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第6話 指先に触れた温度

——時間の針が止まったみたいに


 火曜の放課後。美術室の窓を揺らす風は弱く、昼間の熱をまだ抱えていた。

 扉を開けた瞬間、昨日の絵具の匂いが胸にまとわりつく。甘いのに重たい。呼吸を深くしようとすればするほど、胸の奥が早鐘みたいに跳ねた。


「佐伯さん、来た」

 桐生真帆が、筆洗いの前に立っていた。袖を少しまくり、手首を濡らしながら筆を絞っている。細い水滴が腕を伝って、指先で光を弾いた。

 彼女は私に気づくと、にっと笑って言った。

「今日は“線の呼吸”を一緒に」

「線の呼吸?」

「二人で一本を描く。手を重ねて」


 言葉の意味を理解する前に、彼女は私の手を取った。

 まだ水に濡れた指先が、私の皮膚に冷たく触れる。

 その冷たさのあとに、遅れて熱が広がった。

「怖い?」

「……ちょっと」

「じゃあ、怖がり方、私が教える」

 真帆の手が、私の手の甲を覆う。体温は軽いのに、重さは逃げられないくらい確かだった。



 キャンバスに向かう。筆に墨汁を含ませ、布の端に寄せる。

 彼女が私の背に寄り添い、指を重ねる。肩越しに呼吸が流れ込み、筆先が紙に触れた。

 ——墨の黒が、まるで心拍を映すみたいに震えた。


「肩で引いて」

 真帆の声が耳元に落ちる。

 私は首筋が熱くなるのを隠せない。

 筆が大きく弧を描く。紙の上で、彼女と私の力が重なる。

「見て。震えてる線も、生きてる」

「……うん」

「佐伯さんの線、優しい。怒らない」


 彼女はさらに手を押し込む。指の節が、私の指の節に沿う。

 筆の軸を握るのは一つの手なのに、呼吸は二つ。

 呼吸が合わないと線は歪み、合えば、線は静かに走った。

 私の耳の後ろを、彼女の吐息がかすめる。

 そのたびに、時間の針が止まったみたいに感じた。



「次、曲線」

 真帆は私の手を少し強く握り、筆を傾けた。

 墨が濃く滲み、紙の端まで走る。

「……ほら、怖がり方が上手くなってる」

 彼女の声は低く、穏やかで、でも心拍を煽った。


 私は答えられず、ただ線を見つめた。

 そこには二人分の呼吸が溶け合い、一本の“音”になっていた。

 音に名前はない。けれど確かに、温度を持っていた。


「佐伯」

 不意に後ろから陸先輩の声がした。

 私は慌てて筆を置く。

「キャプションの草稿、持ってきたか?」

「あ……はい」

 リュックからノートを取り出す。昨日のメモをもとに書いた短い文章。

 “影と光のあいだに、余白は呼吸する”

 先輩は一読して、頷いた。

「いい。これを軸に膨らませよう」

 真帆も覗き込み、目尻を柔らかくした。

「佐伯さんの言葉、やっぱり色になる」

 そう言った彼女の横顔を見た瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。



 片付けの時間。水道で筆を洗うと、冷たい水が手のひらをすべる。

 真帆が隣に並び、同じように筆を絞った。

「今日の線、忘れないで」

「忘れない」

「忘れたら、また重ねればいい」

 彼女はそう言って、私の手首をそっと掴んだ。

 昼間に感じた温度が、もう一度そこに宿る。

 濡れた指先から伝わる熱は、乾くことなく胸に残った。



 帰り道。曇った空が夕焼けに溶け始め、風は昨日よりも涼しい。

 駅まで並んで歩く靴音が、二つでひとつのリズムを作る。

「佐伯さん」

「なに」

「今日の線、まだ途中だから」

「途中?」

「そう。完成は、明日。——また重ねる」

 彼女は笑った。その笑みは、墨の黒よりも鮮やかで、私の中に深く滲んでいった。


 電車を待つ間、私はポケットの中で指先を握る。

 まだ温度が残っている。

 ——指先に触れた温度は、時間の針を止める。

 明日、それをもう一度確かめたい。

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