内側に直線を引く。
線はまっすぐで、けれど私の呼吸を乱す。
「……佐伯」
陸先輩が近づいてきた。
ファイルを小脇に抱え、まっすぐに私を見る。
「キャプション、任せたい。君の言葉は、作品に呼吸を与える」
真帆も頷いた。
「佐伯さんの言葉なら、大丈夫」
言葉。
私がいちばん不器用なもの。
でも、二人がそう言うなら——。
私はゆっくりと頷いた。
⸻
夕方。片付けを終え、廊下に出る。
窓の向こう、曇り空が夕焼けに少しずつ滲んでいく。
朱色と紫が重なって、境界はどこにもなかった。
「色って、人と同じだね」
真帆が言った。
「ぶつかっても、滲んでも、最後はちゃんと一枚になる」
「……そうなのかな」
「そうだよ。今日のキャンバス、証明してる」
私は答えられず、彼女の横顔を見た。
夕焼けの中で風に揺れる髪が、光と影の境界を曖昧にしていた。
その曖昧さごと、私は覚えておきたいと思った。
⸻
電車の窓に映る自分の顔。
頬に、かすかに色が残っているように見えた。
絵具でも、夕焼けでもない。
——あの人に掴まれた手首の温度が、まだ消えていなかった。
ページを開き、メモに書く。
「滲む」「事故」「抱き合う」
今日の三つ。
言葉よりも早く、色が広がっていった証拠。
私はメモを閉じ、窓の外の影に視線を重ねた。
その影は、光と喧嘩していなかった。
ただ、ひとつの色になろうとしていた。