——時間の針が止まったみたいに
火曜の放課後。美術室の窓を揺らす風は弱く、昼間の熱をまだ抱えていた。
扉を開けた瞬間、昨日の絵具の匂いが胸にまとわりつく。甘いのに重たい。呼吸を深くしようとすればするほど、胸の奥が早鐘みたいに跳ねた。
「佐伯さん、来た」
桐生真帆が、筆洗いの前に立っていた。袖を少しまくり、手首を濡らしながら筆を絞っている。細い水滴が腕を伝って、指先で光を弾いた。
彼女は私に気づくと、にっと笑って言った。
「今日は“線の呼吸”を一緒に」
「線の呼吸?」
「二人で一本を描く。手を重ねて」
言葉の意味を理解する前に、彼女は私の手を取った。
まだ水に濡れた指先が、私の皮膚に冷たく触れる。
その冷たさのあとに、遅れて熱が広がった。
「怖い?」
「……ちょっと」
「じゃあ、怖がり方、私が教える」
真帆の手が、私の手の甲を覆う。体温は軽いのに、重さは逃げられないくらい確かだった。
⸻
キャンバスに向かう。筆に墨汁を含ませ、布の端に寄せる。
彼女が私の背に寄り添い、指を重ねる。肩越しに呼吸が流れ込み、筆先が紙に触れた。
——墨の黒が、まるで心拍を映すみたいに震えた。
「肩で引いて」
真帆の声が耳元に落ちる。
私は首筋が熱くなるのを隠せない。
筆が大きく弧を描く。紙の上で、彼女と私の力が重なる。
「見て。震えてる線も、生きてる」
「……うん」
「佐伯さんの線、優しい。怒らない」
彼女はさらに手を押し込む。指の節が、私の指の節に沿う。
筆の軸を握るのは一つの手なのに、呼吸は二つ。
呼吸が合わないと線は歪み、合えば、線は静かに走った。
私の耳の後ろを、彼女の吐息がかすめる。
そのたびに、時間の針が止まったみたいに感じた。
⸻
「次、曲線」
真帆は私の手を少し強く握り、筆を傾けた。
墨が濃く滲み、紙の端まで走る。
「……ほら、怖がり方が上手くなってる」
彼女の声は低く、穏やかで、でも心拍を煽った。
私は答えられず、ただ線を見つめた。
そこには二人分の呼吸が溶け合い、一本の“音”になっていた。
音に名前はない。けれど確かに、温度を持っていた。
「佐伯」
不意に後ろから陸先輩の声がした。
私は慌てて筆を置く。
「キャプションの草稿、持ってきたか?」
「あ……はい」
リュックからノートを取り出す。昨日のメモをもとに書いた短い文章。
“影と光のあいだに、余白は呼吸する”
先輩は一読して、頷いた。
「いい。これを軸に膨らませよう」
真帆も覗き込み、目尻を柔らかくした。
「佐伯さんの言葉、やっぱり色になる」
そう言った彼女の横顔を見た瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
⸻
片付けの時間。水道で筆を洗うと、冷たい水が手のひらをすべる。
真帆が隣に並び、同じように筆を絞った。
「今日の線、忘れないで」
「忘れない」
「忘れたら、また重ねればいい」
彼女はそう言って、私の手首をそっと掴んだ。
昼間に感じた温度が、もう一度そこに宿る。
濡れた指先から伝わる熱は、乾くことなく胸に残った。
⸻
帰り道。曇った空が夕焼けに溶け始め、風は昨日よりも涼しい。
駅まで並んで歩く靴音が、二つでひとつのリズムを作る。
「佐伯さん」
「なに」
「今日の線、まだ途中だから」
「途中?」
「そう。完成は、明日。——また重ねる」
彼女は笑った。その笑みは、墨の黒よりも鮮やかで、私の中に深く滲んでいった。
電車を待つ間、私はポケットの中で指先を握る。
まだ温度が残っている。
——指先に触れた温度は、時間の針を止める。
明日、それをもう一度確かめたい。