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第4話 秘密の囁き

 研究室の明かりは、いつもより早く落ちていた。

 午後八時。みゆは小さく首をかしげ、扉の前で立ち止まった。


「彩花……もう帰ったのかな」


 返事はない。ドアノブを押し下げると、わずかに油の切れた音がして、研究室の中が現れた。

 机の上に積まれた資料は整然としているのに、空気にはどこか途切れた気配があった。


 椅子の下に転がっていたのは、黒いUSBメモリ。

 拾い上げた瞬間、みゆの胸にざわめきが走った。彩花は几帳面な性格で、物を置き忘れることなど滅多にない。


 背後から足音が近づいた。


「どうした?」


 スバルだった。仕事帰りに立ち寄ったらしい。みゆはUSBを差し出し、小さく首を振った。


「彩花がいないの。連絡もつかない。それに……これが残されてた」


 二人は研究室の隅にある古いパソコンにUSBを差し込んだ。

 黒い画面に、乱れた文字列が浮かび上がる。


 ――《床ディスプレイ 行動制御プロトコル》


 映像が自動的に再生された。

 無人の交差点。床に走る光が、歩行者の足元を制御するように点滅していた。

 その人々は立ち止まる。横断歩道が青になっても、足は動かない。

 映像の最後に表示された赤い文字。


 ――《国家安全保障プロジェクト/拡張モード:思考誘導》


 スバルは息を呑んだ。

「これ……交通案内のための機能じゃなかったのか?」


 みゆは唇を噛んだ。

 彩花はずっと「床ディスプレイの医療利用」に取り組んでいた。歩行障害や認知症患者を支援するための技術。それを誰よりも信じていた。

 その彩花が、真逆の証拠を握ってしまったのだろうか。


 モニターの隅に、住所と思しきコードが浮かんでいた。

 郊外の倉庫街の一角。


「行こう」


 スバルが言った。

 みゆは一瞬ためらったが、頷いた。彩花の行方と、このUSBの意味を確かめなければならない。


 夜風は湿っていた。

 倉庫街は人気がなく、街灯の光も頼りなかった。

 USBに示された番地にたどり着くと、そこには錆びついた鉄の扉が立ちはだかっていた。


「ここ……?」


 みゆの声は震えていた。


 扉の前に立った瞬間、二人の背筋に冷たい感覚が走る。

 誰かに見られている。

 振り返っても、人影はなかった。


 扉には電子錠が取り付けられていた。

 試しに触れると、警告音が鳴りそうな気配がした。

 スバルは思わず手を引っ込めた。


「開けるのは無理かもしれない」

「でも、彩花がここに――」


 その時、遠くからかすかな囁き声が届いた。

 風の音とも、機械のノイズとも区別がつかない。だが確かに、耳に残る。


 ――この法律、最初から人を守るためじゃなかった。


 スバルとみゆは顔を見合わせた。

 声の主を探そうとしたが、誰もいない。倉庫の壁が、闇に沈むだけだった。


 沈黙の中、スバルは強く息を吐いた。

「……戻ろう。証拠はある。今は深入りしすぎない方がいい」


 みゆは頷いた。だが、その視線は鉄の扉に釘付けのままだった。

 扉の向こうには、見てはいけないものが眠っている。

 それを知りながら、二人は背を向けた。


 振り返れば、闇の中に赤い光が点滅していた。監視カメラのランプだ。

 二人の存在は、すでに記録されていた。

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