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第8話 夕暮れの廊下

——影の中で交差する視線


 木曜の放課後。窓の外は、昼の光がゆっくりと橙に傾き始めていた。


 美術室の蛍光灯はまだ点けられていない。窓から差し込む光と、壁に落ちる影のコントラストが強くなっていく時間。机の上の絵具皿に、橙色の光が薄く反射した。


「今日は廊下でデッサンしてみよう」


 真帆が言った。


「外の光を捕まえる練習。夕方の光は、影が長いから」


 私たちはスケッチブックを抱えて廊下に出る。

 夕日がガラス窓を染め、廊下の床に長い影を引いていた。壁に掛けられた案内ポスターさえ、影の中では異なる表情を持っているように見えた。


「ここに座ろう」


 真帆が廊下の端に腰を下ろし、スケッチブックを広げた。

 私も隣に座る。夕日の匂いが、インクと埃を混ぜたように漂っている。


「影は、逃げるから面白い」


 真帆は鉛筆を走らせながら言う。


「光が一秒ごとに形を変える。……佐伯さんも、逃げる?」

「え?」

「影みたいに。さっきの質問も、逃げられた」

 彼女の声は軽く笑っていたけれど、視線は真剣で、私は返事を失った。


「ここにいたか」


 不意に、陸先輩の声が廊下に響いた。


 私と真帆は振り返る。先輩は部室からスケッチボードを抱えて出てきて、私たちの前にしゃがみ込んだ。


「共同制作、展示の配置を変更するかもって話が出てる。二人の作品、もっと目立つ場所になるかもしれない」

「……そんな、大事な位置に?」


 胸が跳ねた。


「期待されてるんだよ。二人の“余白”の発想、先生たちも面白いって」


 先輩は私に向かってまっすぐ言った。


「佐伯、怖いか?」

「……少し」

「少しで済んでるなら、大丈夫だ」


 そう言って、先輩は私のスケッチブックを覗き込む。描きかけの線を見て、目を細めた。


「いい線だ。丁寧で、逃げない」


 逃げない、という言葉に胸が痛んだ。

 ——本当は、逃げたばかりなのに。


 真帆が黙ったまま鉛筆を動かしているのが、視界の端に見えた。

 鉛筆の先は少し荒く紙を削り、彼女らしくない迷いの跡を残していた。


 陸先輩が去ったあと、廊下に再び静けさが戻る。

 夕日はさらに傾き、光の帯が私と真帆の間に一本の境界線を作った。

 その境界線を挟んで、私たちは向かい合う。


「……さっき、なんで答えなかったの」


 真帆が鉛筆を止めて、低く問う。


「答えたら、変わると思った」

「変わるのが、怖い?」

「……うん」


 私は正直に言った。

 真帆はしばらく黙り、視線を窓の外に向けた。

 夕焼けに染まった彼女の横顔は、光と影の境界そのもののように見えた。


「私は、変わりたいけど」


 小さな声。聞き逃したら消えてしまうような声だった。

 それでも、その言葉は私の胸の奥に重く沈んだ。


 片付けの時間。部室に戻るとき、廊下の影はもう夜に飲み込まれかけていた。

 私は歩調を合わせながら、隣を歩く真帆の横顔を盗み見た。

 彼女は何も言わず、ただ窓に映る橙の残り火を目で追っていた。


 ——言えないままの言葉が、今日も胸に残る。

 でもそれは、昨日よりも濃い影を帯びていた。

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