都市は静かだった。驚くほど、異常なほどに。
地上の広場では赤い点滅が足元に灯り、地下通路では床の表示が一定の間隔で流れていく。人々の歩幅は揃い、誰も余計な動きをしない。
スバルは二十分ほど地下を歩き続け、やがて人影の薄い区画に入った。数時間前に追跡された恐怖は残っている。だが、今は別の種類の緊張が勝っている。都市が何をしているのかを知りたい。
構内放送は定期的に同じ文言を繰り返す。
「歩行中の端末操作は重大な違反です」
「市民の皆様は、安心して歩行してください」
安心という語が、手順のように街に貼り付けられている。
さきほど入った空きテナントの奥。書棚の影から、中年の男が出てきた。
「落ち着け。座れ」
椅子はないので、木箱に腰を下ろす。男は部屋の隅から旧型端末を引っ張り出し、電源だけ入れた。通信は切られているらしい。
「田島さん、でいいのか」
「そう呼ばれていた」
短いやり取りのあいだに、スバルは相手の目の動きと呼吸の乱れを観察する。脅しの類ではない。何かを伝えに来た人間の目だ。
「まず、お前の疑問に答える。歩きスマホの禁止は目的じゃない。ただの前処理だ」
「前処理?」
「情報の出力先を都市に集約するためだ。手元の端末は分散端末。そこには選択がある。国家にとって扱いづらい。だから、街をスマホにする」
言い回しは比喩めいていたが、内容は単純だ。手元の画面を奪い、足元に移す。表示の方向を変えるだけで、人の動きは変えられる。
田島は床を指差した。
「表示はただの案内じゃない。視線の誘導、行動の予測、反応の計測。全部が同時に動く。どこを見て、どこで立ち止まり、何秒迷ったか。都市は記録している」
「そんなことが可能なのか」
「可能だ。設計者が言う。もともとは老人や子供の安全のために作った。だが、途中で目的が変わった」
田島は端末の画面をスバルに向けた。オフラインのまま開ける内部ログがいくつか残っている。英数字の羅列、テスト動画、仕様書の断片。
「Project Surface。首相直属の国家プランだ。開発初期は避難誘導と医療情報が中心だったが、二年前から運用が変わった。視線の“上げ下げ”の管理から、選好の操作へ」
「誰が変えた」
「ここで名前は出せない。だが、NCI社が民間の窓口になっている。——みゆは知っているはずだ」
その名に、スバルの指がわずかに動いた。
みゆ。研究に真剣で、過剰にまっすぐな恋人。最近は忙しいと言って会う回数が減っていた。NCI社に出入りしていることは知っていたが、仕事内容は詳しく聞いていない。聞かなかったのは、彼女を信じたかったからだ。
「勘違いするな。彼女が悪いと言っているわけじゃない。現場は目的の変更を知らされないことが多い。俺もそうだった」
田島はそこでいったん黙り、呼吸を整えた。
「俺は、開発責任者のひとりだった。十年前に“死んだこと”になったのは、立場を消す必要があったからだ。反対した。視線の誘導は、意思の誘導になり得る。線を引くべきだと」
言葉は平板だが、音の端に固いものが残った。
「なら、どうして死刑なんだ」
スバルは率直に問うた。
「抑止だ。最初に大きく振り切って、行動を止める。人は罰の最大値で自分の選択を測る。やがて罰が機械的に運用されれば、考える前に従うようになる」
説明は簡潔で、残酷だった。
会見場で倒れた男の姿が、言葉の裏づけになった。例外はない。その事実だけで、人は自分を縛る。
どれだけの人間がこの仕組みを知っているのか。スバルは自分の呼吸の浅さを意識した。
「止められるのか」
「完全には無理だ。都市の半分は既にこれで動いている。だが、止めどころはある。同期の“揺らぎ”を増幅すれば、命令の意味が薄れる」
「具体的には」
「床の継ぎ目だ。すべての表示は連続しているわけじゃない。継ぎ目には遅れがある。そこに別の情報を差し込めば、システムは迷う。迷えば、人は考える」
言葉の途中で、構内にアラートが走った。
「違反者反応、区画B-7にて検知。排除プロトコル発動」
スピーカーの音質は粗く、逆に現実味があった。
田島が端末を閉じる。
「来たな。ここで話している時間はない」
「逃げるのか」
「選ぶのはお前だ。逃げてもいい。生き延びろ。それも選択だ」
スバルは答えを飲み込み、床を見た。矢印が一定のリズムで流れている。表示の切れ目が、数メートルごとに薄い帯になって現れては消える。
継ぎ目。
そこに希望を見た自分に、少し驚いた。
「逃げない」
スバルは言った。
「終わらせに行く。やり方は知らない。だが、何もしないほうが怖い」
田島は小さくうなずいた。
「なら、向こうへ行く。上ではなく、下だ」
「下?」
「都市は上から見張る。だが、制御は下にある。足元のさらに下だ」
空きテナントの扉が風で鳴った。足音はまだ遠い。
スバルは胸ポケットのスマートフォンを確かめ、取り出さなかった。
触らないことが目的ではない。触らずに、考えることが目的だ。
みゆの名前が頭に浮かぶ。会ったら何を言えばいい。信じたい。だが、確かめるしかない。彼女もまた、選ばされた一人かもしれないのだから。
田島は壁のパネルを外した。配線の束が覗く。床の表示は変わらないが、足元のどこかで小さな遅れが生まれた。
「見ろ。一拍だけ、矢印が遅れる」
言われてみれば、確かにそう見える。わずかな違和感。だが、人は違和感を無視する。都市はそれをよく知っている。
「違和感を増やす。それが最初の一手だ」
再びアラート。先ほどより近い。
スバルは立ち上がる。
「田島さん」
「何だ」
「案内は、あんたがやってくれ。俺は走る」
田島はわずかに笑った。
「いい返事だ。——行け」
スバルは通路へ飛び出した。
床の継ぎ目を踏む。矢印に従わず、半歩ずらす。
背後で、機械の羽音が大きくなる。
前方の掲示に、短い文が流れた。
「上を見ろ」
スバルは上を見ない。代わりに、前を見た。
終わらせに行く。
その言葉だけが、今のところは十分な計画だった。