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歩きスマホは即死刑
歩きスマホは即死刑
Amy
SFSFコレクション
2025年08月18日
公開日
7,051字
連載中
「今日から、歩きスマホは——即死刑です」 突如の首相談話で都市が凍りつく。 スバルと恋人みゆの日常は、音もなく壊れ始める。

第1話 首相の宣言

七日前、月曜の昼。特に予告もなく、各局は「首相緊急会見」のテロップを流した。


 「国民の皆さん。本日より、国内において歩きスマホの方は即死刑とします」


 城戸総理の声は淡々としていた。冗談に聞こえる余地はなかった。


 会見場は一瞬凍りついたが、やがて押し殺したざわめきが戻った。前列の記者が立ち上がる。

「総理、それは民主主義への明確な侵害では——」

 乾いた発砲音がひとつ。言葉は途中で切れ、記者は崩れ落ちた。会見場の奥で、無人のドローンがこちらにレンズを向け、ゆっくり旋回する。

 誰も立ち上がらない。誰も叫ばない。

 テレビの解説者は震える声で「お伝えします。新法は即日施行です」と繰り返した。


 その夜、スバルはいつものようにコンビニのバイトを終えた。閉店作業が押し、帰りは日付が変わる手前になった。人気のない交差点で、つい癖でスマートフォンを取り出す。既読をつけないままのメッセージが気になっていた。みゆからだった。——〈無理しないで。今日は早く寝て〉

 返信しようと親指が動いたとき、電柱の上から短い電子音が降ってきた。

 顔を上げる。街灯の縁に黒い球体が止まっている。レンズが赤く点いた。


「違反者を確認。追跡モードを起動します」


 頭が真っ白になる感覚は、思ったより静かだった。次の瞬間、心拍だけが現実を追い越す。

 ——逃げろ。

 体が先に反応した。スニーカーの靴底がアスファルトを蹴る。角を曲がるたび、背後で羽音がついて来る。一定の距離を保ちながら、逃がさない速度だ。


 狭い路地に入る。深夜の住宅地は驚くほど整然としていた。どの窓にも生活の気配は薄い。大通りに出れば人がいるかもしれない——そう思ったが、やめた。人がいる場所は照明も監視も多い。

 横丁のシャッター街を抜け、半分閉まった自動ドアをこじ開け、古い商業ビルの階段を駆け降りる。どのフロアも明かりが落ち、足音だけがやけに響いた。

 地下に通じる通路の手前で立ち止まり、スマートフォンを胸ポケットに押し込む。もう遅いかもしれないが、出しっぱなしよりはましだ。


 耳の奥で、会見の無表情な声が再生される。「違反は即時判定。例外はなし」

 何が“違反”なのかは、子供でもわかる。けれど、なぜ死刑なのかは誰も説明しない。安全のため、秩序のため——そんな言葉は簡単に使える。だが、今日の会見にあったのは説明ではなく、命令だった。


 地下通路はひどく静かだった。人とすれ違うたび、全員が下を向いて歩いていることに気づく。スマートフォンを見ていないのに、視線は床に落ちている。

 床は薄く光っていた。矢印、注意書き、足跡のアイコン。見慣れた広告は消え、行政ロゴと標語だけが整然と流れている。

 「上を見て歩こう」「深呼吸しましょう」「歩行中の端末操作は重大な違反です」

 文字はやさしいが、選択肢はない。


 遠くで羽音が止まった。追跡ドローンは地下まで来ないのか、それとも別の網に引き継いだのか。天井の照明に沿って、黒いレールのようなものが延びている。監視の“境界線”が地上と地下で切り替わるのだろう。

 構内放送が一度だけ流れた。

 「市民の皆様は安心して歩行してください。違反者のみ、迅速かつ正確に排除されます」

 安心という言葉ほど、安心を削るものはない、とスバルは思った。


 自販機脇のベンチで息を整える。指が胸ポケットのスマートフォンを探り、すぐ引っ込める。触らない。それだけで救われるほど、世界は甘くない。会見場で倒れた男のイメージが、目に焼きついて離れなかった。


 ——どこまでが冗談で、どこからが現実だったのか。

 今日に限っては、最初から全部が現実だった。


 通路の突き当たりで、白い無地のモニターが並ぶ区画に出た。以前は広告がぎっしり詰まっていたはずなのに、今は標語も地図もない。かわりに、足元の床だけが明るい。

 何気なく視線を落とした瞬間、短い文字列が浮かんだ。

 署名のように見える。作品に名前を書くみたいに。


 そのとき、背後で小さな気配がした。

 振り返る。古いシャッターの隙間から漏れる薄明かり。半開きの扉の向こうに、人影があるように見えた。

 躊躇したが、足はそちらへ向かった。逃げる場所が必要だったし、何より、確かめたいことが増えた。


 扉を押す。埃っぽい空気が鼻を刺す。中は空きテナントだった。かつて書店だったらしい棚が残り、壁際に電源の抜かれた端末が積まれている。その奥、男がひとり、スバルを見ていた。

 中年。薄い上着。目だけがよく動く。

「……お前、まだスマホを持ってるのか」

 第一声はそれだった。


 スバルはポケットに触れ、手を離した。

「誰だ」

「俺はもう“いない者”だ。十年前に死んだことになっている」

 男は笑わなかった。冗談にも聞こえなかった。


 胸の鼓動がまた速くなる。逃げ出すべきか、話を聞くべきか。

 男は自分の名を名乗った。田島。

 スバルは、その名前を床の署名と結びつけた。

 偶然とは思えなかった。


 地下通路の奥で、再び羽音がした。長くは留まれない。

 それでもスバルは、一歩だけ奥へ進んだ。


 ——逃げるのは後でもできる。今は、何を相手にしているのかを知りたい。

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