——言えないまま、喉に残る色
水曜の放課後。美術室の窓は少しだけ曇っていた。外は雨。しとしとと落ちる水の音が、遠くの校庭を均一に濡らしている。ガラスの外側を伝う雫は線になり、やがて滴に変わる。その一滴が落ちるたびに、胸の奥でも何かが小さく弾んだ。
私がスケッチブックを開いていると、真帆が机に身を投げるように腰を下ろした。濡れた髪から水滴が垂れて、制服の袖を濃い色に染めていく。
「雨、好き?」
「嫌いじゃない。音が一定で、呼吸が揃いやすいから」
「佐伯さんらしい答え」
真帆は笑って、濡れた前髪を手で払い、私のスケッチブックを覗き込む。
描いていたのは静物の瓶。だけど、線はいつもより揺れていた。理由は分かっている。雨で空気が重いせいじゃない。隣にいる彼女の存在が、私の鉛筆をいつもより強く震わせている。
「ねえ、好きかもしれない——」
真帆が不意に言った。
鉛筆の先が止まる。紙に小さな傷がついた。
「……え?」
「もし、私が好きっと言ったら。佐伯さんはどう思う?」
真帆は軽く微笑みながらも、目は紙の上ではなく私の横顔を見ていた。
喉がひゅっと詰まる。言葉が空気の中で固まる。
「どうして、そんなこと……」
「ふと思っただけ」
軽い調子。でも、その声の奥には、冗談ではない硬さが潜んでいた。
私は答えられなかった。答えてしまえば、今の関係が変わる気がした。
「わからない」
それだけ絞り出した。
「そっか」
真帆は窓の外を見た。雨粒が彼女の瞳に映り込んで、ガラスの水滴と同じ形で揺れた。
⸻
部長の陸先輩が入ってきた。
「おーい、共同制作の下地、乾いたぞ。次の色、どうする?」
空気が一気に動いた。
私は慌てて鉛筆を走らせる。紙の上に線を増やすことで、さっきの会話を消そうとした。
「佐伯さん、どうする?」
陸先輩が私をまっすぐに見た。
「……光を、少し足したいです」
「いいな。佐伯らしい」
その声に救われる。けれど同時に、真帆が何も言わずに筆を握りしめるのが視界の端に見えた。
⸻
作業の合間。雨脚は強くなり、窓を打つ音が大きくなる。
真帆は筆を置き、私の隣に座り込んだ。
「さっきの、忘れていい」
「……」
「忘れて。佐伯さんが困るなら」
そう言う声は、笑いを装っていたけれど、どこか震えていた。
忘れる? 本当に?
私は喉の奥に言葉を積んだまま、出せなかった。
⸻
帰り道、雨はまだ止んでいなかった。駅までの道を、二人で傘を半分ずつ差す。肩が触れそうで触れない。触れない距離を、互いに計っている。
「今日も、放課後一緒に描いてくれてありがとう」
真帆の声は、傘の内側で柔らかく反響する。
「こちらこそ」
その先に言葉を足せなかった。
喉に残った言葉は、雨粒のように落ちきらず、胸の奥で滞っている。
——告げられない言葉は、描かれない線と同じだ。
けれど確かに、そこにある。
駅の改札で別れるとき、私は小さく息を吸った。
「明日も……放課後」
「うん。放課後」
彼女の声は、濡れた髪の匂いと一緒に、私の耳の奥に残った。
⸻
夜。机の上でスケッチブックを開く。
今日描いた瓶の影の隣に、言葉をひとつだけ書き足した。
「言えない」
その二文字が、胸の奥で濡れて滲んだ。
消そうとしても、もう消えない。
——明日、描けない線にまた手を伸ばす。
そう思いながら、私はページを閉じた。