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第7話 告げられない言葉

——言えないまま、喉に残る色


 水曜の放課後。美術室の窓は少しだけ曇っていた。外は雨。しとしとと落ちる水の音が、遠くの校庭を均一に濡らしている。ガラスの外側を伝う雫は線になり、やがて滴に変わる。その一滴が落ちるたびに、胸の奥でも何かが小さく弾んだ。


 私がスケッチブックを開いていると、真帆が机に身を投げるように腰を下ろした。濡れた髪から水滴が垂れて、制服の袖を濃い色に染めていく。


「雨、好き?」

「嫌いじゃない。音が一定で、呼吸が揃いやすいから」

「佐伯さんらしい答え」

 真帆は笑って、濡れた前髪を手で払い、私のスケッチブックを覗き込む。


 描いていたのは静物の瓶。だけど、線はいつもより揺れていた。理由は分かっている。雨で空気が重いせいじゃない。隣にいる彼女の存在が、私の鉛筆をいつもより強く震わせている。


「ねえ、好きかもしれない——」


 真帆が不意に言った。


 鉛筆の先が止まる。紙に小さな傷がついた。


「……え?」

「もし、私が好きっと言ったら。佐伯さんはどう思う?」


真帆は軽く微笑みながらも、目は紙の上ではなく私の横顔を見ていた。


 喉がひゅっと詰まる。言葉が空気の中で固まる。


「どうして、そんなこと……」

「ふと思っただけ」


 軽い調子。でも、その声の奥には、冗談ではない硬さが潜んでいた。


 私は答えられなかった。答えてしまえば、今の関係が変わる気がした。


「わからない」


 それだけ絞り出した。


「そっか」


 真帆は窓の外を見た。雨粒が彼女の瞳に映り込んで、ガラスの水滴と同じ形で揺れた。



 部長の陸先輩が入ってきた。


「おーい、共同制作の下地、乾いたぞ。次の色、どうする?」


 空気が一気に動いた。

 私は慌てて鉛筆を走らせる。紙の上に線を増やすことで、さっきの会話を消そうとした。


「佐伯さん、どうする?」


 陸先輩が私をまっすぐに見た。


「……光を、少し足したいです」

「いいな。佐伯らしい」


 その声に救われる。けれど同時に、真帆が何も言わずに筆を握りしめるのが視界の端に見えた。



 作業の合間。雨脚は強くなり、窓を打つ音が大きくなる。

 真帆は筆を置き、私の隣に座り込んだ。


「さっきの、忘れていい」

「……」

「忘れて。佐伯さんが困るなら」


 そう言う声は、笑いを装っていたけれど、どこか震えていた。


 忘れる? 本当に?

 私は喉の奥に言葉を積んだまま、出せなかった。



 帰り道、雨はまだ止んでいなかった。駅までの道を、二人で傘を半分ずつ差す。肩が触れそうで触れない。触れない距離を、互いに計っている。


「今日も、放課後一緒に描いてくれてありがとう」


 真帆の声は、傘の内側で柔らかく反響する。


「こちらこそ」


 その先に言葉を足せなかった。


 喉に残った言葉は、雨粒のように落ちきらず、胸の奥で滞っている。


 ——告げられない言葉は、描かれない線と同じだ。


 けれど確かに、そこにある。


 駅の改札で別れるとき、私は小さく息を吸った。


「明日も……放課後」

「うん。放課後」

 彼女の声は、濡れた髪の匂いと一緒に、私の耳の奥に残った。



 夜。机の上でスケッチブックを開く。

 今日描いた瓶の影の隣に、言葉をひとつだけ書き足した。


「言えない」


 その二文字が、胸の奥で濡れて滲んだ。

 消そうとしても、もう消えない。


 ——明日、描けない線にまた手を伸ばす。

 そう思いながら、私はページを閉じた。

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