研究室の明かりは、いつもより早く落ちていた。
午後八時。みゆは小さく首をかしげ、扉の前で立ち止まった。
「彩花……もう帰ったのかな」
返事はない。ドアノブを押し下げると、わずかに油の切れた音がして、研究室の中が現れた。
机の上に積まれた資料は整然としているのに、空気にはどこか途切れた気配があった。
椅子の下に転がっていたのは、黒いUSBメモリ。
拾い上げた瞬間、みゆの胸にざわめきが走った。彩花は几帳面な性格で、物を置き忘れることなど滅多にない。
背後から足音が近づいた。
「どうした?」
スバルだった。仕事帰りに立ち寄ったらしい。みゆはUSBを差し出し、小さく首を振った。
「彩花がいないの。連絡もつかない。それに……これが残されてた」
二人は研究室の隅にある古いパソコンにUSBを差し込んだ。
黒い画面に、乱れた文字列が浮かび上がる。
――《床ディスプレイ 行動制御プロトコル》
映像が自動的に再生された。
無人の交差点。床に走る光が、歩行者の足元を制御するように点滅していた。
その人々は立ち止まる。横断歩道が青になっても、足は動かない。
映像の最後に表示された赤い文字。
――《国家安全保障プロジェクト/拡張モード:思考誘導》
スバルは息を呑んだ。
「これ……交通案内のための機能じゃなかったのか?」
みゆは唇を噛んだ。
彩花はずっと「床ディスプレイの医療利用」に取り組んでいた。歩行障害や認知症患者を支援するための技術。それを誰よりも信じていた。
その彩花が、真逆の証拠を握ってしまったのだろうか。
モニターの隅に、住所と思しきコードが浮かんでいた。
郊外の倉庫街の一角。
「行こう」
スバルが言った。
みゆは一瞬ためらったが、頷いた。彩花の行方と、このUSBの意味を確かめなければならない。
夜風は湿っていた。
倉庫街は人気がなく、街灯の光も頼りなかった。
USBに示された番地にたどり着くと、そこには錆びついた鉄の扉が立ちはだかっていた。
「ここ……?」
みゆの声は震えていた。
扉の前に立った瞬間、二人の背筋に冷たい感覚が走る。
誰かに見られている。
振り返っても、人影はなかった。
扉には電子錠が取り付けられていた。
試しに触れると、警告音が鳴りそうな気配がした。
スバルは思わず手を引っ込めた。
「開けるのは無理かもしれない」
「でも、彩花がここに――」
その時、遠くからかすかな囁き声が届いた。
風の音とも、機械のノイズとも区別がつかない。だが確かに、耳に残る。
――この法律、最初から人を守るためじゃなかった。
スバルとみゆは顔を見合わせた。
声の主を探そうとしたが、誰もいない。倉庫の壁が、闇に沈むだけだった。
沈黙の中、スバルは強く息を吐いた。
「……戻ろう。証拠はある。今は深入りしすぎない方がいい」
みゆは頷いた。だが、その視線は鉄の扉に釘付けのままだった。
扉の向こうには、見てはいけないものが眠っている。
それを知りながら、二人は背を向けた。
振り返れば、闇の中に赤い光が点滅していた。監視カメラのランプだ。
二人の存在は、すでに記録されていた。